3.本日は9月3日木曜日です
飽きない限り続きます
「おはようございます、今日は9月3日木曜日です」
知らない人の声がする、もしかしたら人生最悪の日ってのはこういう風に訪れるものだったりするのだろうか。
私が取れる選択肢は3つ、ひとつ、このまま何もせずに現状維持、ふたつ、目を開き声のする方へ身体を傾ける、みっつ、舌を噛んで死ぬ。
先程聞こえてきたセリフを思い出す、横になって目を閉じている人間にわざわざ『おはようございます』なんていう人間がいるだろうか、どんな方法かはわからないが私が目を覚ましていることに気が付いているらしい。
何も見えない状態だが、身体を縛られていたり圧迫感といったものは感じられない、むしろどこか懐かしささえ感じる、ここはあのとは違う場所なのか? 演技は得意ではないが一芝居打ってみるのも悪くはないだろう、舌を噛んで死ぬのはそのあとでもいい。
「おはよう……ございます」
ゆっくりと目を開けて身体を起こす、白いベッドに重さを感じない掛布団、自分の身体が目に映ると眉間にしわが寄る、何かがおかしい、口から出た声さえも違和感がある。
身体を傾けて声のしたほうへ視線を移すと、綺麗な女性がこちらを見ていた、目と目が合うと彼女はニコッと笑顔を向けてくれる。
「あの……ここは……、それにこの身体」
私の声に反応した彼女は、テーブルの上にある紙とペンと金属の板を引き寄せてこちらに近付いてきた。
近づいてくる彼女に身体が反射的に防衛姿勢をとってしまうと、彼女は少し驚いた表情と悲しそうな表情を見せ、自分が危害を与える存在ではないことをジェスチャーで伝え、優しい声でこうささやいた。
「こちらに確認事項をご記入ください」
受け取った紙とペンと金属の板、これを使って彼女を無力化するか、後ろを向いている彼女に向かって走り出し、ペンで刺した後に板で叩きつけるだけでいい、でもそのあとはどうする……扉を開いた先がどうなっているかもわからない状態では流石に無計画すぎるか、そうこう考えている間に彼女は最初に位置に戻ってしまい、こちらをじっと見つめていた。
紙に書かれていた内容は、氏名・年齢・住所~など、今更過ぎる内容ばかりだった。ここで間違った内容を書いたところで意味もない、名前と年齢だけ記載して彼女に渡した。
「……」
それを受け取った彼女は少し真剣な表情になり、口元に手を置いて何かを考えている様子だった。その姿は息をのむような冷たさがあり、さっきまでの無垢な感じはやっぱり演技だったとわかり少し胸が苦しくなった。
「こちらの内容に間違いはございませんか?」
「え? あぁ……そうですけど」
「わかりました、では貴方からご質問はございますか?」
「質問……この身体は誰の身体ですか? 明らかに若すぎる、ここは電脳空間ってわけでもないんでしょ?」
起きてから見て触れて感じたものは全て0と1では表現できないものばかり、間違えようのない現実だ、だからこそこの身体には……えも言えぬ恐怖がある。
「この身体は25歳の貴方の身体です」
一瞬耳を疑った、25歳? どういうことだ? 彼女が指をさしたほうへ向かうと大きな鏡に自分の姿が映る、自分の顔を初めて見て膝から崩れ落ちる、まぎれもなく昔の自分が目の前に存在している事実に脳が拒絶反応を示し始めていた。
「25歳ってことは28年前……今は2015年なのか?」
「……はい、2015年9月3日木曜日です」
過去にタイムスリップ……? いや、違う。霞がかった記憶をひとつひとつ紐解いていく、2015年って何があった……25歳ってことは最初に入社した会社でまだ働いていたころだ。
「私の記憶に間違いがなければ、2015年の今頃は普通に働いていたと思うんだが、ここは私の過去というわけではない?」
「私もこのパターンは初めてなので、上手く説明できるか分かりませんが、貴方の疑問に可能な限り答えることはできます」
それからどのくらい時間が経っただろうか、いくつか分かったことがある。
まずここは私の知る過去ではない、それだけは確信できた、それと私が生きてきた2015年以降の、彼女からしたら未来にあたる出来事を伝えてしまうと、それを知ってしまった彼女と、この肉体の元の持ち主である自分はおそらく……この先幸せには生きていくことができないだろうと忠告された。
「もちろんだけど、私にも喋ってくれるなよ、まだ死にたくはないからね」
この世界で私が唯一知っている人物、立ち振る舞いを見るだけで当時の記憶がなだれ込んでくる、しかしながら自分よりも年下の先生とこうして話しているのはとても不思議な感覚だ。
「これからどうするんですか? 私のようなパターンは今後もあると思いますし、もうずっと眠らせておいた方がいいんじゃないんですか?」
正直こんなの昔流行った漫画や映画の世界の出来事だ、私に関わる全ての人が不幸になる未来しか見えない。
「別の世界の少年がお喋りさんでペロッと歴史を変えてしまうようなことを言ってしまったら、それこそそうなるだろうけど、今回は大丈夫だし、君が今まで生きてきた53年、今からだと30年弱の時間を奪うことは誰にもできないだろ? たとえ身体を乗っ取られようと少年の人生だ、私は少年を守るためにここにいるんだよ」
心をぐっとつかまれるような言葉にどこか懐かしさを覚える、目が覚めてから今まで真実を知った瞬間こそ目の前が真っ暗になったが、息苦しさは2043年に比べたらまったくといっていいほどない、おそらく先生とこの世界の私、そして彼女が力を合わせて勝ち取った結果なのだろう、私のようなイレギュラーはこの世界では完全に異物だ、できれば早く元の世界に変えて欲しいはずなのに……。
『貴方の疑問に可能な限り答えることはできます』……か、私の疑問は半分ぐらい解決できた、なら私も先生たちの助けになるべきなのだろう。
「ありがとうございます、先生……それと結月さん」
先生の後ろに隠れて最初に出会ったころの美しさも冷たさもどこにいったのやら、今は可愛げのある娘みたいな感じさえある、この身体でそう思われるのは彼女にとってどうなのかは今は考えないでおこう。
「私にできることがあれば、可能な限りお手伝いさせていただきます」
「それなんだが……」
先生が困った表情を見せる、あれ? 何かおかしなこと言ったかな?
