【短編】アレスの丘 -世界最初の殺人裁判-
◇
世界初の裁判というものを皆さま、ご存知でしょうか。
『アレスの丘』
と今は呼ばれる小高い丘にて、大昔、神々によって最初の裁判が執り行われました。
被告人として鎖に繋がれて法廷に立つのは何者か。
彼の名を、アレスと申します。
この地にて裁かれし戦神アレスの名を取って、原初の裁判の地をアレスの丘と呼んだのです。
では、アレスは何の罪によって法廷に立たされたのか。
それは殺人の罪にございます。
つまりこの物語は、世界最初の殺人事件の裁判物語にございます。
ご清聴の皆さまにおかれましては、どうぞ傍聴席に座った心地でお聞きくださいませ。
◇
アレスの丘とまだ呼ばれる前の、この小高い丘はとある都の北西にありました。
八百万の神々も都市の人間も、裁判という初めての聞き慣れぬイベントに興味津々でした。
法廷を仕切るのは法と掟の女神テミス様。
皆さまよくご存知の、裁判所に飾られている美しい彫像の元になった方でございます。
しかしこれは世界最初の裁判です。
つまり、これはテミス様にとっても初めての法廷でございました。
「参りました。こうも早く、神々の法に照らして裁判に臨む日がやってこようとは……」
テミスは冷静沈着にして公平で良識ある女神です。
しかしこれから裁かれる被告人はオリュンポス十二神、それも主神ゼウスの嫡男アレスです。
そして告訴人は同じくオリュンポス十二神、海の神ポセイドンでした。
天のゼウス、冥のハーデス、そして海のポセイドン。
三界の支配者の一人が、その長であるゼウスの後継者候補に厳罰を求めているのです。
どちらも身内に違わず、これを主神ゼウスの一存で差配する訳にはきっといかなかったのです。
そこで法の女神テミスの出番です。
オリュンポス十二神ではなくティターン神族の生き残りである彼女は、私情に囚われずに誰もが納得できる公平な裁きを下すことができると選ばれたのでございます。
……しかし。
「……ああ、胃がキリキリ痛む。世界初の裁判で、よりにもよって世界の支配者たちを裁くとは。法律にはまだ不備が多いというのに、裁く側の苦労も知らないで」
と、テミス様は重責に苦しんでいました。
そのような苦悩など聴衆は知る由もなく、白だ黒だとざわざわ論じて盛り上がっております。
アレスの丘は現代的な法廷の建築様式ではありません。
せいぜい石造りの柱や台座があって、縄を張って聴衆を遠ざけている程度でございます。
天高く太陽のぼり、三月の温かな風が吹く。
きっと手弁当や酒を持ち込んでいた不敬な人間や神々もいたでしょうね。
「おいおい、まだはじまらないのか」
「乱暴者のアレスがどんな罰を受けるか愉しみだなぁ、ええおい」
「俺はポセイドンの負けに賭けるぞ!」
やれやれ、見物人はのんきなものでございます。
「被告人、アレスをここに」
テミスの言葉に従い、義憤の女神ネメシスが被告人アレスを連行してきました。
ここで聴衆が色めき立ちます。
鎖に繋がれた戦神アレスの哀愁漂う美貌が狂おしいほどに美しかったのでございます。
アレスと申せば、天界でも一、二を争う美男子と名高い方でした。
ああ、語り部のわたくしは美男に興味は乏しいのですがね、しかし魅力的な美貌に名声を兼ね揃えた者が罪に問われて手枷をハメられ、鎖に繋がれて歩くさまは背徳的な趣がございます。
乙女と見紛うような美少年を鎖につないで拉致監禁したい、深夜の公園をわんこのように歩かせてみたいというよからぬ願望をお持ちの方もどこかにいて不思議ではありません。
「ああ、うるさいなぁ、もう……」
アレスはやつれていました。
義憤の女神ネメシス、彼女は復讐の女神とも呼ばれており、罪に問われたアレスは手酷い取り調べを受けていたのでございました。
暗くジメジメとした岩の牢屋に閉じ込められて、アレスは裁判の日を待っていたのでございます。
「ボクは嫌いなんだけどなぁ、キミたちみたいな有象無象のゴミカス女どもなんて」
足を引きずりながら悪態をつくアレスのつぶやいた小さな言葉も虚しく、色めき立つ女神や精霊、そして人間の子女たちは声援を送ります。
いえいえ、しかし何も美貌だけが理由ではございません。
彼女らとて外見容姿のみでアレスを好いて応援しているのではなく、確たる理由があったのです。
アレスの殺人事件の“動機”こそ、その女性人気の真なる源でした。
「被告人アレス、これより汝の罪を問う裁判を執り行います」
「……テミス、何だいこの茶番は。裁判? なんの意味があるの? ボクの首を刎ねてタルタロスの深淵に投げ入れる、それで終わりだろう? 無駄に長引かせて、笑いものにしないでほしいよ」
アレスの態度はひどく無礼でした。
しかしテミス様は無闇に咎めはせず、凛として「裁判とは、真実と正義を見極めるものです。はじまる前から結果の決まっている裁判などあってはなりません」と告げ、着席を求めました。
つづいて、原告側の海神ポセイドンら被害者親族が入廷します。
さて、この裁判、まだ検事と弁護士といった法制度は確立されておりません。
