ミレニアムの魔術師(1)
夏休みを迎えた僕は夏休みを無駄に過ごしたくない為、
目標を決めた。一つはバイクの免許を取る事。そしてもう一つはラテン語の古い辞書を翻訳すること。
そんな夏の或る日、こだまは古い辞書の中にQRコードに似たものを見つける。それをスマホアプリに写真で取り込んだところ、強大な地震に遭遇する。翌日、こだまの元をひとりの人物が訪ねて来て言った。「千年封印」された扉が開いたため世界の気候が異常をきたし始めたと。それを開放したのがこだまであり、もとに戻すには「ハンドル」と呼ばれる「千年封印」の扉を閉める力のハンドルを探すしかないと言われる。
嘘か本当か分からないまま過ごすこだまに、巨大で最悪な台風が日本襲うニュースが流れて来る。
こだまは訪れたその人物と共にそのハンドルを探して巨大な台風を封じようとするが、巨大な台風が迫りくる中、そのハンドルを探すこだま達にある組織の黒い影が迫る。
果たしてこだまは巨大な台風を止めることができるのだろうか?
大学一年目の夏。
大阪駅で徳島へ帰る友達を見送ると僕はその足でカフェに入り、頼んだマンゴージュースにストローを差し込んでテーブルに肘をつきながら、この夏をどう過ごそうかと考えた。
大学の夏休みは長い。
だから、まぁ・・急いで何かを決める必要は無いのかもしれないけど・・
一気に飲み干して空になったグラスを振って、底を覗き込みながら、
しかし・・、と思う。
緩慢になって何もせず、だらだら過ごしていたら夏の時間なんてこのマンゴージュースのように瞬く間に無くなるんじゃない?
絶対そうだろ?
きっとそうさ。
僕はそう思う。
夏休みなんてさ、一気に飲み干したマンゴージュースの様にあっという間に空っぽになって、何も残らないんだよ。
氷がカランとグラスの中で音を立てた。
僕の考えが正しいと誰かが言ってるんだ、きっと。
そう勝手に思うと自然に笑みが浮かんだ。
で、それじゃあ、どう過ごす?
うーん、そうだな・・・
腕を頭の後ろに組んでカフェの窓から外を見るとぎらつく眩しい夏の日差しの中をバイクが走って来て、やがて視界から消えた。
ねぇ・・
バイクの免許を取るなんて良くない?
だってさ、バイクがあれば日本の何処にでも行けるし、それに徳島に帰ったケイタにも会える。
青く輝く瀬戸内に掛かる大きな橋をバイクに跨って走る自分なんて、ちょー素晴らしくない?
だよね?
あ、じゃあ・・それ決定。
まず一つは、これ。
さて、あとは何にするか。
肘をついて空のグラスを振りながら、真剣に考える。夏の時間はこうして僕の側を過ぎて行くんだな。
あと、いくつ目標つくろうか。
ん、ちょっと待てよ。
そんなにさ、僕、目標を幾つもクリアできるかな?
だろ?
いやいや無理だわ、絶対。
だってさ、大学だって一つだけ絞り込んでやっと入試をクリアできたんだから。
そんなに沢山目標なんて決めてもクリアなんて難しい。
絶対、そう。
そうだよ。
じゃあ、どうする?
まぁ、あと一つ目標決めるというところが、やっぱりぎりぎり良い線だよな。
・・そうだな、
それでそのラス1(いち)だけど・・
意外だけど、
勉強する?
だって、学生だしさ。
だよなー。
それは、賛成。学費、親に出してもらってる訳だし、やはり何か勉強しないとな。
じゃあ、どうする?
大学の講義の延長線の勉強でもする?
いや・・・
そいつはよくないな。
なんかさ・・こう真面目過ぎてさ、それはやっぱ面白くない。
何かニッチというか、
マニアックというか
そんな分野の勉強したい
どこかそんなのないかな。
あ、
そう・・そう
あれ、いいんじゃない?
市立図書館で見つけた古いラテン語の辞典の翻訳。
内容がさ、
何か分からない辞典だけど、ラテン語なんて魅力的じゃない?
だからそれを翻訳するというのは?
了解。
そいつにしよう。
今年の夏は図書館へ通い、クーラーの効いた部屋でラテン語の勉強でもしようじゃないか。
それが、無難でいい。
で、いつから始める?
僕は席を立ちあがり、カフェを出た。眩しい夏の日差しが檸檬色に輝く。
早速、今日からはじめよう。
夏の時間は瞬く間に過ぎて行くのだから。
バイクの教習所は自宅から自転車で数分の所にある。
しかし、その数分がいけない。
何がいけないのか?
「暑すぎるからにきまってるじゃない!!」
自宅を出てそんなに時間は経っていないのに、リュックを背負った背中は汗が滝のよう。
「気持ち悪いったらさ、・・・ないよね~」
自虐的に言って、自分を慰めてみる。
まぁ、目標のスタートラインに立った自分を褒めたい気分もあるのだけど、でも今は自虐的に言った方がなんかうけるような気がする。
え?
誰に?
ねぇ?
誰にさ?
いいやん、別に誰だって。
無言で日陰の無い道を進み、図書館の前を過ぎてゆく。
風は全く吹かない。
まるで拷問のようなアスファルトの道。そこをひたすら懸命にペダルを漕いで走る僕。
交差点を勢いよく斜めに横切ると郵便局が見えた。すると赤いポストの前でフレームの派手なサングラスを掛けてこちらを見てるやつがいる。
両腕が小麦色に焼けた両腕がキャミソールから見えて、ピンク色の唇がにっと笑う。
僕にはそいつが誰だか分かった。
勿論、やつも。
イズル、お前そんなところでなにしてんの?
「お!!こだまー、久しぶり。何してるの?」
サングラス下でピンク色の唇が動く。
そりゃこちらの台詞。お前こそ、郵便局で何してんだよ?
僕はイズルの前で停まった。
「イズル、あのさ。今日から教習所行くんよ。免許取る為に」
「えー、本当?こだま、凄いやんか!!」
イズルの驚いて見開く目がサングラス向こうに見えた。
「車?」
「ちゃう」首を振る。
「バイク」
へーと声も出さずにイズルがサングラス越しに僕を見て、手を叩く。
「じゃさ、免許取ったら連れてってよ!!」
言うとイズルのサングラスが少しずれた。
「どこに?」
お前を?
そりゃー、まぁまぁイズルは可愛いけどさ。
でも、どこに?
どこにさ?
「海!!」
数秒、僕は沈黙した。
「海?」
「そう」
サングラスをかけ直す。
僕は至極真っ当な答えで少し拍子抜けした。イズルはここら辺の友達の中じゃ少し変わったやつだ。だからいきなり、思いもつかない場所でも行こうなんていうのかと思ったのだけど・・・・。
まぁ、良かった。
「オッケー、じゃ免許取ったら行こうぜ、海に」
そう言うと僕は再び自転車のペダルを漕いだ。
もう教習所はすぐそこだ。
一度、後ろを振り返る。イズルが陽に焼けた腕を上げてバイバイしてる。
それを見て少しだけ苦笑。
腕、焼けすぎだよ、イズル。
日焼け止めクリーム塗らないと大変なことになるぞ。
教習所って久々に嫌だなと思った。
学校より、正直嫌だ。
なんでだろ?
こちらはお金出して免許取りに来てるのに、さも簡単には免許はやらないぞというオーラが皆から出てる。
ヘルメットを自費で用意して教習代で数万円払って怒られるなんて、なんか腑に落ちない。
ちょっとマジかな、と言いたくなるくらい舌打ちしたくなった。
最短でバイクで免許取れるの二週間ちょいらしいけど、それまで我慢できるかな、僕。
溜息漏らして、図書館へ向かう。
途中、郵便局の前を横切ったけど、イヅルの姿は見えなかった。
あんな派手なサングラスをして、あいつどこに行ったんだろう?
自転車を図書館に停めると汗が噴き出てきた。汗を手の甲で拭きながら図書館のドアを潜る。
うお、冷えてる。
思わず、身をこわばらせた。
クーラーがめっちゃ効いてる。
いや、効きすぎなぐらい。
電力無駄に使ってない?って言いたくなる。
僕はエレベータの入口へ向かい乗り込んで三階のボタンを押した。
五階建ての図書館は一階が児童書の専門フロア。二階は雑誌とか漫画とかあって、三階から五階までは自習室とそれぞれの分野の専門フロアになっている。
夏の間、翻訳を決めたラテン語の辞典は三階の書棚の奥にある。
エレベータのドアが開くと、その場所へ向かった。
しかし、
一抹の不安がある。
実は僕がその辞典を見つけたのは、高校三年の時、つまり一年前だ。
夏の間、当時の僕は図書館の三階の自習室で受験勉強をしていた。
勉強のちょっとした息抜き、そんな感じで図書館の三階フロアを歩いて色んな本を見ていたら、偶然書棚の奥に置かれたラテン語の辞典を見つけた。
今その場所へ歩きながら、その時の事を思い出しているけど、正直、中に何が書かれていたか思い出しても分からない。
巻末のどこかに1,502年と書いてあったのは僅かに覚えている。
よくよく考えてみればそんな大航海時代頃の古いものが現存するのかな。
では
久々の対面。
スマホの翻訳アプリで開いたページのラテン語を読み込む。
そしたら
数秒して、自動的に、日本語に・・・・・。
あれ?
あれ?
日本語にならない・・・
どういう事?
僕はスマホの画面に目を遣り、もう一度開いたページの所に画面がきちんと映る様にセットして、再び読み込む。
しかし
あれ?
あれ?・・読み込めない。
壊れてるのかなこのアプリ?
僕は隣の書棚にある英語の辞典を開いて同じように英語を読み込む。
数秒して
Century ――――
世紀
ちゃんと
正しく読み込めてる。
じゃ
別にアプリが悪い訳じゃない。
僕はLINEに切り替えてラテン語のページを写真に送り、友人にメッセを送った。
#ケイタ、翻訳アプリでラテン語訳そうとしたら駄目だったけど、理由わかる?
するとすぐに返事。
#こだま、おはっす!!
#ラテン語?
駄目、駄目。
それって難しい。
ラテン語って俗とか古とかあるから、多分アプリじゃ無理だよ。
何だよ、俗とか古とかって。
僕は友人からのLINEを見て渋面になった。なんか・・・面倒くさいことを夏の目標にしちゃったかな。
辞典はちゃんと一年前と同じ書棚の奥に在った。もしかしたら僕が置いてから一度もこの場所から動かされていなかったのではないだろうか。
ここの図書館の職員って、あんまり仕事しないんだな。
そう思ったら、ケイタからメッセが来た。
#こだま。
辞書借りてきたら?ブラジル人のマウロに。あいつなら持ってるかもよ。
マウロ?
日系人の?
僕は首を傾げた。
ブラジルって、ポルトガル語じゃない?
ぎらつく太陽と熱帯夜、そして時々降りだすゲリラ豪雨。
そんな日々が段々過ぎて行くうちに嫌々ながら通ったバイクの教習が終わった。
意外や意外、最初は嫌がったものも最後の方は楽しくて、なんだかんだ言ってる内に全ての科目が終わり、免許を取ってしまった。
早くも一つ目の目標をクリア。
出来上がった免許証を空にかざして少し自慢げに自分の写真を見る。
どっか誇らしげに見えるのは気のせい?
さて、これから図書館通いをしないと。
結局、最初一度訪れてから図書館へは行かずじまい。
ま、正直いきなりだけど・・やめちゃおうかと思ったけどね。
だけどさ、夏を有意義に過ごす為には大事なことなので、頑張ってみる。
しかしちょっと面倒だよね、ラテン語って。
そう思っているとLINEにメッセが届いた。
誰だろう?
スマホの画面を見る。
なんだ、イズルじゃん。
写真が一緒に送られていた。
何処かのプールだろうか、同じ年頃の日焼けした男と水着姿で二人写っている。
#やっぽ!!
こだま
夏楽しんでる?
へー、プールかぁ、いいなぁ。
で、誰なんだよ、横の奴。
そう思って写真を良く見て驚いた。
マウロやん!!
えー・・・!!
お前ら付き合ったの??
棒立ちになって写真を見ているとメッセが来た。
#今なーーー
うちら、ブラジルおんねん!!
だから
ラテン語の辞書、
宅急便でこだまに送るって
byマウロ
まじか?
そういえば、今朝家を出る時宅急便の不在届けが来ていた。
それか・・?
イズルなら急に姿を消してそんな所に居てもおかしくはない。
だって行動があまりにも素っ頓狂で、この前も朝あいさつしたその日の晩には韓国のどこかの店に居てそこからいきなり焼肉食べてる写真が送られて来た。
なんでも美味しい焼肉が食べたくなったとからしくて。
ほんと芸能人じゃないのにいきなりそんなことができるのかと思ったことは実は他にもたくさんある、だけどそれはきりがなく、思い出すのは面倒だから割愛する。
二人の写真を画面から消すと、自宅へと向かって歩き出した。
でも少し歩いて何故か急に写真が気になってLINEを覗いた。
画面を指でなぞりながらゆっくり写真を拡大する。
すると見知ったプールの側に文字が見えた。
それを見て思わず吹き出しそうになった。
なんだ・・ブラジルじゃないやん。
これ
ひらパーやんか・・
まぁ取り敢えず辞書はゲットした。後はそれで翻訳に取りかかるだけだ。
辞典だと思っていた。
絶対的に。
しかし、本を開いて数ページきちんと見ると改めて辞典とは違うことが分かった。
普通辞典なら単語の整理が出来ていて外国語ならアルファベット、もしくは日本語ならあいうえお順に並んでるはずなのに、これは全く開いたとたんそんな整理順等お構いなしに、文字が短い文章で書かれていて、その文字の下に何か説明の為か雷やら炎やら何かフランスの新聞みたいな風刺画みたいなものが書かれている。
最初の一行目に書かれている単語をちなみにマウロが貸してくれたラテン語の辞書で引いてみても、全く出てこない。
言葉はアルファベットで書かれている、でもラテン語じゃない?
え、
そもそもラテン語じゃなかったのか?
僕は一年前どこを見てそう思ったのだろう?
そう思って本の表紙を見る。表紙には何かを示すかのようなシンボルが書かれているが、不思議なことに本の表紙には表題が無かった。
僕は本の背表紙を見た。図書館の分類シールが書かれている。
――分類 ラテン語辞典
これだ。
これを見たんだ、じゃあ間違いないじゃん・・
でも違うということは図書館職員の仕事怠慢じゃない?
こっちはやる気満々でブラジル人から辞書まで借りてここに来たんだぜ。
そこまで思うと少し気分が腹立ちしてきたので文句でも言ってやろうかと思って辺りを見回した。
すると近くを図書館の眼鏡をかけたいかにもな感じの女性職員が歩いている。
「あの、ちょっとすいません」
少し小声で、しかしはっきりとその人を呼んだ。
女性職員がやって来た。
「何でしょうか?」
眼鏡をかけた顔が少し斜めになって言う。
なんだこいつ、斜めに人を見やがって
「あの・・この本、ラテン語の辞典で合ってますよね?」
僕が言う言葉に相手が屈みこむ様にして本の背表紙を見る。
「ですね・・・分類シールがそうなってますから」
僕の方に向き直る。
「それが何か?」
それが何か?
いえ、別に・・
そう思うしかない僕の心の動きが沈黙を生んだ。
改めて思う。
そりゃそうだよね。
それ以外に答えようがないじゃん、シールが貼ってあるんだから、そんな質問してどうすんの?そんな相手の心の中の言葉が眼鏡の奥で僕を見つめる冷ややかな目に浮かんでいる。
その視線を見て急に気持ちが冷め、何か思いつくこと言ってこの冷ややかな視線をこの場から帰らせたくなった。
そんで、
「いえ、この本、図書館の物じゃなくて誰かの寄贈かと思って。なんせ千五百年代の本の写しですし、古ラテン語なんてこの図書館ではなかなかないのかなと思って」
知ったかぶりのように古ラテン語なんて言う自分の教養の浅ましさを相手に隠す自分の情けなさ。
しかし僕は恥じ入らない。
女性職員が本の裏を開いて見て言った。
「写しかどうかは知りませんが・・この本、外国からの寄贈ですね。・・えっと場所はエジンバラの個人の方からの寄贈みたいです。ここに本のタイトルが書かれてますから」、
え、どこ?