「実はいつまで2043年の君がここにいられるかは、誰にも分らないんだよね、もしかしたら明日目が覚めたら君は元の世界に戻っている可能性もある……戻るって表現が正しいのかわからないけど、最近の事例で長く続いたのが6年前の……19歳のころの少年が二週間と数日で、それ以外は現実を受け入れられなくてすぐに意識が途切れたり、会話が不可能なレベルまで幼児化か高齢化が進んでいたり、色々あってね、ちなみに舌噛んでも死ねないから、身体に傷もつけられない、私たちは肉体の時間が止まっているっていう仮説を立ててるけど、それだけでもSFみたいな世界の出来事なんだけどね」
マジですか……やらなくてよかった、試しに身体をつねってみると痛みは感じるが身体に変化はない、どういう仕組みなんだ?
「とりあえず、ここまで会話のできて、更に未来の少年となると初めてだから、君には将来の少年が目覚めた場合のマニュアル作りをしてもらいたい」
「未来の私……ですか」
「そう、君は目が覚めて彼女が近くにいてどう感じたかとか 確認事項を受け取ってどう思ったのか、起こりそうなトラブルは未然に防いでおきたいからね」
確かに……でもそれって。
「無理なんて言わないでくれよ、これは君のためでもあるんだから」
先生は今までもこれからもこの世界の私のために……。
「わかってますけど……ありとあらゆることを想定して動かなければならないって、負担ができすぎて二人のほうが先にが壊れてしまうんじゃ……」
今の私が生まれてから25歳になるまでの歴史とこの世界の私の25年間は違っていた、つまり25歳の自分を中心に過去も未来も無限に枝分かれしている、いつどんな私が目を覚まして何をするか本当に誰にも分らない、それをパターン化して対応していこうとしているのだ。
「物好きなのさ、ここに残っている私も彼女も、だから心配しなくて大丈夫、そうだよねーゆかりちゃん?」
先生の後ろにいる結月さんを先生はがっしりと掴んで、私の目の前にクレーンゲームみたいに運んできた。
「ちょっと! 急に掴まないでください! 服にシワができちゃうじゃないですか! もう! あとゆかりちゃんってどさくさに紛れて呼びましたよね!?」
「ごめんごめん、結月君、ついつい可愛くてからかってしまいたくなるんだよ」
このやり取りもこの世界の私だったら見慣れた光景なのだろう……こんな風に楽しく生きていける未来もあったのか、どこで私は道を踏み外したのだろうな。
「ごめんなさい、お見苦しい姿を」
「いやいや、貴方はこの世界の私と仲良くしてくれているみたいで、それだけで十分だよ」
こんなに可愛い女性がそばにいたら、もうちょっと人生頑張ろうってなるに違いない、私は少し彼女に興味がわいてきた。
「なんか変な感じだけど、これからもよろしくね、ゆかりさん」
名前を呼ぶと彼女は少し嬉しそうに笑ってくれた、それだけで今は十分だった。
「それじゃあ私は忙しいから、あとはお二人でよろしくね~、あっ……そうそう」
先生が何やら彼女にだけ聞こえるように耳元で囁いている、数秒後、彼女の顔が真っ赤になっていた。
「先生のバカ! そんなことしませんから!」
「……ん?」
「なんでもないです! さて、今後の対策を考えましょう!」
先生のことだ、19歳の時の私とは違って『手を出しても犯罪とか浮気にはならないよ』とかくだらないこと言ってからかって楽しんでそうだけど、ほどほどにしないと手痛い反撃を受けても知らないよ。
53の私からしてみたら娘みたいな年齢の彼女とこれまでの長い付き合いで手のうちはわかっている先生がなにをしてきたところでもう何も驚かないさ。