それどころか、揉め事があったならば仲裁人や上役が独断で裁定を下したり、それでもまとまらなければもはや石と棍棒、剣と矢で殺し合う他に解決法がなかったのです。
法律という概念など、まだ神々にも人々にも根づいていませんでした。
そうした原初的な裁判において、罪を追求する側、検事の立場にあるのは告訴人である海神ポセイドン、その関係者、そして義憤の女神ネメシスでした。
「我、ネメシスは海神ポセイドンの憤りをここに代わって表す。罪を犯せし者、アレス。汝は海神ポセイドンの息子、ハリロティオスを殺害した。これは事実であるか?」
殺害。
この言葉の重みに聴衆はどよめきます。
誰もが事件の全容を知るわけではなかったので噂の真実を求め、やがて皆、静まり返ります。
「……ああ、ボクが殺した」
アレスの言葉に一気にドッと見物人たちがざわめきます。
「静粛に!!」
それを制すべく、法の女神テミスは司法の剣で石床を叩き、その激震で大地を震わせます。
かつて古の神々との大戦、ティタノマキアーで武威を揮った彼女の武力に皆、私語を慎みます。
(……はぁ、先が思いやられます)
テミスは苦悩を鉄面皮に隠しつつ、アレスに「事実と認めるのですね」と再確認します。
そうするとそっけなく「テミス、キミにウソをついて騙し通せると考えるほどボクはバカじゃない。ボクを愚弄してるのか?」 と軽く睨みつけてきます。
その眼差しは昏く、眼光は弱く、それでも恐ろしいものでした。
負の戦いを司る神のひと睨みに動じぬ調停者など、テミスの他にそうはいないでしょう。
「ポセイドンの息子、ハリロティオスを殺したのはボクだ。ボクに謝罪も反省も後悔もない」
そう言い切ったアレスの態度に、激怒した海神ポセイドンが怒声を浴びせます。
大海の支配者の叫びは荒れ狂う大海原のように恐ろしいものでした。
「テミス! 即刻こいつの四肢を割き、タルタロスの暗黒に投げ捨てさせろ! 儂がやる!!」
三又槍を手に憤るポセイドンを相手に、これまた法の女神テミスは一歩も退きません。
司法の剣を掲げて、こう言い返します。
「黙れ青二才! ティタノマキア―の折、貴様らの心の臓を貫かずにおいたのはお前たちクロノスの小童どもにも一縷の正義があると見逃してやったまでのこと! 暴力で法を軽んじるというのならば、今ここでお前を刺し違えてでも原初の海ポントスに捧げる贄にしてくれる!」
冷静沈着で知られる法の女神のキレっぷりに、ポセイドンもアレスも観客も唖然とします。
その背後には幻視できたことでしょう。
山をも越える、巨神ティターン神族たち最後の一柱、テミスの巨大なる威容が――。
「……失礼した。テミス、息子を殺されたことで頭に血が昇っていたのだ。裁判を続けてくれ」
ポセイドンが三又槍を収めた。
これはとても大きな意味がございました。
『剣無き秤は無力にすぎず、秤無き剣は暴力にすぎない』
司法とはかくあるべし。
法の女神テミスを象徴するのは剣と天秤、そのどちらが欠けても正しき裁判は執り行われない。
こうして世界最初の裁判が開廷したのでございます。
◇
義憤の女神ネメシスは法廷の石台に立ち、高らかに罪状を読み上げます。
「被告人アレスは告訴人ポセイドンの息子、ハリロティオスを殺害した。この点は双方認め、事実として争う点ではない。よろしいか、調停者テミス」
ネメシスの瞳は静かな怒りの火を宿します。
彼女は義憤、そして復讐の女神。私情ならざる正義の怒りに燃えているのです。
それでいて言葉には感情だけでない理知もあり、この裁判を弁論にて闘う姿勢を示します。
法の女神テミスはそれを好ましいとして、殺害に争点がないことを確認します。
「ハリロティオスを殺害したのはアレスだという事実は、しかし即刻に彼を処罰する理由には不十分です。この殺人裁判の争点は、だれが殺したかでもなければ、どうやって殺したかもでもない。なぜ、どうして殺したのか。それが有罪か無罪を分ける争点でしょう。ネメシス、つづけなさい」
だれが、どうして、どうやって。
犯人、動機、手段。
これは後々、皆さまが親しまれる推理小説における謎解きの焦点として有名になるものです。
この世界最初の殺人裁判においてもこの原則は、むしろ原点だからこそ成り立ちます。
犯人はアレス。
手段は撲殺。
この後にアレスの丘と呼ばれる地の近くにある神域の美しい泉にて、返り血を浴びたアレスと殴り殺されたハリロティオスが複数名に目撃されたことが事件のはじまりです。
主神の嫡男、戦神アレスによる暴行死事件。
なぜアレスは凶行に至ったのか、観衆はその謎が解き明かされることを求めていました。
「私はアレスを取り調べることにした。しかしこの者は真実を語ろうとせず、黙っている。真実を隠すなど許されざることだ。幾度か拷問にかけたが、それでもだ」
ネメシスの言葉にテミスは眉根をしかめます。
取り調べに拷問を用いた、ということが法の女神テミスにとって看過できないことでした。
「ネメシス、拷問は真実を解き明かす手段として不十分です。今後は許しません」