ここ!!
そんな強気の無言の指が文字を指す。
覗き込むと・・
あった!!確かに小さく英語で書かれている。
「では」
最後も斜めに僕を見て足早に去って行った。
僕は本を机に置くと職員の指さしたところを開き言葉を見る。
確かに書いてある。
英語で。
僕は英語をスマホの翻訳アプリに読み込ませた。
数秒、
翻訳されて出て来た。
でんせん
ねんき
まどう
しょ
1502
なんじゃこれは?
電線?
年季?
惑う?
所?
電線年季惑う所1502?・・・・
わからん・・
僕はもはや手の届かないこの本にさじを投げようとした。
しかしここでさじを投げるならせめてこの何語か分からない本の正体だけは知りたい。
もう一度僕は頭の中でひらがなを漢字に当てようと捻った。
が、
いや、そうじゃない。その方法は間違っている。
英語を見よう。
そちらが早い。
見るとこう書かれている。
[The millennium of grimoire , it,s told .1502 ]
ん、つまり・・
千年・・記
魔術?(・・あれこれフランス語?)
それを伝える?
訳をまとめると
魔術の千年記を伝える本。
え、じゃぁ
それと翻訳のひらがなが
でんせんねんきまどうしょ1502だったから、
さっきのと良いところ取ると
『伝、千年記魔術魔道書1502』
なにこれ
なんか真言宗の密教的宇宙観すごくあるタイトルやんか。
つまり、
分かり易く言えば魔術?魔導書ということ?
僕は本を閉じた。
そんなん
マニアックやんか
それになんであるん?
こんなところに?
それも普通の図書館に。
目覚めようとする耳に雨の音。
しとしとどこか六月の露のような自分の心を閉じ込めてしましそうな雨音がする。
大きなあくびをひとつして、布団から起きれば窓から見える空はどこまでも低く街を覆っている。
枕もとに置いてある借りたラテン語の辞典。
昨日、図書館を出る時これを借りた。
あの眼鏡をかけた図書館職員が目を細めて見下げるような視線で僕を見ながら図書館のカードに記入する。
あんたレベルの人間がこれ借りてどうすんの?
ヒリヒリとそいつの心の声が斜めに聞こえて来そう。思わず舌を出して罵声で言ってやろうかと思ったけど、そこは大人だ。
素知らぬ表情で辞典をリュックに仕舞ってバイバイした。
で、昨晩こいつを開いて一つでも言葉を理解してやろうと遅くまで起きていたけど、結局何も分からずじまいで、昼前の今起きた次第。
未だこいつの正体が分からない。
ま、いいさ。夏はまだ始まったばかり。
焦らず様子を見ながらやって行けばいいさ。
洗面台の鏡に写る寝ぐせを見て、歯を磨く。
ズボンとシャツに着替えると辞典をリュックに入れた。
今日はカフェでこいつを調べる。
図書館に行けばあの図書館員に斜め向きに何を思われるかたまったもんじゃない。
僕はマンションの階段を降りて自転車に跨る。
「あの・・、すいません」
突然かけられたその声に振り返る。
見知らぬ男性が僕を見ている。白い襟付きのシャツにジーンズを履いて、首から鎖のついた懐中時計を手にして、僕とそいつを交互に見比べている。
なんじゃ?こいつは?
僕は胡散臭げにこの人物を見た。男性は 頭を掻きながら僕を見つめている。
「あ、これはすいません。あの・・そのぉ~ですね・・」
語尾を伸ばすのを聞いて気持ち悪くなった僕は急いでペダルを漕いだ。
「すいません、先急ぐんで!!」
たまったもんじゃない。
変な人間に何て構っちゃいられない。
僕は全速力で男の視界から消えた。
なんじゃ、あいつは
きもっ!!
空になったグラス。
その中で溶けだした氷。
差し込んだストローで氷をくるくるかき回して、グラスの底を覗き込む。
氷が解けて水になった。その現象を化学式で説明せよ。
そう誰かに聞かれたら、直ぐに説明できるか?
僕は首を振る。
できないよ、難しい。
でも・・言語の説明、まぁ翻訳はどうだろう?
それは簡単だ。
今の時代、スマホのアプリで簡単にできちゃうでしょ?
だからだから正直翻訳すること自体、必要じゃない時代なんだ。
だよね?
それが新しいミレニアムを生きる人類のプラットホームじゃない?世界中の人類が話す言葉なんて誰もが簡単に翻訳出来て、会話ができる。
聖書に書かれているバベルの塔では、神様が塔に雷を落としてばらばらになった人類互いの言葉を分からなくさせた。
でもさ、その人類が現代のスマホを持っていればそんなこと絶対在り得ない。だからそんな説得力の無い説話なんて聖書から削除だよ、おそらく、これからの時代は。
一昔前なら人間の行動を規律させる説話は沢山あると思う、でもこれからの時代、そうした事柄は人類の意識がアップデートして遥かな彼方へと押しやるだろうね(多分・・・・)
だからこそ、こいつが訳せないのが解せない。
あーーー!!
イラつく!!
何でさ、訳せないんだ。
僕は開いてたページを捲り、次のページを見た。
見ろ。
ここにはなんか図案がある。
何だ、これは?
よく見りゃ、なんかすっげぇQRコードに似てる。
その下に小さな絵があって、なんかドアが開く絵になっている。
まぁ絵の意味も正直分からん。
僕はじっとそのQRコードみたいなものを見つめて、スマホの画面でピントを合わせ、
カシャ
写真に撮った。
読み込めたりして。
お、ビンゴ!!
そいつを認識してるのか、読み込みが始まった。
へー、意外や意外。
絵画を写真で撮ると顔認証するようにこれをQRコードとして認識しているんだ。
数秒、時間が過ぎてスマホが急にシャットダウンした。
あ、なんだ、なんだ。
大丈夫か?
直ぐにスマホが再起動した。
心配ない。
僕は認証ロックを解除する。
スマホの画面にはいつも通り自分が使用するアプリが出てきている。
あ、よかった。
なんか少しスマホが熱くなっている以外は何も異常がない。充電後の時のようになっているだけだ。
僕は安心してラテン語の辞典をリュックに入れて立ち上がろうとした。
その瞬間、
ゴ・・
ゴゴゴゴゴゴゴ、
な、なんだ!!
大きく建物が揺れている!!
やべっ‼
地震だ。
思うや否や、僕はテーブルの下に急いで身体を潜らせた。カフェ中にガラスの割れる音や客の悲鳴が響き、緊急地震速報の緊急音が鳴り響く。
頭を抱えてテーブルの下で身体を強張らせる。目の前で空のグラスが落ちてきて割れて氷が飛び散った。
揺れは一分近く続いただろうか、やがて止まった。
僕は恐る恐るテーブルから顔を出す。見ればグラス類だけでなく天井から落ちて来た天板やらが割れて散乱している。
カフェにいる人達は互いに顔を見合わせて無事を確認している。
僕はカフェの外に出た。
地震の揺れで急に止まったのかドライバーが青い顔して身体を乗り出して外を見ている。
見回せば自転車が数台、その他は街路樹が折れて道に倒れている。
僕は恐る恐る自転車を起こした。
大きい地震だった。自転車のハンドルを握る手が震えている。
通りには民家から人が出始めている。
警察か救急車か分からないけど遠くでサイレンの音が聞こえる。
僕は身震いしながら思った。
ミレニアムとか人類の新世紀とか言っても、地球の気候や地殻変動に決して人間はこれからも立ち向かえない、絶対的に。
今の僕みたいに震えて、街の通りにできている人のように恐れおののくのみだ。
ひょっとして、
自分が聖書の事を揶揄したんで
神様が怒ったの?かな。
そう思いたくなる程、いいタイミングだった。
今日はもう家を出ないでおこう。
じっとしているしかない。
するとLINEにメッセが届いた。
#こだま
やばくなかったか?
ケイタだ。
#問題ない、すっげぇ揺れたけど。
それだけ書いて返信する。
するとLINEに再びメッセが届いた。
見れば見たことがない差出人。
なんだ、
知らないやつは着信が出来ないようにロックしているはずだ。
一体誰だ?
そう思った瞬間、また激しく地面が揺れた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ」
僕は声を出してスマホと自転車を投げ出して頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「余震だ!!」
誰かが叫ぶ。
地面が揺れに揺れる。
右に!!
左に!!
僕は頭を抱えてしゃがみ込みながら地面にしがみつくのが精いっぱいだった。目の目を右に左に地面を転がるスマホが見える。
スマホなんかに構っちゃいられない。
恐怖に引きつられながら僕は大地にしがみつく。
その時、転がるスマホからデジタル音声が流れた。
ピー
#ロックは解除されました。
ピー
#これより人類は至急非難を始めて下さい。
地震は非常に大きくマグニチュード6弱の揺れだったらしい。しかしながら海側のプレートの揺れではなかったらしく、津波もなく余震もあれ一回だけで、その後は何もなかった。
また水道管の破裂による断水や停電もなく、その夜は静かに眠ることができた。
それは奇蹟的というべきかもしれない。
翌日、テレビをつけると昨日の地震が報道されていて壁が壊れた場所をレポーターが報道している。
僕はその様子を見ながらパンを齧った。
するとLINEの着信。
手に取ると、イズルからだった。
なんだ?
僕はメッセを読んだ。
#こだま
今なぁ―
うちら
テレビの取材受けてるで
何?
僕は思わずテレビのチャンネルを回した。
あ・・!!
画面にイズルのド派手なサングラスが映っている。乗り出すように見ると、横にマウロも映っている。何やら必死に叫んでいる。
何じゃ??
ボリュームをあげる。
すると聞こえて来た。
「ここ、ここなんです!!僕等が見つけたのは」
マウロの声。
「うちらここで見つけてんな??」
イズルの声。
で、何を?
これは僕の心の声。
聞こえぬ心の声に
ふたりが言う。
「せーのぉ、カッパ!!」
阿保か!!
僕はあまりの馬鹿馬鹿しさに思いっきり声を出して突っ込んだ。
番組表を見れば「あなたが見た夏のこわいもの」とある。子供だましの番組もいいとこだ。
昨日、こっちは地震で大変だったんだぞ・・、そこまで心の中で言うと、
こいつら今どこにいるんだろうと思った。
LINEが再び鳴る。
僕は手に取った。
#こだま
さてうちらどこにいるでしょう?
僕の心を見透かすようなクエスチョン。僕はじっとテレビを見た。二人もこちらを見ているようにじっと見つめている。それが段々段大きく大きく・・
え?
え?え?
えええええ?
何?
何?
段々と二人の目が大きくなってきて、突然僕の全身を飲み込んだ。
僕は混乱した。
これは現実か?
夢か
幻か?
はたまた・・
意識が遠のこうとするのを感じながら、男の声が耳に届いた。
「こだま君、これが魔術というものですよ」
目が覚めた時、僕は床に転がっていた。手元を見れば、半分まで齧ったパンが固くなって転がっている。
部屋を見回すとテレビの画面は放送がないチャンネルになっていて、一切何も音が聞こえない。
なんというか、何も音もしない不思議な静けさの中で、僕は自分に起きたとことを考えてみた。
確か・・・、
イズルとマウロの出ている番組を見たんだよな。
それから
何か変なことが起きたんだ。
それは・・・
そう
急にあいつら二人の目が大きくなって、
そして、そして、
僕を飲み込んだんだ。
その後、男の声がした・・
そう、確かに僕に言った。
しかし、
何て言ったか・・
僕は寝返りを打つ。その時、テレビの画面が急に切り替わり、ニュースを流し始めた。
僕は驚いて起き上がり、急いでテレビから流れて来たニュースを見た。
それは不思議な光景だった。
場所は中東の何処かだろうか。
砂漠の中を大量の水が流れ、大きな川となっている。それは明らかに突然の雨期でできたような川ではなく、元々そこに川があったかのような豊かな水量で流れていた。
テレビの画面の字幕が伝えて来る。
「突然・・突然、この砂漠に川が現れたんだ。遥か昔、ここは豊かな森と川だったと先祖から聞いていたんだが、今朝起きてみるとだ・・・このとおり突然大量の水が地中から湧いていて、見たこともないような巨大な川ができていたんだ」
テレビの取材を受けているアラビア人だろうか、日よけのフード下から豊かな髭を震わせている。
まるで神の軌跡を見た人のような眼差しで
アラーだよ、
きっと奇蹟を起こしてくれたんだ
そう言った。
僕は映像を見て思った。
こんなん、尋常じゃない。
忽然と現れた砂漠の中の大河なんて。
その川の水量はとても砂漠の中を流れる量ではないように見える。
申し訳ないが見ていると何かとても歪で、大きな異常破壊が起きない限り、そんな光景は在り得ない。
直感がそう言っている。
昨日の地震はそれの前触れじゃないのだろうか。
不安が頭をよぎる。
何か悪いことが地球規模で起きているのじゃないだろうか。
「こだま君、正解です」
その声に僕は驚いて飛び上がり、後ろを振り返った。
見れば男が壁に立ってテレビのリモコンを持って僕を見ている。
不審者‼
一瞬で総毛立ち、相手に向かって怒声をかけようとしたその刹那、身体がいきなりふわりと浮きあがり、僕を天井へと押し上げた。
「うわぁぁぁ、なんだ!!なんだ、これは!!」
パニックになって叫ぶ僕。
本当になんだかわからない。不審者がいるだけでも相当の驚きなのに、それを超えるかの摩訶不思議な状況。
これは何なのか‼
不審者の男が何かしたのか、身体が膨張する何かに押し上げられるように浮いていく。
手足をバタバタさせ天井へ向かって浮かんでいく僕。
そんな僕を下から眺める見知らぬ男。
やがて僕は天井付近でプカプカ浮かび始めた。
まるでプールで浮かんでいる浮き輪のような感覚だった。
驚きで声が出ない。
この状況を受け入れられない自分の意識がこれ以上慌てるのは止せと言っている。
僕はプカプカ浮かびながら、男の顔を見た。
あれ・・こいつ・・
ちょっとまてよ。
この男・・
確か昨日出かけるとき声をかけて来た・・
プカプカ浮かびながら、僕は冷静になった。
その様子を見て、男が頭を下げた。
「どぅもぉ~、こだま君。昨日は突然失礼しまして~ぇ」
この嫌な語尾の伸ばし方。
首からぶら下げた懐中時計を握りしめて、言う。
「私は松本と言います。初めまして」
僕は無言で空にプカプカ浮かびながら思った。
あんた
松本っていうんだ。
初めまして。
そして心の中で言ってやった。
それであんたが僕のこの状況をどう説明してくれるの?
松本
と、言ったこの人物。
見ると短髪モヒカンの細面で少し申し訳ない程度の髭を伸ばしている。紺色のジャケットに丸首の白シャツとジーンズ。目は顔の大きさに似合わず小さく、一重瞼で目じりが少し上がっている。
壁を背にして立っているので身長の大きさは横の書棚と同じぐらいだから、僕より頭一つ小さいくらい・・
ドスン!!
そう思ったと時、思いっきり床に落ちた。腹からおちた。
見事に大の字!!
雪の上なら見事な漢字を描けただろうな・・
「いやぁー、こだま君。すっぃませ~ん。まだこの手の魔術に疎くて」
だからその語尾伸ばすのやめろ、気持ち悪いし、痛みが倍増する
「いやはや、御免ですね」
僕は痛みが消えるのを待って伏せた顔を上げて男を見た。
つぶらな目がニコニコして、首から吊り下げられた懐中時計がぶらぶら左右に揺れた。
「で、こだま君。君が図書館から借りた例の物?あれはどこに?」
僕は仏頂面で男を睨めつけた。
は?あんた何様?
「あんたさ・・人の家に不法侵入して何様なんだよ?警察呼ぶぜ」
最後は背一杯のドスを効かせてやった。今の僕は怒れる獅子だ!!