「なぜだ? 殺人者の口を割らせようとして何が悪い? それが法律だとでもいうのか?」
テミスはほんの十数枚しかない薄い羊皮紙を束ねた法律書を示します。
この法律書はまだ完成形には程遠く、神々の決め事をざっくりとまとめたにすぎないものです。
「ネメシス、この法の書に拷問を禁じる条文はありません。この法律というものはまだ年端もいかぬ幼子のように不完全で幼稚なものだからです。しかしだからといって法の精神を軽んじるべきではない。不正義の暴力を戒めること、それがこれから育ちゆく法律という新たな概念の精神です。そして真実を求める行いは、正しく公平に行われなければいけない。拷問という強制力によって無理やり引きずり出された言葉のどこに公平さがあるか、私に説明できますか、ネメシス」
テミスの言葉は美しき剣。
ネメシスの沈黙は錆びた剣でございました。
「……わかった。今後は善処する」
「よろしい。ネメシス、黙秘する権利については今後の法律の課題としましょう。今はまだ条文化するには早い。それより大切な事実は、アレスは動機について黙秘をつづけたということです。彼の口から語られぬ以上、我々がこの法廷でその真実を紐解いていきましょう」
「はっ。……では、先に被害者について。証言者としてハリロティオスの母、ハリエーをここに」
石造りの証言台に立つのは海の精、ネレイドの一人、ハリエーです。
ネレイドは五十人の姉妹とされ、ハリエーはその中では目立たない人物像でした。
「ポセイドン様の側室が一人、ハリエーです。この度は愛する息子の死について真実を知る機会を設けていただきましたこと、母としてご尽力いただいた皆さまに感謝を申し上げます」
ハリエーは丁寧に頭を下げ、ネメシスが彼女に問います。
「では、まず汝の子ハリロティオスについて簡潔に述べなさい」
「……はい。母親目線を差し引いても、ハリロティオスは善良で皆に愛される子であったと記憶しております。父ポセイドンを手本にして勇猛であり、それでいて海への愛が深く、イルカのような海獣の世話を好んで行う活発で人懐っこい子でした。私だけでなく、海のものに聞けばハリロティオスを悪く申すものはいないでしょう」
「では聴衆よ! 海より訪れし者よ! 誰かハリロティオスの悪評を知る者はいるか!」
ネメシスの呼びかけに応じる者は誰もいません。
「ならばハリロティオスがいかに善良なるかを知る者はいるか!」
そう問いかければ、幾人もの聴衆が挙手をしてハリロティオスのことを良く語りました。
全員に証言させてはキリがないほどで、まとめれば「死んで当然の悪人ではない」という話に。
「ハリロティオスは生前に善人として愛されていた。この事実は、それを殺めたアレスの悪行がいかに多くのものを悲しませた罪深いものかを明らかにする。オリュンポス十二神といえど、血筋としてはハリロティオスは従兄弟であり、海の神ポセイドンと海の精ネレイドの子ならば身分の差を理由に減刑はしがたい。私、ネメシスは厳罰を代わって求める」
「告訴人側の主張は理解しました。ハリロティオスは善人である。それを事実と認めることに、被告人アレス、異論はありますか」
「……ないよ。ハリロティオスはボクの従兄弟だ。いっしょに遊んだ仲だからね。あいつは良いやつだったよ。うん、最後まで良いやつだった」
鎖に繋がれたアレスはどこか遠くを眺めながら言葉します。
その言動はどこか上の空。早く終わってくれないかな、とでも言いたげです。
「証人、ハリエー。今のアレスの言葉は事実ですか」
「……はい。ご存知のようにゼウス様とポセイドン様は親しいご兄弟、互いの子供同士が親しく交流することは母親としても望ましいことでした。アレス様がご立派に成長なさってからも疎遠になることなく、海をたずねてきた際いっしょに魚釣りを楽しんでいたのをよく覚えております。なのに、どうしてあの子を……」
昔を振り返ったことで情感が溢れすぎたのか、ハリエーは大粒のナミダを袖で拭います。
アレスはそっぽを向き、何も答えません。
「被害者と加害者には友好な交流関係があった。それがなぜ殺害に至るのか。やはり動機を解明できないまま判決は下せない。当法定は、ポセイドンとアレスを除いた十二神と調停者である私の話し合い、評決で意志を決定する。十分な判断材料が出揃うまでは結審はできません。ネメシス、次を」
「はっ。証人、泉の精デーローをここに」
証言台に立たされた泉の精。
デーローは凡百の泉の精に過ぎず、本来名もなき妖精でしかないので神々の今後を左右する世界最初の殺人裁判という大舞台に戦々恐々として、その幼気で小柄なカラダをより縮こませていた。
「あ、あの、で、デーローと申します。ほ、本日はおひがらもよくごきげんいか……」
「余計な挨拶は不要だ。質問に答えればいい」
「は、はいネメシス様!」
デーローは緑髪をしきりに触って所在なさげにしながらネメシスの質問に答えます。
「証人デーロー、汝はハリロティオス殺害の一部始終を目撃した。相違ないな」
「は、はい! 天地神明に誓って!」
「事前の聴取に証人デーローはこう答えている。証人は自分の住処である泉にて日常生活を送って昼食にリンゴを食そうとしていた矢先、怒声を聞きつけて殺害現場へと急行した。そこでは池のほとりで拳闘するハリロティオスとアレスの姿があり、最初は応戦できていたが次第にアレスに圧倒され、最後には激怒するアレスに撲殺されるに至った。間違いはないか?」
「は、はいです。凄まじい形相で、うっかりリンゴを池に落として食べ損ねました……」
「この撲殺、証言では戦いに事実上の決着がついた上でトドメを刺している。両者の間に殴り合いの喧嘩になる理由が何らかあったにせよ、最終的に、明確な殺意を持って殺してしまっている。喧嘩の弾みで意図せず殺したわけではない。そう見えたのだな」
デーローは問われて激しく首を縦に振ります。
鬼気迫るアレスの形相が蘇るのか、デーローは彼から目を背けて震えた声で答えます。
「は、はい。死ね、殺す、みたいなことを何度も叫びながら殴るのをやめなくて……」
「聞いたな、テミス。この殺人はお前が言うところの正当防衛だとか、不慮の事故だとか、やむをえずに殺してしまった事情がある訳じゃない。明確な殺意だ。厳罰に処す根拠に足るはずだ」
ネメシスの言葉をアレスは否定しない。
明確な殺意に基づく撲殺。
それでもまだ、なぜそうまでして親しかった従兄弟を殺さねばならなかったのかがわからない。
生々しい殺害当時の証言に、告訴人席の母ハリエーが人目を忍んで密かに泣いている。
海神ポセイドンは妻をなだめ、不動の姿勢を貫く法の女神テミスを睨まれます。
それでもまだ、テミスは真実を求めて、裁判を続行するのでした。
◇
裁判のなりゆきはしばらくの間、事実確認に終始することになりました。
神域の泉にいた目撃者は皆、ほとんど同じことを証言します。
『アレスはハリロティオスを殴り殺した』
同じ証言であることは無駄ではありません。複数の証言があれば、それだけ正確性が上がります。
証言が積み重なることに、アレスの残虐な撲殺の一部始終が克明に物語られていきます。
アレスへ向けられる聴衆の視線はどんどんと険しいものになってゆきます。
しかし、テミスは結論を急ぎません。
まだ不可解な殺人動機を説明できる要因が欠如していたからです。
もちろん、もっともらしい推論を立てることはできます。
仲の良かった従兄弟同士のアレスとハリロティオスは些細な口論から喧嘩になり、そして殺し合った、と。そういう野蛮で幼稚な事件が過去になかったわけでもありません。
だからといって、確たる証拠、合理的説明のできぬままに断定することはできかねる。
法の女神テミスはそうした理知を働かせていました。
「……誰か、殴り合いのはじまる直前のことを知る者はいないのですか?」
テミスは違和感を言葉にしました。
アレスの犯行は多数の目撃者がいるのに、なぜアレスが犯行に至ったかを見たものがいない。
神域の泉にあれだけ目撃者がいるのに、これは不自然です。
すると一羽のキツツキがどこからともなく飛来して、証言台に降り立ちました。
「泉に関わる者、皆すべて真実を口にできないのです。皆さん命が惜しいのですよ」
ホホホ、とキツツキは笑います。
そうすると泉の妖精デーローは途端に青ざめて、キツツキを追い払おうとします。
「この! この! このウソつきキツツキ!」
「ホホホ、何とでも言いなさい! 木を突くのがキツツキなれば、奇を突くのもキツツキですよ。水や地面に接して生きる貴方たちは海神ポセイドンの怒りがよほど怖いとみえる。津波どころか地震を起こすのもポセイドンの権能ですからね。でも、鳥は飛べるのでね」
小鳥と妖精の追いかけっこ。
なんだか可愛げのある絵面になっているものの、キツツキの告発は大変なものでした。
テミスは思わず叫びます。
「貴様! 偽証したのか、証人!」
「ふえ! ギショーってなに? 悪いことなの?」
「悪いに決まっているだろう! 真実を求める法廷でウソをつくのは悪行だ! くっ、この法律書、偽証を禁じる条文もないのか! 本当に穴だらけだ!」
テミスは羊皮紙の束を思わず投げ捨てたくなる衝動を我慢します。
頭痛は余計に響くなる一方です。みんな裁判というものが手探りではじめてのことなので、まだ法廷でウソをついてはいけないという基本的なルールさえ周知徹底されず罰則もなかったのです。
「キツツキ! 津波に地震とはどういうことだ! 証言者たちは脅迫でもされているのか!?」
「いいえ、口止めされているわけではありません」
キツツキは泉の精たちをちらりと見ます。皆、不安そうに怯えています。
「証言する者は皆、己の身を案じているのです。告訴人、海神ポセイドンに楯突くような不利な証言をすることで泉が枯れ、地震が襲ってきたらどうします? 本人にその気がなくとも、偉大にして巨大すぎる支配者に楯突くことは我々ちっぽけな命には恐怖が勝ります。真実や正義を貫くには、その恐怖から守ってくれる味方が必要不可欠なのですよ」