「そんなん、どうーでもいいじゃないですか?ええっと・・えっと・・」
どうでもいいだと!!?
「あ・・あそこにありましたか」
男はベッドに置かれたラテン語の辞典を見つけると足早に取りに行き、眼前に置く。
それからジャケットの内ポケットから素早く何かを出すと、僕の前に取り出したものを見せた。
「こだま君、こいつは後で説明しますがね、ルーン石板というものです。綺麗に四角に磨かれていますが、地球が誕生した時に銀河の何処かから飛来してきた鉱物です」
松本がそいつを辞典の表紙にそっと置いた。
すると数秒して辞典が輝きだす。
なんだ、これは!!
僕は驚いて起き上がった。雑誌が何か光り輝いている!!
松本は驚く僕の表情を見つめて言った。
「これは今、ルーン石板のデーターをこいつが読み込んでいるんです。こうしてこいつは千年・・いやそれ以上の我々人類のある言語をため込んできたのです」
言い終わると辞典の輝きが消えた。
松本はそれを確認すると、辞典を手に取り僕の面前に持ってきた。
「ある言語??」
僕の言葉に男が笑う。
「魔術という言葉は聞いたことあるでしょう?ゲームなんかで」
魔術?
それって
「まー魔法と言った方が良いのかな」
僕は頷いた。
魔法、もしくは魔術・・?
はぁ・・・・・・、
まぁそいつは何となくわかりますが。
「つまり我々人類が話しているどの民族言語には、誰もが見知らぬ力が宿っていて、そうした言葉をルーン言語と言っている。まぁ現代知られているゲルマン人が用いたルーン言語とは全く別物だけどね」
はぁ、?
「こいつはそれの集大成でね。まぁ辞典といってもいいかな。この世の全ての『魔』を発露させる沢山の民族言語が書き込まれているんですよ」
ふーーーーーーーん。
「それでこの存在を知っている人々は『千年魔術書』、まぁ今は簡単に魔術書と言ってますがね。ちなみにこいつの原本は現在行くへが分からず、1,502年にエジンバラで改訂された13冊の内の一冊です」
ほぉ~~~~・・
すごいじゃない。
「それで、お願いがあって。こだま君、あなたがそれを預かっていただけますか?私は家庭の事情でね、介護の両親が居てとてもこいつの管理が出来なくて図書館に預けてたんですが、君が借りられたのなら是非、暫くぅ~」
うん
うん
ニコニコ
いいよ、いいよ
預かっておいてあげる。
んな訳ないだろがぁぁああ!!
我慢頂点怒髪天!!!
お前のその語尾伸ばし、非常にむかつくんだよ!!
僕は勢いよく立ちあがり、松本の頬に腰を捻らせて強烈なストレートを喰らわした。
不意を突かれた奴は僕のパンチは防ぎようがなかったらしい、見事突っ立ったまま棒立ち状態で、拳が身体にめり込むのを・・・
ん!!!
めり込む???
僕は拳を打ち込んだ状態のまま、松本の顔を見た。
やつが笑っている。
「こだま君、確かさっき君は言ったよね?僕が不法侵入したと?」
そう言うや否や、松本の姿が僕の前から消えて、ドスンと床に辞典が落ちた。落ちたそばで黒い影が渦巻き窓の外へ流れて行く。
「こだま君、窓!!窓を開けて下を見えて下さいなぁ~」
何処か間延びした松本の声。
僕は窓を開けた。
目の前に高速道路の巨大な梁が見え、その下の公園のベンチで腰かけた男が手を振っている。
「はーい、ここですよ。こだま君」
そこに短髪モヒカンの細面で少し申し訳ない程度の髭を伸ばした男。
紺色のジャケットに丸首の白シャツとジーンズ。
目は顔の大きさに似合わず、小さく一重瞼で目じりが少し上がった男。
笑ってこちらを見てる。
松本!!
「分かりましたか?僕は不法侵入などしてなくて、ここで全部君をコントールしていたんです。まず最初にイズルさんの達の目が大きくなって君を卒倒させたのはゴンゴ族『わが眼を疑うな』と『問いかけは災いのもと』をブレンドした合わせ魔術の技、あと空に浮かんだのは諺にもある『運は天にあり』こいつは、運次第でどこまでも浮くってやつ、はっはっ!!これは効きましたね!!見事な落ち方でした」
僕は辞典―――いや、いまは魔術書だ!!そいつを脇に抱えマンションの階段を急いで駆け下りる。
「それで最後は自分自身に掛けた『ドッペルゲンガー』があなたの部屋にお邪魔した次第で、あなたはそいつをぶん殴ったんですぅ~」
松本への一言。
知るか!!
そんなことはどうでもいいんじゃ
唯、ただ、お前にパンチを喰らわしてぶん殴りたい‼
悪さをした、お前を!!
夏風が僕と松本の間に吹く。風の吹いた隙間が今の僕と松本の距離なんだ。
そいつを今僕は急いで埋めている。
夏風はお前を逃がさないぞ!!
「へぇ・・悪さですか?君にしたことはちょっとしたことで大したことないじゃないですかぁ~?」
影がゆっくりと松本に戻って来た。
僕の気持ちが夏風を掴んでそいつをぐいって引き寄せようと走らせる。
「もっと急いで、ほら早く、僕の側へ。だってこだま君、君は人類にとってもっとひどいことをしたんですから・・そいつを早く教えてあげないとこちらだって怒りが収まりませんよ」
松本はとても冷たく厳しい口調で高速道路の向こうに見える空を見て呟いた。
分かっていること。
それは自分が学び得たこと。
まだ知らないこと。
それは自分が学び得ていないこと。
今の僕がその二つから得たことは
松本は魔術なんてなくても普通に強く、自分はまだこの世界の本当を知っていない存在なんだということ。
高速道路の下の小さな公園で僕は地面に大の字のまま松本を見上げた。
奴を掴みかけた瞬間、勢いよく襟首を掴まれて空に投げ出された。
怒りの勢い何て持続性を持ち合わせていないロケット弾みたいなもんさ。
エネルギーが切れれば一気に落ちるだけ。
そう、だから一気に意気消沈。
あとは唯冷静に相手との力量を図るバロメーターが動き出すんだ。
ただのおっさんだと思っていたのに。
確実に武術をしたことのある人物の投げだった。武術などしたことがない僕など歯が立たないことは瞬時に分かった。
「こだま君、大の字のままでいいから聞いてくださいね」
松本が地面に投げ出された魔術書を手に取って開いた。
「君、ここにあったQRコードみたいなものをスマホで読み込みましたね?」
僕はじろりと見た。
「こいつはね、実は高度な魔法封印なんですよ。そうその封印は千年以上の物で通称千年封印、ミレニアムロックというんです。そしてQRコードみたいに黒くなっている部分には実に小さくて巧妙なルーンが書かれているんですよ」
松本が屈みこんで倒れている僕の眼前でそれを広げる。
「良く見てください」
じっと見る。
・・・いや、見えないけど?
「じゃこれで見て下さい」
松本がジャケットから例の四角・・ルーン石板というやつをかざした。すると石板にQRコードが映し出され、それをスマホの画面で拡大するように親指と人差し指で広げる。
ん?
僕はそこに何かを見つけた。
広げられた箇所に松本の言うとおり何か言葉がぎっしり書かれている。
「見えましたね。つまりこれはルーンを小さく書き込んだ魔法陣なんです。昔のドイツの芸術家デューラーにもできない程の素晴らしい細密な工芸品です。これは封印されたものを閉じ込めた魔法陣でこいつを開放する方法は実は今まで不明だったのです・・しかし・・・」
ごくり
「偶然にも君がそれを開放したんです。つまりそのスマホで魔法陣を読み込み、自動解読、恐らくスマホのQRコードを解読する技術が魔法陣を開放する技術だったんでしょうね。全く驚きでした、そんな技術がこのミレニアムロックを解除する方法だったなんて・・」
スマホが?
全然関係ないだろ?
「そう思いますか?そんな顔してますね。さぁ立ってください。少しだけ魔術の事を説明しましょう」
松本が差し出した手を僕は握り立ち上がる。砂埃を松本が手で払ってくれた。
「こだま君、この世界にはまだ知らないことがあるのですよ。それらの事を知ることは『知の探究』と言える事かもしれません。それはこの世界の複雑な構造を解明し、この世界の真を知ることでしょう」
「ビッグバンで生まれたこの宇宙。そう銀河にはその後沢山の惑星が生まれました。しかしそれらは幾度となく衝突や小さな爆発を繰り返し、やがて銀河には大きな恒星や惑星が出来ました。勿論地球もそうして生まれたのですが地球誕生と共に沢山の宇宙に散らばった星々の破片、それが地球に落ちてきて地球のコアに集まりそれが殻と地球の表面深くに埋まっています。そう、つまり地球のコアには遥か彼方、幾億光年の惑星の欠片が今でも眠っている訳です。そして地球に生命が生まれ、やがて人類が地球上に繁栄を始めました。
さて話題をここで変えましょう。バベルの塔の聖書の話はご存知ですか?そう、そうです。あれは嘘ではない。人類は一つの言語を話していたが、神の怒りに触れて世界各地へバベルの塔から散らばった。そのとき実はある言葉を記載したものを僕達の先祖は持ち出そうとした。そう人間が持ち出そうとしたものというのは、それは神が私達に語った「真実の言葉」なんです。それはバベルの塔の中にあった・・・、つまりその言葉こそがルーン言語です。それは神の奇跡を起こす言葉で非常に大きな力を持ったものでした。人間達はその頃、実は神と同じ言葉を話していたんです、だからそのルーン言語の力を知っていた。ただ、どうすれば奇跡を起こせるかはまだ知らなかった。
それを恐れた神は言葉を理解できなくする為、互いに言葉を複雑にさせ世界各地に散らばらせた。互いが何を話しているのか分からなくさせて・・
何故そうしたのか?そうしなければ将来、人類が再びどこかに集まりこの世界に奇跡を起こす神の言葉を探り出し、使おうとしようとするかもしれなと考えたからです。
では話を戻します、いいですか?いつの頃からでしょうか・・世界へ散らばった民族たちの言葉がある鉱石に輝くことを私達は分かったのです。それは全ての言葉ではありません、そう、バベルの塔から持ち出そうとしたある言葉が・・なんです」
ほう、で、
話しはいつまで続くの?
「その言葉が反応する鉱石を、学名が無いですが『ルーン鉱石』と僕等は言ってます。黒くて軽い、しかしながら何かじっと人間の水分を吸い取りそうな鉱石・・。
人間はその後科学的に飛躍しました、いまでは生活の色んなところで地球にある鉱石を使用し始めていますね・・そしてそれらは現代のあらゆる製品に使われている。地球誕生によって引き寄せられた鉱石達、それは鉱石が様々に結合して君が使っているスマホにも使用されているのです」
スマホを手にとった。
するとそのスマホの画面に松本が何か指を動かして、僕に言う。
「こだま君、画面を上にしてフリックでもスワイプでもしてみてください。あの高速道路を支えている柱に向けて」
僕は言われた通りにした。
「はやく!!」
え、
指が動いた。
その瞬間、
ビュゥゥうぅうううううううう!!!
突然風が吹いて近くの草木が巻き込まれて小さな竜巻となって柱にぶつかった。
風の音がコンクリートにあたり瞬時に消えた。
「え?・・何々!これっ!!」
松本が僕の側で言う。
「魔術を発動させました。これは『かまいたち』」
「発動???ど、、どういうこと?」
松本が言う。
「バベルの塔から持ち出そうとした神の言葉、それをルーン鉱石に書けばこのように『魔』を発動させることができるんです・・そしてこれこそが・・」
間を置いて、言った
「魔術」
つまり・・
それは?
結論は?
どうなると言う訳??
「魔術は神の言葉なのです、そうルーン鉱石に書けば対象に対して発動することができるのです。現代までに分かり得たこと、それはルーン鉱石の役割は神の言葉を探すレーダで在り、そして魔術の発動機でもあるのです。現代ではルーン鉱石は広く色んな鉱石と結合しているので、このスマホにも使用されているから、今みたいに魔術を発動できるのです」
松本が手にルーン鉱石を持って僕に言った。
「しかしながら私、松本の持つ、この100パーセント純粋なルーン鉱石程、力はないですがねぇ~」
言うや否や、素早く鉱石にふれて、さっきと同じように手をどこか忍者が手裏剣を投げるように動かした。
ビュゥゥうぅううううぅううううう!!
ビュゥゥうぅううううぅううううう!!
二重の竜巻が現れて今度は激しく柱にぶつかり、バチッと音を立てて、一瞬で消えた。
「ワンだふぅるぅ~じゃないですかぁ~」
いや・・
どちらかと言えば
お前の語尾の伸ばし方がワンダーだけど
「さて、これからが本題です」
でぇえええ?
すか???
話、長っ!!!
「それでこだま君、本題ですがね。君が封印を解いた魔法陣、そうミレニアムロックですが・・」
そう言った時、松本のスマホが鳴った。
「あ、失礼」
松本が僕の側を数歩離れてスマホを耳に当て背を僕に向ける。誰かが電話をかけて来たのだろう。
僕は奴が背を向けてる間、先程説明をしたことを懸命に頭でまとめる。
えっと
ビッグバン
バベルの塔
神の言葉
ルーン鉱石
そんで
その鉱石がなんか探知機で魔術の発動機で
スマホにも使用されているらしい
とか・・?
そんなことを言ってたんだよな?
「あ、はい。分かりました。ええ、すいません。ケアマネさん、何卒、宜しくお願いします」
それで松本が電話を切り、僕の方を見た。
「すいませんね、家の母親が要介護で少し認知症がありましてね。ははは」
そう笑うと、一つ咳払いをした。
「で」
松本が言う。
「君が興味本位で行ったミレニアムロックの解除、そもそもミレニアムロックというもがどういうものか?それを教えましょう」
するとまたスマホが鳴った。
その呼び出し音は先程に松本のスマホの着信ではなかった。
ましてや僕の着信音でもない。
でも、鳴っているのは僕のスマホだった。僕はスマホを手に取った。ラインに着信が着いている。しかし全く身に覚えがない、着信。
なんだ?これ。
僕がその着信を見たと同時にスマホからデジタル音声が流れて来た。
ピー
#ロックは解除されました。
ピー
#これより人類は至急非難を始めて下さい。
なんじゃこれは?
「貸せ!!」
驚く僕の顔を見て、松本がスマホを取り上げる。
僕は松本の険しい表情をじっと見た。松本のつぶらな眼が食い入るように画面を見ている。
やがてデジタル音声が消えた。
松本が僕のスマホを手にしたまま頭を掻いた。
「こだま君、ミレニアムロックというのはね。この地球の環境を人間が住みやすいように神が仕掛けた封印なのです」
神が仕掛けた封印?
「良く聞いて下さいね。そもそもこの地球というのは人間、いや地球に生きる生命種にとって本当はとても厳しい星なのです。地球本来の姿は種にとって本当に過酷で生きることも困難です。氷河期というのを聞いたことがあるおもいますが、もし、そんな氷河期が来たら地球上の種はどれくらい生き残るでしょうか?いやそれだけではない。今の地球全体の地表が三分の一、海に沈んだら?もし旧火山が本来の姿を取り戻したら?もしアマゾンの森林がこの世界から消えて二酸化炭素が溢れた世界は?そうした考えられる『もし?』を沢山並べてみて下さい。地球は本当に美しく生命が生きるべきエデンと言えるでしょうか?」
僕は松本の台詞を聞いて、確かに・・と思った。
もし日本の全ての休火山が全て爆発したら、日本は人間の住める世界といえるだろうか?
もし昨日のような巨大な地震が毎日襲えば人類にとって過酷な環境ではないだろうか?
そう・・ひょっとしたら人類は絶滅するのでは?
え・・
人類の絶滅?
だって??
「そうです」
松本の擦れた声が聞こえた。
「つまりミレニアムロックというのは神がこの地球を人類が生きることができるように仕掛けたそうした気候変動を抑えた封印なんです」
僕は沈黙する。
冗談じゃない。
「それじゃ言うけどさ。そんな神様がいるんだったら、神に頼んだらいいじゃない。神様に頼んで、そのなんとかという封印をもう一度してもらえば・・」
そこまで言うと松本は肩をすくめて僕に言った。
「それができないんですよねぇ~」
ここに来て嫌な語尾の伸ばし方!
「ど、どうして?べつにいいじゃん。もう一度頼べばいいじゃん!!ちゃうん??」
奴が首を振る。
「なんで?なんで、できないのさ?」
「こだま君、君・・知らない?この言葉をぉ~?」
「な、何をさ??」
松本が真顔で言った。
「ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉」
え?
「神は死んだ」
松本がスマホの画面に言葉を書いて手渡す。僕はスマホを見た。
そこにルーンに反応して輝く言葉が見えた。
そう、
神は死んだ
つまりその言葉は・・
「そうです。魔術なんです。魔術が発動して神はこの世界から消えたのです」
へぇ・・
そうなんだ
そう思ってから直ぐに松本は用事が出来たと言って会社へ戻った。
あいつ・・会社員なん?
奇想奇天烈な摩訶不思議、そんな事象に沢山出会った日だった。僕は枕もとに松本から保管を受けた辞典(もう、魔術書と言っていいのだろうと思う)を置きながら、眠りについた。
眠る時少し揺れたような気がした。地震かもしれない、しかしそんなことはどうでもよい程疲れていた。
窓越しに聞こえる蝉の声。
真夏の太陽は沈まないのか?
顔に当たる強い陽ざしを避けるように手をかざすと、僕はテレビをつけた。
画面に昨晩揺れた地震の事が報道されている。北海道の方で揺れたようだ。多くの土砂が崩れ落ちている空撮の映像が見えた。
起きると寝ぐせを手で押さえつけ、パンを齧る。
僕はスマホに目を遣った。
(こうしたことが僕の不注意で起きたことだというのだろうか?)
不安が混じるパンを一口、齧った。
(本当だろうか?)
LINEが鳴った。見ればイズルからだった。メッセージを見る。
#ほんまやでこだま!!
うちら天才やカラ!!
何が?
心の中で問いかける。
すると写真が来た。
細いロープの上で、イズルとマウロがヘルメットを被りながら片足を踏ん張りながら片手を繋ぎ、片方の手足を空に向かって大きく開いている。画面下には巨大なキリスト像が見えた。
(これってブラジルのリオデジャネイロにあるコルコバードのキリスト像じゃねぇ??)
まじか??
アイツら・・今ブラジル??
あまりにも唐突な行動をとるイズルとブラジル出身のマウロ。この組み合わせなら、アリだな・・そう思った時、良く写真の下を見ると普通に床が見えた。
なんだ・・ヴァーチャルリアリティ・・かよ
僕は返信する。
#イズル・・下の方で床が見えてる
きっと得意満面であいつら僕に送って来たんだろうな。得意満面の二人が一気に残念な表情になるのが浮かんだ。
返信が来た。
#くっそー
うちらの魔法、効かへんかったか!!
くすりと笑いながら返信する。
#ちなみに魔法の名前は?
数秒して返信が来た。
#忍法!!
雲隠れ
あー
うちらが地元から消えて驚く思うてんけどな!!
残念
そかそか、
残念やったな
でもな、イズル
それ
魔術じゃなくて・・
忍者の忍法だよ。
僕はスマホから目を離して立ち上がった。
今日、バイクを買いに行くんだ。これから。
イズルに返信するとリュックに魔術書を入れて急いで部屋を出た。
霧雨のような雨が降る。
真夏の太陽は少しだけお休みだ。
ここ数日うだるような暑さで、街行く人々の顔にも少し疲れた翳が見るような気がする。だから今日のこの霧雨は、ちょっとした恵みを与えてくれてるような気がする。
買ったバイクはマンションの駐輪場に停めてある。
今日は出番なし。
だから僕は傘を差しながら街をぶらぶら歩いている。
僕は思う。
僕達は太陽の陽ざしばかりでは生きてはいけない。
また雨ばかりでは生きてはいけない。
その二つがバランスよく天秤のように左右対称になって僕達は生きていける。
もしそのバランスが崩れたら?
僕は通りに出ている電気屋の最新型テレビ画面を見る。画面に南極の巨大な氷が流れ落ちてる映像。それについてコメントする学者達。
地球について未来を考えるサミットは僕達を正しく導く賢者たちの場だろうか?
本当の姿は互いの利権を守るための意見の場でしかなく、それはやがて自滅へと導く導火線の火付け場所でしかないのではないだろうか?
そしてそのバランスを保つため神が人類の為に地球に施した封印。
それがミレニアムロック。
本当に封印なんて
有るんだろうか
松本のでまかせじゃないのだろうか?
しかし、と僕は思う。
それにしてはあいつが見せた摩訶不思議な現象。
おかしすぎる。
傘を差す人が過ぎ行く通りを見ながら松本がしたことを思い出す。
確か
かまいたち
僕はスマホにその言葉を書いて松本がしたように手を素早く動かす。
数秒
びゅうぅう
ぅううううぅうぅぅう
霧雨降る通りに渦が巻きそれが勢いよく走り出す。
街行く人がそれを見て振り返る。
「な、何だ、これは!!」
一斉にその声に皆が立ち止まる。
(うわぁ!)
僕は声を心で上げると、その場から急いで離れた。
背の向こうで混乱する人々の声。
「傘が!!」
その声に振り返る。
小さな竜巻に乗って傘が空へと舞い上がり、やがて勢いを失くした竜巻が消えると落ちてきて街路樹に突き刺さった。
その時スマホが光り出した。僕はあわてて手に取る。すると緑を含んだ蛍の蛍光色でかまいたちという文字が浮かんではじけるように消えた。
ビルの影に身を隠して僕は大きく息を吸った。
やっぱ
マジ、現実なんだ
心臓の鼓動がコトコト音を立てているのが分かる。
僕は本当にどうなっちまうんだろう?
いや
もしかしたらこの地球はどうなるんだろう?
スマホが鳴る。
見ればLINEにメッセージが来ている。
#こだま~
うちら
屋久島いくで
ほんで、縄文杉見る~~
そして写真が来て、イズルとマウロの二人が飛行機をバックに写真を撮っていた。
僕はそれを見て返信する。
#イズル
気をつけてな!!
何か危なかったら、直ぐに逃げろよ
送信して思う。
(何から逃げろというのだろう?)
返信が直ぐに来た。
#こだま心配しすぎ!!
うん、もしなんかあったら逃げるわ!!
それを読んで直ぐに、またメッセージが来た。
#急に心配してどうしたん?
こだまさー
もしかして好きなん?
うちの事?
数秒、それには沈黙した。
そして返信する。
そうかもしれない
マンションの階段から空が見える。その空を進む飛行機が見える。
(もしかしたらこいつにイズルとマウロが乗っているかも)
そんなことを思うと、ヘルメットを脇に抱えてエレベータで降りる。
夏の時間が今僕と共に降りてゆく、そこに何があろうとも時間は僕の側を離れないだろう。
扉が開き眩しい輝きの中に足を進める。
鳴く蝉の声。
路上に落ちて流れる白い雲の影。
僕はバイクに跨った。
エンジンをかけて、ミラーを見る。スロットルを回してバイクを走らせた。
堤防沿いの道を走る。
流れ、流れる街の風景。
ただ、ただ風に身を任せて、進んで行く。
気が付けば潮の香りのするヨットハーバーに居た。
何艘ものヨットが係留されている側で僕は揺れる帆を見る。
潮風に運ばれてくる香りに翼を泳がせる海鳥。
それが空を大きく横切ってゆく。
鳥よ、
お前はどこに行く?
ヘルメットを脇に抱えて小さなベンチに腰を掛けた。
セーリングを終えた人が会話をしながら目の前を過ぎて行く。
「台風が来るらしい」
その声に相手が答える。
「らしいな。何でも今回はでかいらしい。だからかもしれないが沖に出たら風が強くて大変だったよ」
その言葉に顔を上げた僕。
(台風か・・)
スマホを手に取り気象予報のページを見る。
確かに発生したばかりの台風の情報があった。そいつはまだ日本から遥か南の洋上にある。
975ヘクトパスカルーーーー
別にそんなに巨大じゃない。
僕はそのページを閉じるとバイクに歩み寄る。
海を見れば白い帆が輝く海の上で風に流れているのが見え、小さな一艘のヨットが風に揺れた。
(海の上じゃ、強風が吹いているんだ)
ヘルメットを被り、スターターでエンジンをかける。
(台風が過ぎたら、ケイタのとこにでも行こうかな)
僕はスロットルを回して、夏の暑い陽ざしの中へと進んで行った。
「あかん、あかんわ。これは」
松本の声を聞きながら僕は高速下のベンチに腰かけて、顔を上げた。
は?何が?
そんな目で松本を見る。
タブレットを指でスライドさせながら、また何事かを松本が呟く。
「あーー!!もう!!」
言ってから、頭を掻く。
だから?何が?
そう口に出そうとした時、松本が僕を見た。
「いや、見てください。これこれ」
松本がタブレットを差し出す。それは気象予報のページだった。そこに台風の情報があった。
「台風じゃん、これが何か問題でも?別に大きな奴でもないし」
松本が眉間に皺を寄せて、ちっちっと指を振る。
は?何、その態度?
不快そうな表情で松本を見る。
一時間ほど前、スマホが鳴った。見れば松本だった。何でも非常に深刻な事態になったので話がしたいというから、高速下の公園のベンチで松本と待ち合わせをしたのだが。
こいつは人の気持ちだけを逆なでするのが得意なのかもしれない。まるで不快な気持ちになる為に、待ち合わせたもんだ。
小さく舌打ちをした。
「ふーーーん、それがこだま君、君の態度ですか?重大なことをしでかした君の態度ですか?」
最後は少し語調を強めて松本が言う。
何だよ、それ。
松本がタブレットを自分に引き戻すと言った。
「この台風が君の不注意で引きおこしたミレニアムロックのせいだとしても、そんな態度をするの?」
その言葉に僕はぎくりとした。
「この台風が?だって?」
松本が顎を触る。
「だってさ、台風何て毎年発生するし、別に何もおかしい異常気象でも何でもないだろう」
髭を抜いてしかめっ面になる松本。つぶらな目の奥から冷たい殺気が浮かんで、一重瞼が薄く閉じられた。
「こだまくぅ~ん」
ぎくり
何だこいつ、ぞくりとするような冷たい口調で。
「台風は確かに毎年発生していますが、良く考えてください。いつも日本に近づくと大きく右へと流れて行きますね。だから時には日本に上陸せず、ということもあります」
松本が耳穴をほじる。
「しかし、もし台風がそうではなく、北上する度に大きくなり、直進で進んできたらどうなると思います」
直進?巨大化だって?
「そんなことあるもんか。だって台風は温暖な海域で生まれ、それが偏西風やジェット気流の影響で接近してきてくる。それが台風の・・」
そこまで言って僕は黙った。
それは正しい気象条件で在ればこそ。
もし、それができない環境、
つまり、異常気象なのであれば
台風の進路が変わることも・・
瞬きをして、松本を見る。
「ここ数日、日本海では獲れないような太平洋の魚が多く水揚げされているようでね。恐らく温かい海流が対馬から日本海へ、いや至る所から流れ込んでいるのですよ。つまり海水温が異常をきたしているのです」
え?ほんまに?
僕はスマホでニュースを検索する。
あった!
敦賀、石川、島根の漁港で普通獲れないような太平洋の魚が水揚げされている記事。
水温が例年よりも急に高くなっている為かと書いてある。
「こだま君、君・・学生でしょ?そうしたニュースは良く見ておかないと就職試験の時に企業から見下されますよ」
そいつは確かにそうだが・・
「でも、どうして直進するんだよ。地球には風が吹いているだろう。そいつが台風をいつも通りの軌道に乗せてくれるはずだ」
松本がやれやれという感じでタブレットを見せた。
「良く見てください。この台風を」
僕は画面に顔を寄せる。
じっと見る。
「どこかおかしいでしょう?」
どこが?
じっと見る。
どこも
どこもおかしくないやん。
確かに昼間見たより雲が大きく広範囲に広がってるし。
台風の目もはっきりしてる。
巨大な渦もある。
う、
うん?
あれ、あれ?
この渦?
あれ、あれ、あれ?
(え!!、えーーーーー!!)
心の底から僕は驚いた。
松本を見る。
「分かりましたか?」
僕は首を縦に振った。
「そう、この台風。反時計回りじゃなくて時計回りなんです」
驚く僕の方に手を置いて松本が言う。
「タイの言葉でアッサニー、日本語で『稲妻』がこいつの名前らしいですよ。異常な時計回りの稲妻が今まで通りの進路ではいかないでしょうね。風はちゃんと偏西風も吹いてるんです。こいつは禍々しい災厄ですよ。人類にとって」
するとスマホが鳴った。
無機質なデジタル音が鳴る。
ピー
#ロックは解除されました。
ピー
#これより人類は至急非難を始めて下さい。
その声に僕と松本は立ったまま静かに聞き入って無言になった。
翌日、テレビやネットのメディアは台風アッサニーについての話題で溢れていた。
時計回りの異常な台風。
気象予報士、学者達がこぞってこの台風についてコメントをしている。
僕は窓から見える青空の下でそれらをひとつひとつチェックしていた。
その予想進路は右に左に蛇行することなく、ほぼ直進で日本を直撃ルートになっていた。
また海水温度の急な上昇もあり、日本に来る頃にはおそらく900ヘクトパスカルになるのではないか・・・。
900ヘクトパスカルーーーー
異常台風としか言いようがない。
僕は思った。
こうした台風が来る環境というのが地球本来の姿なんだ。いやもしかするとあの中東の砂漠に現れた大河も、もしかしたらまだ報道されていないことも沢山あるかもしれない。
それら異常気象は人類が地球で生き残れる環境にするために遥かな昔、松本のいう話では神によって封じ込められていた。それがミレニアムロック。そう、複雑な魔法陣のQRコードとして。
それは人類の為でもあるのだろうけど、地球の多種多様な種の為にも大事なことだったに違いない。
僕は魔術書を開き、ミレニアムロックのページを見た。
魔法陣の図柄の下に、絵が描かれている。絵は扉が開き、そこから雷や太陽、水その他何かを示すような絵が描かれてあった。
意味を知ればそれらが扉によって解放されるということに違いなかった。
その下に頭を抱えて歩く人類の絵が描かれていた。
まるで聖書に書かれているかのようなハルマゲドンから逃げようとする人類のように。
はぁあ
深く溜息をついた。
開かれた扉。
僕は魔術書を捲る。
次のページには、扉を押さえる大きな手の絵があった。
これは何だろう?
巨大な手が扉を押している。
言葉が書かれているが勿論翻訳は出来ない。
しかし・・
不意に何かを思いついて、僕は見開いたページとミレニアムロックのページを交互に開く。
これって扉を押し戻すことが書かれているんじゃないだろうか?
その時、部屋のドアホンが鳴った。僕は立ち上がり、ドアホンの画面を見た。
そこに眼鏡をかけた見知らぬ男が立っている。
(誰だろう?)
僕は訝し気に玄関へ行き、新聞の勧誘ならば断わろうと決めてドアを開けた。
「はい、どちら?」
僕の声に男がにこりと笑うと、名刺を差し出した。
「昼間に失礼します。私、猪熊と言います。こうした団体の一員でして・・」
うわ、
マジ嫌な奴やん。団体の勧誘何て!!
出なけりゃ良かった、そう思ってしぶしぶ名刺を手に取った。
男がじっと僕を見る。視線を避けるようにして書かれている団体名を見た僕は眉を細めた。
なんじゃ・・これは?