「正義の……味方、か」
法の女神テミスは義憤の女神ネメシスに問います。
「ネメシス。もし証人に逆恨みの罰を下そうという者が現れた時、お前はどちらの味方をする?」
ネメシスは一切の迷いなく答えます。
「逆恨みなど言語道断だ。私は正しき者に味方する」
「ポセイドン。大海の支配者として君臨する賢明なお前のことだ。逆恨みで泉の精デーローやキツツキを罰することはしないはずだ。そうだろう?」
テミスの問いかけに、ポセイドンは渋々と肯定せざるをえなくなります。
テミスとネメシス、二柱の強大な女神を敵にまわしてまでたかが小鳥や妖精を潰そうと考えるほどポセイドンは愚かではありません。
そして何より、一番に真実を求めているのは被害者の母ハリエーでした。
「……ポセイドン様、私は本当のことを知りたいのです。どうしてハリロティオスは殺されねばならなかったのか。その真実を確かめることは、あの子の名誉を傷つけるかもしれない。それでも、このまま真相が闇に葬られてしまうより、ずっといい」
「……そうか」
ポセイドンは静かに首肯します。
「儂は卑怯者ではない。口封じも逆恨みもせぬ。この場に立つのは息子が正しかったと信じてのことだ。父親として真にハリロティオスを信じるならば、何も恐れることはない」
ポセイドンの威風堂々とした言葉に、テミスはフッと微笑します。
「先ほどは青二才とは言い過ぎた。オトナになったな、ポセイドン」
「いつまでも子供扱いする方がおかしいのだ、叔母上よ」
かくて再び泉の精デーローはキツツキを傍らに置きながら証言台に立つことになりました。
義憤の女神ネメシスは今度こそと真相についてたずねます。
「泉の精デーロー、なぜふたりは殺し合ったのか、お前の見聞きした真実を話すがいい」
「あ、あ、で、でも、その」
デーローは恐怖の眼差しを向けて、口を閉ざします。
その視線の先にいたのはポセイドンではなく、戦神アレスでした。
それまで空虚に時間が過ぎ去るのを待っていたアレスの目に、明確な意志が垣間見えたのです。
喋ったら殺す、と。
「い、言えないです。だって言っちゃダメなことだもん! みんな、みんな傷つくもん……」
デーローはうるうると涙ぐみ、塞ぎ込みます。
感情を剥き出しにしたアレスを見るに、いよいよこの裁判の核心に迫りつつあることは明白です。
テミスはゆっくりと言葉を紡ぎます。
「デーロー、真実は時に残酷です」
「……うん」
「そして現実もまた時に残酷です。真実とは、現実。真実に目をそむけるということは、現実から遠ざかっていくということです。ポセイドンも、ハリエーも、アレスも、お前自身も、現実を生きられなくなるということです。その選択は、ちっとも優しくはありません」
「……うん」
「証言を、おねがいします」
テミスの穏やかな説得に、ようやく、デーローは意を決したように口を開きました。
「本当はね、あのね、ちがうんです。デーローが見たのはアレスとハリロティオスだけじゃないんです。もうひとり、あの泉にいたんです」
「三人目……、それはだれですか?」
デーローは再びアレスの顔色を伺い、言葉を濁しかけますが、ぎゅっと拳を握って叫びます。
「アルキッペ! アレスの娘! アルキッペです!」
その名を叫んだ瞬間、聴衆は一気にどよめき、騒然としました。
この裁判がはじまる前、すでにある噂がまことしやかにささやかれていたのです。
『アレスの娘、アルキッペ』
アレスが捕まった直後から行方を眩ませ、姿を見せないことが噂になっていたのです。
彼女はアテナイ国のさる王女とアレスの娘、つまり神の血を引く人間でした。
このアレスの丘はアテナイの地の北西にあり、アルキッペは観客たちにとって国王様の孫娘にあたるのですから他人事ではありません。
そして噂はもう一つ、密かに人間たちの間では広まっていました。
『アルキッペはハリロティオスに言い寄られていた』
しかしテミスはこの噂を知らず、寝耳に水でした。
「……なんだと?」
テミスは嫌な予感がしてなりませんでした。
ここにきて突如浮上する第三の登場人物、そして観客がささやく不穏な単語の数々。
ようやく明らかになる事件の真相。
無罪か、有罪か、判決を決めねばならないテミスにとって真実こそ最大の苦悩の始まりでした。
「わたしが見たのは! アルキッペにフラレて、逆上して! 襲いかかるハリロティオスです!!」
空転する法廷。
逆転する裁判。
これまで被害者という文脈で語られてきたポセイドンの息子、ハリロティオスこそがアレスの娘アルキッペを犯そうとした加害者だったと泉の精デーローは証言したのでございます。
「アルキッペがです! 助けてって叫んで! そしたら危ないところでアレスが飛んできて! ふたりは争って、戦って、それで……ハリロティオスを殴り殺しちゃったんです……!」
アレスはうつむき、否定も肯定もせず。
ポセイドンもまた沈黙します。
外野がざわざわと大嵐に揺さぶられる黒き森のように騒ぎます。
(……ああ、胃が痛い。頭が痛い。痛いんですけど……!)