男がにこりとした。
「はい、私ども地球を美しいもとに戻そうという環境団体『真の地球』というものです」
部屋に入れるのは嫌だ。
直感が囁く。
シカトを決めようかと思った・・が、何の脈絡もなくこうした団体が現れるはずがないとも直感がカンカンと踏切のように鳴る。
話は聞こう、リスクのない範囲で。
靴を履くとスマホをズボンに押し込み、男と二人マンションのエレベータを降りる。エレベータのガラスに男の顔が見える。
眼鏡の奥は二瞼、鼻筋は取っていて細身の長身。
スーツでも着ていればどこかのエリート銀行員のように見える。
ドアが開き、高速下の公園へと男を連れ出す。
夏の午後、風は吹かぬ。
暑い中、僕がベンチに腰掛けると男も横に座った。
僕は手にした名刺を見る。
「すいませんが・・、宗教なんかの勧誘ならお断りですので」
いやいや、違います。
男が手を振る。
「宗教なんてとんでもない。私どもは環境団体の一人でして・・」
ほんまか?
胡散臭いやんけ
「ええ、本当に。色んな地域で地球の保護活動をしているんです。子供達と木を植樹したり、自然な護岸を増やしたり」
「そうですか」
「ええ、そうやって少しずつ地球を本来の美しい姿に戻そうとする団体なんです」
「つまり自然保護団体ですかね?」
「ま、そんな所です」
男がにこりと微笑する。
嘘では無いみたいだな。
「で、そんな団体が何故、僕の所へ?」
「いや、聞きましてね」
「何を?」
「いえ、松本さんをご存知でしょう?あの方からあなたの推薦を受けましてね?」
松本が?
僕は怪訝そうな顔をした。
「松本さんがね、あなた・・こだまさんと言うんですかね?是非、私どもの団体員に特にふさわしい方だというものですから」
笑みを浮かべて、眼鏡の奥から僕を見る。
はぁ??
何が?
これは、うざぃ。
松本めぇ~~‼!
舌打ちしながら男に言った。
「申し訳ないですが・・個人的には全然興味が無いです。自然とか保護とか、そういったやつ。申し訳ないっすけど」
それで僕はベンチから立ち上がった。
男が驚くように言った。
「そうなんですか?あれ?松本さん・・私どもに間違えたんですかね?彼ほどふさわしい人はいないよと言ったのですが」
素っ気なく
「そうじゃ、ないっすか」
と、答える。
「そうですか」
「そっすよ」
背を向けて立ち去ろうとした。
その時
「だってミレニアムロックを解除して、地球を本来の美しい姿にされた方ですからね」
男が僕の背に言い放った。
なに?
何故?その話を?
僕は振り向かなかった。振り向くのは何故か危険な気がした。
そう言えば男は言った。
――地球を本来の美しい姿にと
そのコンセプトは確かにミレニアムロックと符合する。
『真の地球』団体って言ったよね・・その正体は何なんだ?
スマホが鳴った。画面を見れば、松本だった。
電話に出た。
「もしもし、こだまさんさんですかぁ~」
カチンと来た。
こちとら忙しんだ!!
なんで人の癇に触れるタイミングで語尾が伸びるんだよ、お前!!
「松本さん、あんたね。なんか変な団体の人、僕に押し付けただろ?今その人物が来てんだよ!!」
怒鳴って言う。
電話向うで沈黙する松本。
深く吐く息が聞こえる。
「何て言う団体ですかね?」
「ああ??知らんの?あんた!!」
僕は語気を強めた。
「言うぜ!!『真の地球』だってよ!!」
背後で何か動く気配がした。それを感じた時、僕のスマホが男に取り上げられた。
「ちょ、ちょっと。何すんだ、あんた! !」
僕の怒気など気にせず、男は電話向うの松本に話しかけた。
「あ・・松本さん?私、『真の地球』17支部の猪熊と言います。初めまして。団体の事はご存知かと思いますが、今日はこだまさんにご挨拶と御礼を申し上げに来ました。ミレニアムロック、いえ千年封印を説いて頂き私どもは大変感謝しています。はは、何
もそんなに沈黙されなくても宜しいじゃないですか。長年の封印の謎が解明され、私達は新しい新世紀のミレニアムを生きることができるのですから・・ええ、じゃこれで電話を切らせていただきます」
男はそう言って電話を切った。
な、何やねん・・
スマホを受け取ると男は言った。
「こだまさん、また伺います。では今日はこれで。松本さんに宜しく言ってください」
「どんな奴でしたか?」
松本が言う。
僕は猪熊という男の相貌を思い出しながら、それを伝えた。
眼鏡の奥は二瞼
鼻筋は取っていて細身の長身。
スーツを着ればどこかのエリート銀行員。
松本は首を傾げた。
「知らないですねぇ~」
語尾を伸ばして僕を見る。
ここは深夜のファミリーレストラン。席についている人がまばらなためか、クーラーが嫌というほど効いている。
僕等はホットコーヒーを飲み、冷えた身体を温めながら話をしている。
「知らないやつ?」
松本が頷く。
「そんな団体、ちっとも知りませんね」
コーヒーをぐっと飲む。
「そう・・でもミレニアムロックの事は知っていたようだけど」
腕を組んで松本が唸る。
「うーーーん・・、そこですよね。そんなこと魔術組合以外知らないんですがね・・」
「魔術組合?」
「ええ、魔術ギルド、簡略してギルドって僕等は言います」
松本が言う。
魔術ギルド、世界に散らばっている魔術書ごとに13のギルドがあり、それは世界各地に存在している。誰もがギルドに加入できるわけではなく、そのギルドを統括している魔術師とその魔術師が弟子と認めたものだけが加入できるーーーー
松本はそう説明した。
「まぁ魔術師の労働組合ですね」
あるんやね、労基みたいな組織が。
「もしかしてはぐれ・・かな、そいつ?」
「はぐれ?」
「ええ、つまり弟子になったが・・、ある理由や事情で破門された弟子のことを言いますが・・まぁその理由というのは色々あるのですが。一般的には魔術師らしからぬ品性に問題があったと思ってください」
「そんな奴おんの?」
僕の問いに松本が言う。
「そうですね、まぁ・・ここ日本では最近はいないですが・・過去には」
「過去?」
松本が言い淀む。
「誰よ?」
少し沈黙して
「天草四郎」
と、松本が言った。
ぽかーんと僕は口を開けた。
「天草四郎って、あの『島原の乱』の?」
「そうですね・・」
僕は松本が淡々と言うのを聞いて、それが事実なのか嘘なのか、全く見当がつかなくなったが、それを信じれば魔術というものは古くからこの日本にも伝わっていたということになる。
「それよりも・・」
松本が言う。
「こだま君、僕は君に大事なことを伝えたくてさっきは電話したんです。魔術書は今ここに?」
僕は頷いてリュックから魔術書を取り出した。
松本がそれを手元に引き寄せた。数ページ捲ると、扉を押さえる手の絵のページを開いて僕に見せた。
ああ、ここ
僕も聞きたかったとこだ。
「ここ?」
「ええ、こだま君・・何か見知ってる感じですね?」
「いや、聞きたくてね。ここってさ。ミレニアムロックを再び封じる方法が書いてあるんじゃない?」
つぶらな目を開いて松本が僕を見る。
「御名答!!」
やはり。
「でもさ、何が書いてるのさ?正直この魔術書、初めて見た時から全然アルファベット翻訳できなかったし、何が書いてあるか全く理解できないし・・」
「ああ、そうですね。確かに、これは分からないですよ。だって・・・鏡文字ですからね」
「鏡文字?」
「そう、鏡に映すと分かる言葉。つまり文字の左右が逆。例えば『かまいたち』は『ちたいまか』」
成程・・じゃ、ここに書かれている文字全て逆さなんだ。
アプリでも翻訳できないはずだ。
「まぁちょっとした簡単な暗号ですがね。直ぐに解読できないようにしているわけです。答えを聞けば簡単明快でしょ?」
YES、THAT‘S RIGHT
僕は心の中で頷く。
「そう、本題はこだま君が言う通り。ミレニアムロック・・実は封印が解放されたらそれを再び封じ込めることができます」
「マジで?」
「YES、THAT‘S RIGHT」
指を左右に振って松本が頷く。
「その為には、『神の手綱』通称ハンドルと言うのですが、そのハンドルを探し、解放されたものを封じ込めるしかありません」
僕は松本の話に聞き入る。
「そのハンドルは、封印が解放された一つに対して一つ必ずあるのです」
頷くと松本が首から下げた懐中時計を僕に見せた。
「これは懐中時計じゃありませんよ。これはハンドルを探すためのルーン鉱石でできた魔道具・・コンパスなのです。それはギルドごとにそれぞれあって別名「十三の書」というこの魔術書にのみ記載されたミレニアムロックのハンドルの場所を示すことができるのです」
松本がテーブルの上にそいつを置いた。そしてコンパスに囁く。
「コンパスよ。台風アッサニーのハンドルはどこだ?」
するとコンパスの針が勢いよく回転する。
すげっ!!
そう思った瞬間、
針がぴたりと止まった。北西を指し示している。
僕は唾をごくりと飲み込んだ。
疑問が浮かんだ。
僕はコンパスの指す方を見る。
深夜の街の通りが見える。
(成程なぁ・・、しかし)
僕は思った。
これ、
ちょっとアバウト過ぎない?
漠然としすぎて、だって北西の何処にあるのさ?
そのハンドルって?
上目遣いで疑い深く僕は松本を見た。
松本は僕の心を読み透かしたかのように頷いて、一言呟いた。
「YES、THAT‘S RIGHT」
コンパスが北西を指した。
その日は、それだけで別れた。
「明日は残業だから」と松本が言って、僕に地図を見て今いる場所から西北上に何か目ざといものがあるかどうか、調べておいてくれと言って去った。
めっちゃアバウトやね
心で呟きながら僕は深夜の街を歩く。人はまばらで誰も居ない。
誰も居ないバス停。
あと数時間もすれば今と通り過ぎたバス停に早朝のバスを待つ人が並ぶだろうな。
朝を待つ時間というものはどこかいつも不思議だ。
過ぎ去る夜とはじまりの朝。
地球は幾億年もそうした時を繰り返している。
僕は不意に曲が聞きたくなった。YouTubeからピーターガブリエルを検索する。
―――While the earth sleeps
映画のサウンドトラック曲をケイタが僕に教えてくれた。多種多様な民族の声をデジタルにサンプリングした曲。
While the earth sleeps
地球が眠る間
なんか今の状況にすごくはまる。
部屋で一眠りしてから、図書館へ行こう。そこで西北に線を引いて松本の言う通り何か見つけれないか、調べてみよう。
僕は薄く紫の筋が見え始めた空を見た。
朝が始まろうとしている。
僕は思う。
僕等の眠りに関係なく、世界は動き始めようとしているんだ。
あいつが僕を見てる。
図書館の静かな部屋の一室で、斜めに突き刺さる嫌な視線。
地図を広げてみる僕に突き刺さる、気分を害する視線。
なんだよ、お前。
軽く舌打ちして、地図を見る。
定規を北西にして何かないか見て行く。
ざっと見て大阪府、兵庫県。
細かく見ても、あんまり馴染めない地名。
それらを指で引きながら視線が地図上の日本海に出る。
ほぇー
この範囲の細かなところをコンパスが差したとなると気の遠くなるような話だ。
うーん
溜息をついた時、LINEが鳴った。
見ればイズルだった。
#やぽー
こだま
こっちは天気ばりばりいいで!!
これからトレッキングいってくるわ
写真が付いている。見れば帽子にサングラスのイズルと陽に焼けて益々黒くなるマウロの姿があった。二人とも肩を組んでこちらにピースをしている。
夏を満喫してるな、こいつら。
僕は単に「OK」と書いて返信した。
頭を後ろに組んで、目を閉じた。先程地図を見た線上に何か台風と関連するようなめぼしいものでもないか考えてみる。
「何かみつかりました?」
ぎくりとして僕は目を開ける。首を回し振り返ると男が立っている。
「あんた・・・猪熊・・」
僕は中腰になって身構える。
まぁまぁ
そんな感じで両手を前に出して、僕の気持ちをなだめる様にしてから真向かいに本を机に置いて腰かけた。
僕はじろりと猪熊の方を見る。
「この辺に住んでんの?」
「ええ、少し行ったところに区役所があるでしょう。その先にある若林パンの隣に住んでまして」
猪熊は肩肘をついて僕を見る。
「私も実はこの図書館の三階に例のやつがあったのは知っていたんですが・・広げてみても中は真っ白空白で・・読めなかったんですよ。でもこだまさん、あなたは読めたようですね?」
真っ白だって??
いや、いや、
ちゃんと書かれていただろう、鏡文字で?
「真っ白空白?だって?」
「ええ、私が見た時は空白でした。全く何も書かれていない。私どもが調べたところでは、あの魔術書は意思を持っているのか・・自ら認めた者にしか言葉を示さないそうです」
僕は猪熊がにやりと笑うのを見た。
「つまり、ミレニアムの魔術師」
僕が?
沈黙する。
僕は魔術師でもないし、
松本の弟子でもないんじゃない?
(あいつが勝手にそう認めたたらしかたないけど・・)
猪熊は本を手に取り、数ページ捲った。彼の瞳に文章が映る。
こいつ、何考えてるんだろう?
本を見る彼の視線が止まった。
「こだまさん、人類は地球を食いつぶしている。オゾン層破壊、森林伐採・・・。」
食いつぶす・・
「地球は本来の美しい姿ではない、今は眠っているのです。そんな眠れる赤子を人類が食い尽くすことは畜生以下です。そう思いませんか?」
そこで視線を上げた。
「クーラーの効きすぎる施設。食べきらず残される食糧、あまりにも過度な人工エネルギー消費と過剰ともいえる食糧調達の為に消されていく多くの動植物種、それらは地球が人類に与えている恩恵を何も考えず食い散らしているの証です。砂漠化、温暖化等が引き起こしている環境破壊を深く知れば地球という青いエデンの崩壊が足元から始まっているのを知るはずです。今、ここでそれらを食い止めないと・・この星に生きる人類も含めあらゆる種は消え去る事でしょう」
猪熊は本を閉じてじっと僕を見た。
「こだま君、ミレニアムロックを再び閉じることを考えるのはおよしなさい。もし考えを改めないのであれば『真の地球』団体があなたを全力で抑え込みにかけるでしょう」
脅しかよ
僕はリュックを背負って席を立ち、振り返った。
もうそこには猪熊の姿は無かった。どこに行ったのか?
室内を見回してもどこにも姿が見えない。
不思議な奴だ
僕は背中に魔術書の重さを感じながら図書館のエレベーターで下に降りた。フロアを示すランプが見える。
3・・
2・・
1・・
ドアが開く。
アイツ魔術書には意思があって、
そのぉ・・なんだ・・
つまり魔術師として認めるものにしか、その内容を示さないと言ったよな。
つまり僕にその魔術師としての才能があるってことか?・・
だから何なんだ?
それが何か人生のアドバンテージにでもなるっていうのか?
就職にでも有利になるか?
履歴書に書けるか?
僕、魔術師なんですって
笑っちまう。そんなのおかしくて就職何て逆にできっこない。
しかし猪熊、なんでこんなニッチというかマニアックと言うかそんなこと知ってるんだ。
昨晩一応ネットで『真の地球』とググって見た。確かにネット上には出てきた。東京、大阪商工会議所も協賛だ。
地方の植林をしたり、護岸を整理したり確かに普通の自然環境団体だった。ネットの裏チャンネルとかにも何もディスる書き込み何て皆無だ。
あいつら正体が不明だな、カルトじゃ無いだろうな・・
兎に角、僕は夜を待つしかなかった。松本の仕事上がりを待って奴と意見交換するんだ。
さっき会ったことを松本に話さなければ。
LINEが鳴った。
ケイタだ。
見ると渦潮の写真。
でもよく見れば同じ個所に、左巻き二つ、右巻き二つ、それが同時に発生している。
#こだま
異常だぜ!!
何かがおかしいんじゃないか!!
写真を見てごくりと唾を飲みこむ。
もしかすると僕の予想以上に異常が急速に進んでいるのじゃないだろうか?
僕はスマホを見て台風情報を見た。
「うおっ!!」
路上で思わず声を出した。
あまりにも巨大な台風の雲が赤道を覆い、ハワイまで伸びている。
あろうことか中心にあるはずの台風の目が・・
ふたつ存在している。
人間の眼の様にふたつこちらを睨んでいるように見えた。
左右の目、これを良く見れば・・
時計回りと反時計回りの二つが融合しているんだ!!
ど、どーゆうことだ。最初は時計回りだけだったのに。僕は発生当時の写真を見て指で画面を拡大する。
(あ・・これは・・)
見れば時計回りの台風の目の下に重なる様にもう一つの小さな目が見えた。
松本は直進すると言った。
僕は見落としていたんだ。
―――こいつは当初からケイタの送ってきた渦潮の写真のようにふたつ存在していたんだ。
つまり反発し合う二つの勢力がぶつかり合いながら、それは当然直進してやって来る。
それも巨大な雷雲を引き連れて。
これは人類にとって禍々しいほどの災厄だ。
駅から出て来る人の姿がカフェの窓から見える。
時刻は午後六時半。
それは帰宅を急ぐ人達。
もしかしたら、ネットで既に話題騒然になっている台風の事を家族と話そうとして帰宅を急ぐ人が多いかもしれない。
ネットだけじゃない、テレビ等のメディアでも巨大台風を取り上げて様々な分野の学者や識者が議論をしている。
突然現れた巨大な異常台風。
もしそれが僕の仕業だと知れたら
ネットにそのことを書かれたら
ぞくりとする。
そうなれば自分はこの世界では生きてはいけないだろう。
水を一口飲んだ。
駅から足早に降りて来る人の中に松本が見えた。僕が指定したカフェを探してるのか辺りを見回している。
LINEを送る。
目の前っす。
それに気づいた松本がカフェの扉を開けて入って来た。
「いやーすんません。少し遅れて。中々契約がね・・まとまらなくて」
仕事上のトラブルを少し口にして僕の正面に座った。
「それで・・猪熊にまた会ったんですか?」
僕は頷く。
「成程ね・・、まぁLINEで内容は見ましたけど、魔術書の存在も知っていて・・中も見たわけですか・・」
「空白だったと言ってたけど」
松本はウエイターが出したおしぼりで顔と首を拭くと、「アイスコーヒー、一つ」と言った。
「まぁそうですね。こだま君がLINEに書いた通りです。あれは特定の人物にしかその内容を示さないのです。なんせ神の言葉ですからね。また示しても鏡言葉でその内容は暗号のようになっている」
話が途切れたところでアイスコーヒーがテーブルに置かれた。グラスにストローを入れてくるくる回すと松本が言った。
「と、なると・・」
「あんたが言ったはぐれとかいう?」
松本が首を振る。
「可能性は低いでしょう。僕の方では天草四郎以降、誰もそんなはぐれなんかいませんから」
天草四郎ねぇ
「じゃ・・それ以降、つまり魔術師は常にそのぉ・・一子相伝みたいな?」
アイスコーヒーをストローで一口吸って松本が言った。
「まぁ~そんなとこですね」
どこかはぐらかすような感じだった。
「じゃ聞くけどさ。他にもギルドってあるんだろ。じゃそこの海外ギルドに聞けばはぐれとか分かるんでは?」
「勿論です。それも既に確認済みです。回答はNOです」
そうなんか
僕がそこで何か言おうとするのを松本が言葉で押さえた。
「ま、そのことは終わりにしましょう。その内分かるでしょう、猪熊の正体は。それより、ハンドル捜索が先です」
あ・・確かに。
松本がタブレットを取り出し、地図を画面に広げる。
「ここが僕達のいる場所です。こだま君、図書館ではなにも目ざといものは見つからなかったですか?」
首を縦に振る。
「そうですか・・まぁそうでしょうね・・これだけ範囲が広ければ。となると地道に探すしかありませんね」
「地道に?どうやって?」
松本がコンパスをテーブルに置いた。
「コンパスが指し示した方向は北西。示された針はハンドルに向かってるんです。そのハンドルに向かって北か西かどちらかに進めばいずれ針が少しずつ傾いてくる。例えば北に行けば少しずつ西に、西に行けば北に」
なるほど・・
「だからそのどちらかに進んでコンパスの針が真っ直ぐ北か西かのどちらかになった場所を探せば・・」
僕は頷いた。
それは簡単だ。
「ですね」
松本が一気に残りのアイスコーヒーを吸い込む。
「さて北に行くか、西に行くかですが・・」
松本が腕を組む。
僕はカフェの外を見る。既に陽は遠い空に消え、夜が始まっている。駅から出て来る人の姿も夜の闇に交れば、影の一つに過ぎない。
夏の夜風が吹けば、暑い夏の夜を行く影の慰めにでもなるだろう。
その夜風はいつ吹くか。
「西にしますか・・海沿いに西へ進みましょう。北に行くと京都へ向かい山沿いになりますし。神戸へ向かいましょう」
つぶらな目で僕を見る。
「僕はどっちでも・・」
「では。決定ですね。バイクは今からでも行けますよね?」
え?今から?
「なんです?その顔。こだま君、ほらほら、この異常台風、誰のせいですかぁ~?もう時間がないんですよぉ~」
タブレットを叩きながら台風の写真を見せて僕に言う。
うぐぐ・・
鼻につく語尾の伸ばし方。舌打ちしたくなる苛立ちを覚えたけど、それを歯の奥で噛み殺す。
「今から一時間後にこの先の交差点で待ち合わせしましょう。僕も家に帰り原チャリを取りに行きますから」
「原チャ?」
「そうです?何か不満でも?」
「車無いんすか?」
「こだま君、これは捜索ですから二輪の方が言いにきまってます。もし森深い細い林道を車が行けますか?でしょう?二輪が言いにきまってます」
「でもさ・・原チャじゃ」
僕の不満ありありの顔に松本が言う。
「原チャほど燃費も良く、操作性に優れたものは無いです。それに小回りも効く。高速を走るならこだま君のバイクの方がいいですが、今回はずっと下道です。さぁ文句はここまでにして、さっさと行きますよ」
松本が立ち上がりレジに行った。僕は松本の小さな背を見て少し溜息をついた。
リュックを背負って席を立った時、僕は窓の外の夜を行く影と視線が合った。
あれ・・
この視線。
振り返った時、影は既に夜の闇に紛れていた。
これって・・・
「こだま君‼早く!」
松本のけしかける声に僕はそこで考えるのを止めてカフェを出た。
もう一度僕は、影の消えた方を振り返った。
その時、夜風が吹いた。
夏の夜風、それは暑い夏の夜を行く影の慰めに吹くのかもしれない。
僕達は走る。神戸方面へ向かう夜の国道をただひたすらに。
LINEを通じて互いに走行時にルメットしながら会話をしながら時折停まっては、コンパスが指し示す方向を二人で確認する。
尼崎、西宮と移動するにつれてコンパスの示す方向が若干北寄りになる。
つまり探すハンドルの位置が段々北になっているということだ。
となれば兵庫のどこかにハンドルがあるということだろうか。
神戸まで来ると少しヘルメットのバイザーが濡れ始めた。
#こだま君、雨ですね
松本の声がイヤホン越しに聞こえる。
#少し三宮の街で停まりましょう
#了解
返事をして松本の後についてゆく。
原チャの後に二輪がついていくのは大変だ。殆どスピードを出せない。しかし燃費はあまり使うことは無いだろうな。
おっと!!
少し注意が横道に逸れた時、角を曲がった松本の原チャが急ブレーキをかけて停まった。
背にしたリュックが揺れる。
#おいおい!!
#あ、こだま君。すんません。警察です。
#警察?
僕は首を伸ばして前を見る。ここは三宮の繁華街近くの入り口だ。警察官が赤灯を持って松本に声をかけている。
バイクを停め、松本の側に行った。
「なんすか?」
警察官が僕に振り返る。
「御免ね、お二人さん。実はこの先の所でイノシシが数頭出てきてね。街の中を走り回ってるんよ。悪いんやけどここ通行止めやから、他回ってくれる?」
それに答えて言う。
「そうなんすか?でも・・三宮の土地勘無いんすよ。どういったらいいか分からないんやけど」
「どこまで行くの?」
「えっと明石の方です」
松本が言う。
ほんなら・・、そう言って警察官が後ろを指さす。
「ほらあそこの交差点あるでしょう。そこを左に回れば六甲山側に行けるから、それをからJRの高架を潜って下さい。そしたら北野に出る道有るんで、それをまた西に行けばいいよ」
「了解です」
松本がそう言って僕に合図する。
警察官は松本の返事を聞くと僕等の後ろにいる乗用車に声をかけようと歩き出す。
#少し戻って警察の言う通りにしましょう
僕はバイクに戻りエンジンをかける。動き出した松本の後について行く。
#イノシシかぁ、いるんやな。
#こだま君ここら辺は六甲山が近いですからね。まぁでも言われた通り行きましょう。それにお腹も空いたから少し食事をしましょうか
#賛成
そう言って進んで行く。
JRの高架を過ぎた。道路案合図が見え、北野を示している。
#北野へ行きましょうか。レストランもありますし・・。あ、丁度いい。あそこが広いから停めましょう。
僕等は少し広い通りの所にバイクと原チャを停めた。
空から降る雨粒が大きくなってきた。
ヘルメットを脱いで、空を見ながら松本が呟く。
「雨ですね。本降りになるかな」
同じようにヘルメットを脱ぎ、乱れた髪を直す。
交差点に立ちながら松本が指を指す。その方向に北野の入り口が見えた。夜だが明りが見え、なだらかな坂が見える。
交差点を渡りながら話しかけた。
「明日は仕事なん?」
首を横に振って松本が言う。
「いえ、明日から三日間は有給にしました」
「へー、そう?」
「そうです。まぁハンドル探しもありますし、何よりも今月は残業が多かった。それもサービス残業ですよ。サービス残業」
最後の方は少し怒り気味だった。
「休まんと身体がもちましぇ~ん」
松本が語尾を伸ばして首をすくめる。
そんな姿を見て思った。
へぇ・・・魔術師ってのも大変なんだな。
介護に
残業に
なんか分からないことばかりやけど
なんか超絶スーパーヒーロじゃないし・・・
少し同情気味になって松本の背を見た。猫背になるその背に雨粒が落ちる。
その背が気のせいか、微動だにせず停まった。
それが何か強烈な異常を感じさせた。
#こだま君、直ぐに隣のビルへ
はぁ?何?
そう思う間もなく、松本が飛び込む様に雑居ビルの階段へ跳びこんだ。
ち、ちよっ・・!!
――――思考が切れるのを待つことなく僕の網膜に映る影を見た防御本能が横っ飛びにさせた。
足先に突き抜ける風を感じた。
獣、そう野獣。
いや、なんかそんなもんじゃない。
何かビーストと言った方が言い力強さ。
階段に掴まる様に横倒しになった僕へ過ぎ去った影とは別の所から、危険な影が夜を切り裂いて迫ってくる。
―――間違いない!
―――こいつは!!
バンッ!!
激しい音が響いた。
やられた!!
そう思って目を開くと閉じられたガラス戸にイノシシの怒れる目が見える。
それは真っ赤に充血していた。
体格のいい良く肥えたイノシシだった。ガラス戸に衝突したのが分かった。
扉を閉めたのは?
「こだま君、早く上の方へ。ガラスがひび割れてます。もう一度突撃を喰らったらひととまりもない!!」
松本が叫ぶように言う。僕ははっと我に返り、雑居ビルの階段を駆け上る。
松本が手で踏ん張るガラス扉の向こうでもう一頭のイノシシの姿が見えた。
―――二頭だ
僕は夜の中で輝く二頭の赤い目を見た。それがどこか異常に見えた。いや、異常だ。イノシシの眼は赤い、燃えるようだ。その中心の瞳孔が黄色になって輝いている。
―――まるであの異常台風の目のようだ!!
「おい、松本さん。あんたも早くこっちへ!!」
必死で扉を押さえる松本が鍵を施錠する。
カチリ
その音と共に松本がダッシュで階段を駆け上がる。
転がる様にフロアに滑るこむと僕を見てにやりと笑った。
「こだま君、初めて僕の事『さん』づけで言ってくれましたね」
はは、と乾いた笑い声をあげた。
「あんた、余裕あるな」
ドスン!!
ドスン!!
扉に身体をぶつけるイノシシの音が階段に響く。
「早く!!あっちに行け!!・・いやどっか行け!!」
僕の叫ぶ声の横で松本がじっと扉に身体をぶつけるイノシシを見つめる。
「こだま君、あのイノシシ・・・僕達を狙っている感じがしませんか?どこかおかしいです。何か狂っているような凶暴性が僕等に向かっている気がします・・なんか禍々しいですよ」
松本の横顔を見る。
イノシシ共の相貌に浮かぶ異常で凶暴なあの黄色に輝く眼が浮かんだ。
「あんたもそう思う?」
ちらりと松本が僕に同意の視線を送ると、自分達が居るフロアを見回した。
電気が点いていないが外から入り込む街の外灯のおかげでこのフロアの間取が分かった。
それ程広くはないが、最近までオフィスとして使われていたのか数個の机と椅子とロッカーが薄暗い闇の中で見えた。
「上へ繋がる階段は無いですね・・となるとこのフロアで終わりですか・・」
ドスン!
ドスン!
イノシシ共の体当たりする音が響く。
パシッ
ガラスが割れる音がした。
僕は松本を見る。
目が薄く閉じられ、細い息を吐いている。息を吐き終わると松本の全体から何か異様な気が発されて来た。
これって
殺気・・・・。
確かこいつ武術の心得あったんだよな。
「しっかたないですねぇ~」
軽妙な口調で語尾を伸ばす。
「身を守るためです。仕方ない、決めましたよ、こだま君。気の毒ですがあのイノシシ共には死んでも貰いましょう」
さらりとそう言って松本が僕の耳元で呟く。
―――松本の呟き。
それは生命を奪う、まるで儀式のような冷徹な響き。
耳を立てて全てを聞き終えると、僕は「うまくいくかな?」と言った。
松本は
「大丈夫です。既に実証済みですから」
と、言ってにやりと嗤う。
「では、こだま君。ビースト、いやモンスターハンティングと行きましょうか」
階段下の扉を覗き込む。
所以亡き僕等を狙う追跡者の姿が消えんことを願う・・。
しかし・・・、
ドスン!
体当たりの音の後に、ガラスの悲鳴が聞こえた。
パッリーーン!!
ガラス戸が激しく割れる音が響く。
下の扉がイノシシ共の為に開かれた!!
思わず身震いした。
来るな・・こいつら!!
街の外で風が吹いたのか、濡れた雨風に乗って獣の匂いが覚悟を決めた僕の鼻孔に伝わって来る。
来るなら来いだ!!
やってやる。
僕の肩に松本が手を置く。
「では、こだま君。話した通りに」
ひどく冷静な松本の声に僕は頷くと、薄暗いオフィスの中へ飛び込んだ。
獣臭・・
これほどすごいものか。
ロッカーの中に隠れながらも鼻孔に漂ってくる。
僅かな隙間から外を覗く。
オフィスチェアを間隔あけて置いた四方形。
この四方形がやつらへの罠だ。
ゴクリと唾を飲みこむ。
街から降り注ぐ外灯の灯りだけがこの部屋を照らしている。
開かれた窓から風が吹き、空に月が見えた。
段々と薄暗闇に目が慣れるにつれ恐怖が溢れて来る。
―――所以亡き追跡者達
そう思っていたが今は違う。
やつらは最強の狩人。
刈るべき獲物は僕と松本。
僕は息を大きく吐く。
「落ち着いて」
松本が呟く。
僕と松本はロッカーに身を隠している。しかし、それは鼻の利くやつらにはあまり意味が無いことだろう。奴らは人間の匂いなど造作もなく嗅ぎ分けるに違いない。
気づかれるのは時間の問題だろう。
大事なのはやつらに気付かれることだ。
それこそがこの戦いで一番大事なことなんだ。
そう、僕等は囮なのだ。
やつらを四方形に誘い込む為の。
階段を駆け上がる音が聞こえた。やがて大きな影が視界に飛び込んできた。
薄暗い暗闇の中でよりはっきりとやつらの眼が見える。
燃えるような赤い目に黄色く輝く瞳孔。
鼻を動かしながら追い詰めた獲物をしとめる強き狩人の自信が口から垂れる涎となって床に滴り落ちている。
一頭が鼻を上げた。
燃えるような眼がこちらを見ている。
それに呼応するようにもう一匹が同じように顔を上げる。
四つの眼がこちらを見ている。
気づいたな
僕は横目で松本を見る。
揺れ動く空気で松本が頷いたのが分かった。
隙間越しにやつらの動きを見る。
緩慢なようで油断のない狩人達の四足がゆっくりとこちらに近づいてくる。
やつらの視線の直線状に僕達の潜むロッカーとオフィスチェアで囲まれた四方形がある。
狩人達は身体に薄暗い闇を纏いながら迫りくる。
来るが良い・・
その四方形こそ
おまえらの死に場所だ
一歩・・
一歩・・
死が狩人共に迫ってきている。
狩人の垂らす涎が見え、
ついに
最後の一歩を獣共が踏み出した。
しかし
ーー お、
おぉお
‼!