法の女神テミスは苦痛と苦悩を味わいながらも、ついに辿り着いた真実にかじりつかんとします。
◇
真実。
世界最初の殺人裁判、その被害者ハリロティオスは強姦未遂事件の加害者だった。
強姦未遂事件の被害者アルキッペは、駆けつけた父アレスによって助けられた。
そしてハリロティオスはアレスとの格闘戦の末、撲殺という末路を辿った。
泉の精デーローの告発を皮切りに、他の目撃者も重い口を開いた。海神ポセイドンによる逆恨みの復讐を、義憤の女神ネメシスが防ぐと約束してくれたことが幸いした。
「ハリロティオス、何故だ……」
ポセイドンは呆然とします。
海の皆に愛されるハリロティオス、自慢の息子の死ぬ理由としては受け入れがたいものでした。
なにかの間違いでは、とポセイドンの親族が質問を投げかけてみても、証言は崩れません。
真実は明らかとなったのです。
しかし、それが裁判の終わりを意味するわけではありません。
「当法廷は評議者による審議に移ります。翌日、判決を言い渡します。これにて閉廷!」
テミスは結審を明日と定めて、波乱の裁判初日を終わらせます。
(ああ、ここからが地獄だ……)
十柱の神々との審議は必ずや揉めに揉める。
その調停役として、この世界の支配者たちの十人十色の意見を取りまとめねばならないのだ。
調停者テミスと十柱による評議は一夜を通して行われた。
即ち、天帝ゼウス、結婚の女神ヘラ、知勇の女神アテナ、太陽の神アポロン、愛の女神アフロディーテ、狩猟の女神アルテミス、豊穣の女神デメテル、鍛冶の神ヘパイトス、家庭の女神ヘスティア、伝令の神ヘルメスという十柱である。
これがこの世界最初の殺人裁判における、もっとも難儀なところである。
真実は一つ。
しかし意見は十人十色。
『ポセイドンの息子ハリロティオスを撲殺したアレス』と『愛娘アルキッペーを助けたアレス』という相反する善と悪の行いを、それぞれの最高位の神々が独自の物差しで評価する。
画一的な共通の価値観を有しないのは己の司る権能が異なる以上、やむをえないことです。
それらのまとめ役をこなす責任を、テミスは寝ずの話し合いで決めねばなりません。
「アレスを罰すべきです。正しき理知あらば、ハリロティオスを殴り殺さずとも生け捕りにして罪に問えばよかった。激怒に身を委ねての撲殺は不正義に他ならない」
一番に厳罰を望むのは知勇の女神アテナです。
かねてよりアレスとは仲が悪く、同じゼウスの兄弟姉妹の中では一番に対立的でした。
「愛よ! これは愛ゆえの行い! アレスは無罪にすべきよ!」
愛の女神アプロディーテは逆に一番に無罪を望みます。
なにせ、彼女はアレスと恋愛関係にあります。私情ありきとの批判、それさえも愛と一蹴します。
「父の愛ですか。しかしハリロティオスの両親も我が子を愛している。愛という尺度だけで無罪か有罪かを決定づけることはできない。息子を殺した者に厳罰を求めるポセイドン達は偽りの愛を述べているとでもいうのですか?」
鍛冶の神ヘパイトスが割って入ります。
「……我が妻アプロディーテ、君はアレスを恋人として愛している。俺にとっては不貞の愛だ。しかし見逃しているのは感情に支配されず、理知的に、冷静に物事を見据えているからだ。激情に任せて愚行を働いてもいいと訴えるのならば、俺はあいつをとうにこの槌と火で始末している。冷静になれ。俺も私情を挟まずに、ちゃんと考える」
「……わかったわ、ヘパイトス」
愛の女神がおとなしくなると今度は狩猟の女神アルテミスが発言します。
貞淑の女神、処女神として純潔を重んじるアルテミスは弓矢を背負ったまま勇ましく申します。
「万死に値する! 罪なき乙女アルキッペーを陵辱せんとしたハリロティオスは万死に値する! アレスは父親として正しいことをしたまでのこと! 私がもし泉に居合わせていたならば、ハリロティオスを鹿に変えて、絶命するまで森中を追いかけ回し、必ずやこの弓矢で息の根を止め、そして野良犬のエサにしたことだろう! ポセイドン達はむしろ身内の不始末を詫びるべきだ!」
一番に過激な物言いに、アレスを助けたい一心のアプロディーテまで言葉を失います。
今しがた理知の重要さを説かれた直後に、これなのです。
神々の長として主神ゼウスが「アルテミスよ、まぁもうすこし冷静に……」とたしなめようとすると、これが火中の栗を拾う行為でして、アルテミスは激怒します。
「私そっくりに化け、私の愛する美しき妖精カリストと密通したこと! 忘れたとは言わせませんよ! お父様!!」
「ひいっ! 今その話を蒸し返すのはやめてくれ! すまん! お父さんが悪かった!」
「がるるるるるる!」
森と野獣に関わるアルテミスの睨みはまさに大熊もかくやというものでした。
最高権力者のゼウスといえど、同じ十二神の地位にあり、なおかつ実の娘に負い目があるとなれば、情けないことながら強くは出られません。
白い目を向けるのはアルテミスだけではなく、正妻のヘラもです。