こ、!!
これはっ‼!
やつらは死地へ踏み出した足を下ろすことは無かった。
それは僕等を喜ばすための演技だったのか、それともこれから始まる悲劇をより劇的に演出するためなのか。
全てを知っている完璧な強き勝利者という威厳を漂わせ、やつらは上げた足をそのままゆっくりと元の位置に戻したのだ。
無知な獣では無く、崇高な知性と意思を持った怪物がそこに居た。
冷たい空気が背を伝う。
互いを分かつ死が逆転した。
唾を飲みこんだ。松本の息が細く吐き出されてゆく。
二頭は顔を合わせると同時にその四方形を軽々と飛び越えた。
大きく開かれた赤い眼に輝く黄色い瞳孔。
こいつら
化け物だ。
冷たいフロアの床を歩く四足の音がはっきりと耳に聞こえた。
やつらは目の前に居た。
鼻を動かし、確認をした。
やつらは獲物の場所を今はっきりと認識したのだ。
―――勝ったのは、我々だ
そんな声が聞こえた。
数歩ゆっくりと後ろに後退してゆく。それは相手をしとめる突撃をするには、十分な距離だった。
グルゥゥゥゥ
ゥうううううううううう
獣の低い咆哮が聞こえた。
その瞬間、激しい衝撃音がした。
ドぉスン!
うおぉおお!!
ロッカーがひしゃげた。
衝撃が続く!!
ドォぉおン!!
ひしゃげたロッカーに巨大な塊が突っ込んできて、僕と松本は外に投げ出された。
これはアメフトやラグビーのタックルなんて目じゃない!!
なんていう衝撃だ!!
まるでカーレースで車がぶつかり合ってクラッシュするそんな衝撃だ!!
外に投げ出された僕達。
それはプロテクターを外されたキャッチャー。投げ込まれる剛速球を受け止める準備なんてできちゃいない。
僕等は唯の肉塊だ。
「こだま君、下がって」
松本が手を出して僕を後ろに引き込む。
僕達は化け物と対峙した。
しかし、この対峙がどんな意味を成すというのか。
その意味を知っているのは
やつらだけ。
そう、死を届けるまでの最後の生の時間という意味だ。
ブゥフゥォおおおおおお
咆哮をあげて一気に加速した弾丸が僕と松本の身体に突き刺さる!!
静寂が僕の耳に響く。
それは酷くゆっくりで美しかった。
クラシックの曲が終わった直後の静寂。
あとは鳴りやまぬ拍手が聞こえるのだ。
それは勝利したものに。
そう、勝利したものに・・・
化け物共の塊を受けて僕と松本の身体は大きくひしゃげた。
それは大きくU曲を描いて。
―――これは、なんだというのか‼!
未来への異常が化け物共の防御本能に危険を察知させたのか。
弾け飛ばし、引きずり回す死の惨劇を否定された驚きが空気を震わす!!
何が起きたのか?
恐れが化け物共を支配し、異常ともいえるその場から後ずさりさせてゆく。
うふふふふふ
イヒヒヒヒぃ~
僕と松本がひしゃげた身体のまま笑い声をあげた。
とても卑しい、冷徹な嗤い声。
僕達は一瞬で崩れ落ちて黒い影となって渦巻いて床に落ちた。
やつらにはそう見えた筈だ。
「馬鹿め、こっちを見ろ!」
松本の声にはっとして鼻を突き出し、せわしく化け物共が臭いを嗅ぐ。
その鼻先が臭いを嗅ぎつけて止った。
その臭いの先は!!?
驚く化け物の黄色い瞳孔が大きく見開いている。
まさか!!
そんなところに!!
目が大きく見開かれ、身体が感じたこともない驚きの為か、硬直していた。
信じられない!!
そう、叫べばいい!!
天上に浮かぶ僕等からは驚きながら化け物共が罠である四方形の中に入っているのがはっきりと見えた。
やつらは自ら恐怖のあまり死地へと足を踏み入れたのだ。
「かかったな!!」
僕が叫んだ。
「こだま君、今や!!」
スマホの画面に文字を書き込み、化け物に向かって言葉を投げつけた。
「くらえ!!かまいたち!!」
びゅうぅぅううううぅうう
化け物共の四方から風が巻き上がり、つむじ風となって襲いかかる。
僕達が仕掛けた四方形の死地。それはかまいたちを四方から襲わせるための死のリング。
突如現れた超自然現象に化け物共が咆哮する。
つむじ風は化け物共の身体を渦に巻き込みながら空へと浮かび上がらせる。
フッゴォゥッ!!フゴォっ!!
びゅぅぅううううううぅうう
咆哮をつむじ風が切る。
しかし、
「駄目だ!!風を四つに分けたから風の威力が足りない」
あの時の傘の様に空へ運べない!!
化け物共の重さがそうさせないのだ。見れば空に浮かぶ化け物共のバタつく足が今にも地上に着きそうだった。
「御安心にて候!!」
松本が叫ぶ。手早く取り出した四角いルーン鉱石に文字を書く。
「夜はルーン鉱石の力が最大限発揮される刻。我が松本の魔術かまいたちにより、化け物共を消し去ってくれますれば!!」
その声が終わるのと同時にビルが大きく横に揺れた。
ゴォン!!
ゴォン!!
びゅぅう
びゆうぅうううう
びゆぅうううううううううううう
おお!!
見れば巨大なかまいたち、いやつむじ風なんかじゃない、見事な竜巻が現れた。
引き寄せられる風の力に身体が激しく揺れる。
それは突如として現れた巨大な竜巻の渦が引きこもうとしているんだ。
ごぉおおおおおぉぉぉお!!!
竜巻は化け物共に向かって突き進み、一瞬で奴らを渦の中に巻き込むと、そのままビルの窓を破壊して化け物共を空高く運んで行った。
ごるぐふぁぁぶひゃぁぁああああ!!
化け物共のけたたましい咆哮!!
しかしそれは竜巻が巻き起こす風の音にやがてかき消された。
僕達に静寂が訪れた。
それはクラシックの曲が終わった時にも似た美しい静寂。
―――プギャァ・・
遠くで断末魔の声が聞こえた。
空高く巻き上げられ地上へ叩きつけられた化け物の最後の叫びだった。
ポツポツ・・
ポツポツ・・・・
それはやがて
ざぁざぁと音を立てた。
雨が激しく降り出した。
それは大きな音をたてて、僕の耳に聞こえるくらいになった。
それだけではない。パトカーのサイレンの音が聞こえて来た。誰かが通報したのだろう。
となれば後は警察の処理が待っているだろう。
しかし、空から降って来たあの化け物イノシシをどう説明できるのか?
僕はぷかぷか天井に浮かびながら思った。
まぁいいや・・
そんなこと、今は。
僕等は助かったんだから。
そう思って力が抜けた時、急激に自分を支える何かが消えた。
――ドスン!!
僕は天井から勢いよく大の字で落ちた。
勿論、思いっきり腹を打った。
見れば松本はすらりとフロアに着地する。
「痛ててて・・」
腹を襲う激しい痛みの中、拍手が聞こえた。
松本だ。
「魔術の合わせ技、トリプルAというところでしょうか。『ドッペルゲンガー』「運は天にあり」それと『かまいたち』・・見事に決まりましたね」
拍手の音を聞きながら僕は頬を床につけた。
先ほどの戦いの熱はもうどこかに消え去り、平常の誰も居ないオフィスの冷たさが伝わってくる。
それは沸き上がる勝利の熱を冷ますにはちょうど良かった。
壊れた窓から雨風が吹き込んでくる。その風の中に僅かな血の臭いを僕は嗅いだ。
雨が血を洗い流してくれるだろう。
鳴り響く拍手の音を聞きながら、涙が浮かんできた。
よかった・・。
僕達はとにかく勝ったんだ。
あの化け物共に。
その日は雨が土砂降りになったこともあって神戸のビジネスホテルで泊まることにした。
汚れた服をランドリーで回して乾燥機に乾かすと洗濯物を持って部屋に戻った。
おい・・・!!
松本がベッドの上で下着姿のまま座禅を組んでいた。
「ちょっと‼!驚くやろ。いきなりそんなことをしてちゃ」
声に反応して松本が目を見開く。
「いや、先程の事を静かに整理しようと思いましてね。座禅を組んでました」
「禅の心得でもあんの?」
「ま、少々」
そう言って松本がベッドに足を伸ばす。
「でもあのイノシシ・・、異常でしたね」
僕は頷いた。
「本当に怪物でした。まるでファンタジーゲームに出てくるような・・・。現実なだけにゲームなんかよりリアル感半端なかったですが」
「そっすね」
あの後、通りかかった警察官にいくつか質問を受けた。
回答はごくシンプルに
――イノシシに追われて雑居ビルに逃げ込んだところ、あいつらが追いかけてきて、イノシシの突撃を無我夢中で交わしたら窓ガラスを割って路上へ飛び出して逃げた。
その後は見ていない。勿論、街の人が見たという竜巻も見なかったし、知らない。
「・・あ、これ、洗濯もん」
そう言って松本に投げる。
「ありがとさん!!」
受け取るとシャツから頭にかぶりズボンを履く。
僕もホテルの部屋着からシャツとズボンに着替える。着替え終わると時計を見た。午後十時を過ぎている。
リモコンのスイッチを押して、チャンネルをニュース番組に合わせる。
キャスターの声が流れる。
―――現在、台風サッサニーは強大な雨雲を伴い太平洋上を北上しています。中心気圧は910ヘクトパスカル。明後日には台湾の東にあってゆっくり北上してくる模様です。
「台風・・近づいて来てますね。ゆっくり進んでいるのが幸いです」
松本の呟きに僕も頷く。
「さて明日には大体の場所を検討つけたいですがね・・」
「あのさ・・」
松本に聞く。
「実はさ、もう少しこの魔術書の事で聞きたいんだけどさ」
ベッドに置かれた魔術書を見る。僕等はさっきこいつの力で助かったんだ。
「ほい。何ですやろ?」
「この魔術書の原本ってさ・・今は無くてエジンバラで改訂されたんだよね。それで13冊の複写ができた」
「まー、厳密にいえば・・・原本の内容をそれぞれ十三冊に分けて書いたんです」
「ああ・・そうなんだ。それでさ・・目の前にあるこれだけなの?そのミレニアムロックの事が書かれているのは?他の十二冊には書かれていない訳??」
松本がふぅ~ん、と顎をなぞる。
「つまりさ。他の魔術書にも書いてあれば、まだ解放されてないものがあるのかなと」
松本が首を横に振る。
「ミレニアムロックはこの魔術書のみ、ギルドでは「十三の書」と言われているこの魔術書のみ書かれています。他の十二冊には残念ながら書かれていません。それはギルド全体で確認がされていることですから間違いありません。それとこのミレニアムロック、本当はいくつの異常気象が封印されているか・・・実はそれもわかりません。一つなのか二つなのか、はたまた百個なのか」
「百ぅ??前に一つにつき一個って言ってなかった」
照れながら松本が言う。
「あ、いえこれはあくまで・・ですよ。だって今まで誰もこのミレニアムロックの解除そのものについては知る人物はいなかったのですから・・当然それにどれだけの封印があるのかは知る由もないのです。おそらく一つに一個かなぁなんて・・でないとあんまり沢山一個に封印されていますなんていったらこだま君のメンタル参るかなと」
笑う松本。
なるほど・・
まぁ・・そうしておこう・・
「ちなみにどうしてこの魔術書が日本にある訳?」
うん、と言って松本が腕を組む。
「鉄砲伝来って知ってますか?」
「歴史で勉強はしたことある」
「その頃、世界は大航海時代だったんです。ポルトガルをはじめとした多くに国々がこぞって巨大な帆船を建造して世界の海原を巡っていた。それは中国、マカオを経てやがて島国日本へとやって来た。キリスト教の宣教師たちと一緒に・・」
「宣教師?あのフランシスコザビエルとかと」
ええ、松本が言う。
「彼らと共にこの本は日本へやって来た。それはちゃんとした目的があって」
「目的?」
「そうです。キリスト教布教の為です。魔術という・・いわば神の奇跡というものを見せることで当時未開の東アジアでのキリスト教の宗教的位置を確立させ、布教を着実に広めたいという目的です」
「へぇーーーー・・・」
感心して頷く。
歴史に裏アリだな・・
「そしてもう一つ」
松本が指を立てる。
「もう一つ?」
「ええ、他の十二冊はそれ以上神の言葉であるルーン言語を書き加えられないのですが、これだけが今も尚、新しいルーン言語を書き加えられることができる」
「それは・・つまり?」
「この魔術書だけが東方アジアの言語を記載できる機能があるのです。つまりこの魔術書はその当時のヨーロッパ言語以外の言葉を魔術書に書き加えることができる。それこそが布教にはもってこいだった。だってそうでしょう?その地域の言語でその言葉の持つ奇跡を起こすことができれば、これ以上素晴らしいことは無い筈ですから」
「確かに・・」
そうか、
つまり
こいつは奥深い魔術書なんだ・・
特別仕様ってやつなんだな・・
「最後にもう一つ」
「はいな」
「なんでさ。図書館でラテン語の分類シールが貼っていたのか分からなくて・・」
「あ、そうなんですか・・・それは分かりませんね」
「何でさ?」
驚いて言う。
「あんたが寄贈したんだろ?」
眉間に松本が皺を寄せる。
「えーーそんなことしてないですよ。僕はただあの奥の本棚に置いただけですから?」
おいおいおい!!
じゃぁこの背表紙の分類シールは何なんだ?
「あ、本当だ。何でしょうね、これ。あそこの図書館の職員が勝手に貼ったん違いますかね?」
「マジかよ?これあんたのだろう?管理ルーズすぎるだろっ。見て見ろよ、本の裏に寄贈:エジンバラ、タイトル:[The millennium of grimoire , it,s told .1502 ]
」って書いてあるじゃん!!」
僕が指さす方をしげしげとみて、言った。
「ほんまですねぇ~。これ誰でしょう?書いたの」
僕の頭でカーンと鐘が鳴った。
昨晩から降り出した雨は、朝には小雨になっていた。
僕達はコンビニでレインコートを買うとそれを着こんで、それぞれバイクと原チャに跨った。
昨晩の寝る前の打ち合わせで明石方面へ向かうことを決めていた。
互いにLINEを繋ぐと、その事を確認して路上へ出た。
車線の広い国道を西へと向かう。暫く道なりに行くと、途中で海が見えた。
瀬戸内海だ。
小雨の中で白い煙がかかった海が雨粒に打たれているのが見える。
握るグリップに水滴が溜まる度、腕を振っては払う。
おっ!