ゼウス最大の天敵ともいえる恐妻ヘラが隣で睨みを利かせている以上、ここで身から出た錆を取り繕おうとうかつなことを言えば、どんな目に合うかわかったものではありません。
今回、十柱中六柱、テミスも含めて過半数が女性陣なだけにゼウスは立つ瀬がありません。
「……我が夫ゼウスの不徳を問うのはまたの機会にして、私は一人の母親として意見します」
結婚の女神ヘラ。
威厳ある天界の女王は、王冠と王笏を携えて象徴としております。
天界で最も美しいといわれる女神の一人である一方、それ以上に嫉妬深く激情家だと知られています。一夫一妻の掟を重視する彼女は、ゼウスの浮気性に常々目を光らせています。
(ああ、なんて苦行だ……もうどこが痛いかもあやふやになってきたぞ)
テミスはゼウスの前妻、ヘラとゼウスが結婚するために離別させられた経緯があります。気まずいどころではありません。
神々の家系図マジややこしいでございます。
「私は母親として愛する息子アレスの行く末を、こうして話し合っていること自体が愚かなことだと言いたい。アレスは私とゼウスの子。我が子を重んじるポセイドンとハリエーの気持ちを汲んでアレスを地獄に送るというのは、母である私の気持ちを汲まないということ。理知を問うならば、家族感情を排して語ることべきでしょう」
「う、む。ヘラの言う通りじゃ。儂とて父親、アレスを望んでタルタロスの牢獄に送りたくはない。しかしそれだけの理由ではポセイドンは納得すまい。理不尽はならぬ。こうして話し合って納得のいく解決ができねば、最後には戦って決めるしかなくなる。もし儂とポセイドンが全力で戦えば、巻き添えに地上は滅ぶやもしれぬ」
ゼウスはテミスの目を見て、問いかけます。
「テミスよ。そなたの守護する法律とは、そうならぬ為に編み出された知恵であるのだな」
ゼウスは数多の大戦を生き残ってきました。
天地を破壊し尽くすような愚かしい神々の戦争を、もう繰り返したくはないと思っているのです。
そのために、かつてティターン神族として刃を交えた法の女神テミスの助力を願ったのです。
テミスは薄い羊皮紙の法律書を撫ぜ、高らかに掲げます。
「理を以って、和と成す。今一度、この幼く拙き法の可能性を信じて、論じようではないか!」
調停者テミスの言葉に異を唱える十神はいませんでした。
◇
翌日、裁判の結審は昼でも夜でもない夕刻に行われることになりました。
アレスの丘には裁判の結果を見届けようと天神地祇に貴人も庶民も集まっていました。
石造りの法廷に再び、関係者一同が並んでいます。
義憤の女神ネメシスに鎖を引かれて、被告人、戦神アレスが力ない足取りでやってきました。
この場の誰よりもアレスは裁判に価値を見出していないのです。
「……くだらない」
テミスに向けて、昏く力ない眼差しを向けながらアレスは言葉しました。
「所詮、裁判なんてごっこ遊びに過ぎない。悪趣味な見世物だ」
「一理ある。裁判を娯楽として楽しむ者はきっと後世にも後を絶つまい。形骸化した、公平性のかけらもない裁判や法律もまかりとおるでしょう。法を司る者、司法が正しくなければ、法が正しくとも機能しない。それをごっこ遊びと断じるのは正しい認識です、アレス」
テミスはまっすぐにアレスを見つめて言葉します。
もう頭痛はしません。
結審が夕刻になってしまったのは昼前まで評議を続けた後、テミスは心ゆくまで寝たからです。
十分に議論して、十分に苦悩して、十分に休息を取ったのです。
「法は幼い。司法はより幼い。何百年、何千年を経たとしても老人にはなるまい。それは法律という知恵が常に成長するからです。アレス、貴方はその大いなる最初の成長を我々にもたらしてくれたのです。法と掟の女神として、そのことに感謝し、その成果を披露するとしましょう」
「……長いんだよ、話がさ」
「年寄りの長話を禁じる法律はまだない。残念ですね、アレス」
テミスは羊皮紙に記された判決文を読み上げます。
ポセイドン、ハリエー、証言者のデーローやキツツキ、十柱の神々、関係各位が固唾をのみます。
「主文、被告人アレスを無罪とする」
淡々と、粛々と。
テミスは判決文を口にします。明朗に大きな声で、穏やかな大河のように。
天も地も海も、風も鳥も人間も、何もかもが静かにテミスの言葉を聞こうとしていました。
「当法廷は、ハリロティオス殺害について被告人アレスを無罪とする。理由は以下の通りである。
第一に、被害者ハリロティオスには被告人の娘アルキッペーを婦女暴行せんとする悪質な問題点が認められる。これは事実として複数の証言より明らかである。家族親類への暴行を阻止せんとする被告人の行動は明白な正当性が認められる。
第二に、被害者ハリロティオスを殺害した行為の是非について、当法廷はこれが“決闘”による結果に過ぎないと判断する。被告人アレスと被害者ハリロティオスは拳闘によって応戦しているが、この時、被告人は帯剣をしていた。現地に急いで駆けつけた際、天翔ける神馬の戦車に乗っていた被告人は、その強力な攻撃手段を用いず、わざわざ素手のハリロティオスに合わせて拳闘で襲いかかっている。ここに両者合意の上、一方的に卑劣な殺害行為に及んだのではなく、両者は戦いの結末として片方の撲殺という結末に至ったと認める。そして第三に――」
テミスはアレスに問いかけます。
「被告人、貴方は自らの無罪を主張することができたはずだ。それをしなかったのはなぜか」
「……無罪なんだろ? じゃあ答える意味はない」
「意味はあるとも。お前は無罪を与えられようとしている。しかし、まだ無罪を“勝ち取った”わけではない。真に人々に認められなければ、判決を不服とする声は止まないだろう。そうなれば、お前だけではない。お前の娘、アルキッペーにも法廷の外で危害が及びかねないのだ、わかるな」
「くっ……!」
アレスは苦虫を噛み潰したようにテミスを睨みます。
しかし観念したのか、静かに答えます。
「良いやつだったんだ。ハリロティオスは最後まで良いやつだった。真実が明るみに出たら、ハリロティオスは単なる悪人として後世に語り継がれる。
……あいつは皆に愛されていた。自信に満ち溢れていた。親しいボクの娘、アルキッペーもきっと愛してくれると信じてたんだ。でも何事にも例外はあるもんでさ、あのじゃじゃ馬娘、こっぴどくフッちゃったんだ。その時にさ、父親のボクみたいな強くて立派なやつが良い、みたいなこと言ったみたいでね」
「……それで駆けつけた後、被告人と被害者は拳闘による決闘に至ったのか」
「ボクは激怒してた。売り言葉に買い言葉、無我夢中で殴った。殴り返されもしたけど、終わってみればボクは惜しい友人を一人、亡くしてたんだ。我に返ったボクは真実を隠すことにした。ハリロティオスの名誉くらいは守ってやりたかったし、アルキッペーの名を盾に無罪を訴えてしまったら、みんな面白がって彼女をさらに傷つけるだろう?」
アレスは丘に集まった観客達を誰ともなく睨みつけます。
事実、後世に伝わるおはなしにはアルキッペーのことを「犯された」と記載する話もあります。未遂より劇的にするためか、話に尾ひれがついてしまったのか。
アレスは自ら泥をかぶることで娘と友を世間の悪意から守ろうとしたのでございます。
「ボクはポセイドンの叔父貴に償いをしたい。無罪といわれて、心の底から喜べる訳がない。無罪だなんて馬鹿げている。今からでも遅くない。テミス、ボクを罰するべきだ」
「いいや、判決は覆らない」
テミスは指差します。真実を知り、泣き崩れるハリロティオスの母ハリエーを。その傍らでそっと慰める海神ポセイドンを。
そして冷淡にたずねます。
「告訴人、ポセイドン。汝はこの判決を不服とするか」
「……いや」
ポセイドンは答えます。
激憤に怒髪天を衝く開廷当初の姿と打って変わって、彼は凪の海のように静かでした。
「異議はない。儂はこれ以上、死んだ息子の名誉を汚す気はないのでな」
テミスは遺族の言葉を受け取り、結びの言葉につなぎます。
「以上の通りである! よって被告人、アレスは無罪とする!!」
判決を告げる小槌が鳴り響きます。
静まり返っていた法廷は、テミスの見事な裁きに大いに打ち震えました。
「……テミス、ボクは喜ばないぞ」
「アレス、私がいつお前を喜ばせたいと言ったんだ?」
テミスは鉄面皮を崩さず、不機嫌なアレスに輪をかけて不機嫌そうに言ってやります。
「私は真実を求め、正義に味方した。この無罪、真実を隠そうとしたお前の“負け”だよ」
痛快に言い放って、あー疲れたとテミスは背伸びします。
これまでの頭や胃の痛みもとれて、テミスはじつにスッキリした気分でございます。
そして無罪と負けを宣告されたアレスはどちらも異議を申し立てることはありませんでした。
こうしてこの小高い丘は後にアレスの丘と呼ばれるようになります。
そして、アレスの丘の近くに法と秩序の女神テミスの神殿が建てられることになるのでした。
これで世界最初の殺人裁判はおしまいです。
あの薄く幼き十数枚の羊皮紙は、いつしか人を殴り殺せそうな法律書に育ってしまいましたとさ。
でも、決して鈍器代わりに乱暴に扱わないでくださいね。
法の女神テミスの頭痛の種が増えかねませんから――。
お読み頂きありがとうございました。
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普段こうした推理系寄りのものは書かないので実在の神話を頼りに手探りで書かせていただきました。
本格的なミステリーというわけではありませんが、それっぽい感じに仕上がっていればなと願う次第……。
なお、あらすじにも記載がありますが、本作は自作「ふしだら百合バードの女神コネクト ~わたくし冥府の使いにかこつけて魅了チートで女神様たちを口説いてまわりとうございます」に同様のものを外伝として掲載したものを単品版に仕立て直したものになります。
ややこしいのでこの場にて補足させていただきます。
【追記】
2023/08/31 ジャンル別『推理』ランキング日間二位になりました!
皆さんありがとうございます!