瀬戸大橋が見える。下から見る光景に思わず声を出した。
ケイタに会うにはこの橋を渡らないとな
橋の下を過ぎるとベンチの有る雨宿りができる場所で松本が停車した。原チャを降りてレインコート脱ぐ。
僕も停車して同じようにレインコートを脱いだ。
バッサバッサ音を立てながらレインコートははたいて雨水を落とす。
「小雨とは言え、大分濡れましたねぇ~」
レインコートを原チャに掛けてベンチに座る。
「さてと・・」
松本がコンパスを取り出す。
僕もレインコートをバイクに掛けると横に座った。
「ほうほう・・」
松本が呟く。
コンパスを覗き込む。
針がほぼ北を向いている。
松本を見る。
タブレットを手元に置いて、地図を画面に表示させる。
「どうなんすか?」
僕の問いかけに答える様に、松本の指が北へと動いていく。
「おそらくこの線上でしょうね・・・きっと。姫路まで行くと・・・行き過ぎて少しコンパスが東を向くと思います」
この線上に・・ハンドルがあるのか?
僕はタブレットを覗き込む。
三木、小野、加東・・
関西に居てもあまり馴染みのない地名が見える。
「じゃあ・・この地名の何処かにあると?」
「ですかね」
松本が頭を掻く。
「あのさ・・」
咳払いする。
「聞くけど。いままで誰もミレニアムロック、解除とかしたことなければさ。勿論それを封じるハンドルなんて誰も探したことなんて無い訳じゃん?本当にこのコンパスを信じていい訳なん?」
松本が困った顔をして僕を見る。
「だってしょうがないじゃないですかぁ~、そりゃぁ、行き当たりばったり感ありありですが、魔術書に記載がありますからね。仕方ないですよ」
「仕方ない・・・」
「そうです。もう信じるしかない。コンパスと魔術書に記載がある事をね。後はね・・」
「後は?」
「ノリっす。ノリしかないですぅ~」
語尾を伸ばして僕に言う。
あー・・なんか
やっぱ頭に来るわー
こいつの語尾・・
はぁーとため息をついて、僕は空を見上げた。
まだ雨は止みそうもない。
瀬戸内を流れる雲が北へ向かって流れて行く。
僕達はこれからこの雲を追うように北上するんだ。
松本がタブレットをバッグに仕舞うと僕に声をかけた。
「じゃ。行きましょう。まだ小雨の内に」
「ちょ、ちょっと」
慌てて手を上げる。
「何です?」
「あのさ。検討はついてるの?だってこのまま北上したら瀬戸内海から日本海まで行くことになるじゃん」
「あー・・そうですね」
ヘルメットを被りながら僕に答える。
「ん・・とですね。多分ですが・・」
「うん。多分?」
何か考えていたのか少し間を置いて言った。
「西脇・・・じゃないかと?」
「西脇?」
全く地理に疎い僕は、それが全く分からない表情で松本に言う。
「西脇?なんでそう思うの?」
「あー。なんでか?ですか?」
「そう、そう。そうだよ」
顎紐をかけて松本が言う。
「明石は東経135度子午線付近で、西脇もその近くにあります。ちなみに子午線というのは知ってます?」
いや・・何だったっけ??
「えっとね。子午線は古代中国の方位や時刻を十二支で表わしてた事を踏まえてそれぞれ方位を、真北を「子」、真南を「午」と呼び、「子」と「午」の方角、つまり真北と真南を結んだ任意の地点を通る南北線のことを子午線と言います。それは地球上には無数にあるんです」
ほー、それで?
僕の表情が曇る。
「まぁハンドルがある場所としては・・子午線上は悪くないなと思いましてね。と言うのは大航海時代、広大な海の航海で自分の位置を知るのは最も重要で、だから緯度と経度はとても重要だった。何となく、イメージとしては悪くない」
イメージって!!
まるで
それもノリじゃん!!。
「それに・・・」
「それに?」
僕が松本に食い入る。
「まぁ・・僕も初めてコンパスが西北を指した時、地図でその方角を指さして言ったら・・子午線にぶつかるのが分かりましてね。まぁ・・その時はどうなんかなぁて思ってたんですが・・神戸に向かって今ここに立ってコンパスを見たら、まぁ・・予想通りでした」
「マジで?」
「はい、マジで」
「じゃぁ最初から西脇かも?って言ったらいいじゃんか!!」
指で松本を指して怒鳴る。
「いや、予想が外れたら恥ずかしいですやん・・。それに西脇なら・・実はなるほどなぁと思う懐かしい人物の名前を思い出しまして?」
「はぁ?懐かしい人物の名前?誰?あんたの友達?」
小さく咳をして松本が手を振る。
「いえ、いえ。まぁそれは良いでしょう」
ふーん
誰やねん?それは?
じろりと松本を見る。
その視線を松本が受け流す。
よし!!
それなら・・
「おい・・松本さん。僕達は旅の仲間だぜ。ロープレで言えば大事なパーティってやつだ。だろ~?だったらさ、隠し事は無しだ??ちゃう?」
い、言ってやった・・
な、なんか
清々しい気分だ。
ふっふ~ン♬
これはボクシングで言うとストレートじゃなく相手の意外性を突いたフックだ。見事に決まった感がある。
松本が参ったなという表情で僕を見る。
「じゃぁ・・言いますよ」
見事決まったな、チンに!!
「その方は聡明な人物。以上っ!!」
あ、ぁーーーん!!
大きく口を開けて言った。
「何なん、それは!!」
松本が笑う。
「以上です!!」
そう言うと松本は原チャに乗った。
「マジかよ!!」
僕もバイクに急いで跨る。
跨ってヘルメットを被るとLINEで松本の声が聞こえた。
#・・あとね。こだま君。西脇だと思った理由がもう一つあるんです
#何?
#西脇って日本のおへと言われてるんです。
#だから、つまり??
少ししてから松本の声が聞こえて来た。
#なんかハンドルの有る場所としては中々良くないです。なんかやっぱ。ノリとしてはそのイメージ大事だし、最高でしょ!!
僕達は連なりながらハンドルを探しに旅立っている。
神戸では危険な目にも遭遇した。
しかし、それがノリだったとしたら・・
これは
どんな二流ロープレよりも
ひどい冒険かもしれない。
そんなゲームで危険な目に遭いたくないなと思いませんか?
僕は誰かに問いかけてアクセルを吹かした。
あの巨大台風もノリでどっかに消えてくれへんかな。
北へ向かう道は六甲山を抜けて行く。狭くて両側から迫る様な木々の中を降りしきる雨の中を進む。
バイザーにかかる水飛沫は半端なく、それをグローブで拭きながら松本の後を追って行く。
瀬戸大橋から北上をすればするほど雨が激しくなる。
なんてこった
ひでぇー雨だ。
心で呟く。
台風が近づいてるんだな。
目の前にトンネルが見える。
少しホッとする。トンネル内だけが雨を受けないで済むからだ。
さっき松本が言った。
これを抜ければ西脇は近いと。
まーそんなことはどうでもいい。
僕には土地勘何てありゃしないし、ただ松本の後を追うだけだ。
LINEが鳴った。
誰だ?
#やぽー、こだま元気?
ん?イズル?
何だよ、こんな時に。
#何?イズル?今・・めっちゃ雨ん中。
#えーマジで?こっちさー、めっちゃ天気やで。全然雲もなく晴れ渡ってるわ
#マジ?台風・・来てるやろ?
#うん、マジ天気良いで。
全然、台風来てる感じない。
でも、飛行機とか駄目みたいやからどこにもいかれへん。
しゃーないから今日は海で泳ぐねん!!
海、めっちゃ綺麗やし、波も全然高くないしね!!
#すげーな。そっち天気いいんやな!!
#うん、ほな、海楽しんでくるわ。
じゃあまたね!!こだま!!
LINEが切れた。
なんだ・・
天気が良いのか・・
それって嵐の前の静けさじゃねぇのか・・・
そう思った直後、
うっぉ!!
思わず声を出す。
トンネルを出たらいきなり、大きな水だまりがあって泥水を全身に被った。
たまんねぇー!!
どうせ水被って濡れるなら、イズルみたいに綺麗な海水を被りたいよ。
くそっ
アクセルを回そうとした時、松本の原チャのブレーキランプが点滅した。
おっと!!
ブレーキをかける。松本が停止して原チャを降りたのが見える。
原チャの側まで行くと、松本が赤灯を持った警備員と話している。
何かあったのか、話し終えた松本が持って来る。
バイザーを上げて聞く。
「何かあったん?」
「どうもこの先、雨が激しく降り出していて土砂崩れが激しいらしいので迂回しなくちゃ駄目らしいですよ」
「そうなん?」
「で、ほらこの横の林道あるでしょう。ここを上ると少しすれば左右に分かれる道があるからそこで迂回路の案内があるからそれに従って行けばいいそうです」
言い終えると松本が原チャに跨り、発進すると林道へと進んで行く。
僕も後をついて行く。
杉木立の林道をゆっくり昇っていく。松本の原チャリから煙が立つ。深い緑の覆う林道。
あー・・なんかイノシシとか出て来そう。
自然とアクセルを回す手に力が入る。
やがて林道の中で左右に分かれる道が出て来た。
右側の道の入り口に案内板が立っている。
――――迂回路、西脇方面
それを見て、僕等はそっちに進む。
暫く進むと道が険しくなった。舗装される部分が少なくなる荒れ道になり、とても普段利用している道ではないのが分かる。
ひでぇ、道だな。
思っていると、また悪いことに雨が激しくなってきた。
おわぁ!!
見れば路肩だけでなく、あちこちに落石が転がっている。
ちょっとマジか・・
これ、本当に迂回路か?
車、行けるんか・・これ。
#こだま君、ちょっと停まりましょう
松本からLINEで声がかかる。
僕等は道脇に停車した。
僕が言った。
「これってさ、マジ迂回路?」
松本も同じ考えなのか、頭を傾ける。
「違うのかもしれませんね。でも案内板は確かに右側でしたよね」
僕もそれは見た。
確かに右側に立っていた。
「まぁまだ少しだけ進んだだけですから。戻りましょう。こっちが正しければさっきの警備員の所に戻ればいいだけですから」
僕が頷く。
その時だった。
――空気が揺れた!!!
ドッぉおおおおーーーーーーーン!!
鋭く轟く雷鳴!!
僕等は頭を抱えて地面にしゃがみ込む。
間を開けず、再び雷鳴が鳴り響く。
ドッぉおおおーーーーーーーン!!
ドッぉおおおーーーーーーーン!!
やばい!!
雷だぁあ!!
近くに落ちたのか激しい雷鳴で地面が揺れる。
「マジ、まじまじ‼!ヤバイ!!」
悲鳴を上げる。
松本が急いで原チャに乗る。
「こだま君、戻りましょう。危険すぎる」
お、おぅ!!
泣きが混じる様な叫びで答えながらバイクを反転させようとした時、
「あ、危ない!!」
松本が叫ぶ!!
う、ぁあlぁああああ!!!
突然、道がゆっくりと崩れ始めた。
リ、リアル、土砂崩れだ!!
リアル体験
それは普段からアルアルな体験じゃない。
突然訪れるんだ!!
ゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・
ゴゴゴゴゴゴゴごごごご・・・・・・
地鳴りが響く。木立の葉が揺れ、空気が振動する。
呆然と立ちつく僕に松本の声が飛び込む。
#早くアクセルを吹かせ!!
早く逃げるんだ!!
路面を走る裂け目。全てを飲みこもうとする異常な現象。
催眠術にでもかけられたかのようにスローモーションで動く、神経と感受性。
本能だけがそれらを追い越して行く。
それは、生存本能。
それのみが危険を叫ぶ。
気が付けば僕アクセル全開で走り出していた。
無我夢中で曲がる道を走っていく。
神経は斜めになろうとする肉体と路面の均衡を保ちながら、本能が全てを支配する。
生きろ。
それ以外のメッセージは何もない、全ての遺伝子がそう叫ぶ。
生き残れ!!
生き残れ!!
生き残れ!!
生き残るんだ!!
ピカッ!!
雷鳴が煌く。
一度ではない、何度も鳴り響いた。
その度に木々の葉が揺れ、雷光がうねる。
降る続ける豪雨。
道は荒れ続けている。
時折身体が飛ぶのを踏ん張りながら、アクセルを吹かし、切り裂くように走る僕達。
#こだま君、小さな広場がある。・・・何か建物がありますよっ!!
前方を走る松本からの声。
松本の原チャが後輪を滑らしながら広場に入る。
続いて僕もそこに滑りこむ。小さな門が見えた。
「あそこに行きましょう」
「了解!!」
頭を抱える様に走り出す。
また稲妻が落ちた。
「ひぇえぇぇええ!!」
門まで来ると階段が見えた。
「この上に何か避けれる場所があるかもしれない。行きましょう!!」
松本が階段を一段飛ばしで素早く昇っていく。
僕も松本に続く。
苔むした石段。
僕達は風のように走り抜けた。
最後階段は二段飛ばしで駆けあがる。
これは・・・
――広い寺院が見えた。
見事な伽藍を持ち門の左右に仁王像が立っている。
見事な山寺と言えた。
ピカッ!!
雷鳴が鳴る。
それに呼応するように僕達を眼下に見下ろすが仁王像の眼が輝く。
「見事な山寺ですね・・ここで雷と雨を避けましょう」
松本が雨と泥まみれのレインコートを脱いだ。
僕も脱ぐとレインコートをバサバサとはたいた。
「さっきの土砂崩れは酷かった。危機一髪です」
雨に濡れた髪を手でくしゃくしゃにすると松本が苦笑いをする。
「何がおかしいんすか?」
僕の表情を指差す。
「いやーこだま君。もうあの時、顔面真っ青でしたよ。見事なくらい」
なるだろ、そりゃ・・
「当たり前でしょうが!!あんな超自然現象に出会えば!!」
「 「 「 「 だよな?」 」 」 」 」
え!!
僕は思わずその声に振り返った。それは松本の声じゃない。
鼓膜に響く、大きな低い声。
声の主の大きな手がゆっくりと僕達に近づいてくる。
そいつは紛れもなく、僕達を見下ろしていた仁王像だった。
人生で人はいくつの超常現象に出会うだろう。
そもそもそんなものは無いのじゃないのだろうか?
僕は今までそう思っていた。
じゃぁ今目の前に迫りくるこの状況は何といえばいいのだろう。
仏像の仁王像が動き出して、自分達に迫りくる。
リアルは小説より奇なり。
「こだま君、早くこちらに!!」
松本の声に我に振り返らなければ、僕は仁王像の大きく踏み出した足で潰されていただろう。
「「「ぐぉおあぁああああああああ」」」
仁王像の空気を震わす叫ぶ声が耳をつく。二体の仁王像の動きは非常の滑らかだ。ゲームの世界に存在するのかと思うぐらいだ。
ゲーム??
そう、
こいつは何か非道ゲームなんじゃないのか??
嫌、違う!!
それは僕の鼻先を掠めた太い木材で思った。
仁王像はあろうことか自分達が先程まで鎮座していた門柱をもぎり取るとそれを投げつけてきたのだ!!
びゆーーーーーーーっっ
びゆーーーーーーっっ
僕と松本はそれを間一髪避けて行く。
「な、何じゃこりゃ!!」
「さぁ、何でしょうね、これは」
松本がまた材木を躱すと身を低くして辺りを見回す。
視線の先に何か見つけたのか、指を指した。
「あそこに本堂が見えます。あそこに避難しましょう!!いくつかの建物があるからそこに隠れて時間稼ぎをしましょう」
見ればしっかりとした伽藍のお堂が見えた。
僕達の側を投げつけられた木材の影が過ぎた。
「今だ!!」
一斉に降り出す雨の中を影となって走り出す。
「 「 「 ぐぉおあぁあああああああ 」 」 」
背後で仁王像の叫ぶ声がして、ドスンという音がした。
やつらの雨の中を歩き出す音だ。
「松本さん・・ハァハァこいつら何なんだよ」
前髪に掛かる雨滴を払う。
「そうですね・・以前、チェコに居る魔術師とスカイプで話した時、聞いたことがあるのですが・・」
「何??何??」
「彼が言うには、様々な素材の像にたまに命が宿ることが有ると言うんです」
ハァハァ・・
生命が?
「ええ・・、芸術家とか・・ほら、まぁ人間が一生懸命作るものに・・こだま君もたまにテレビとかで聞くでしょう『こいつには作家の魂が宿ってる』みたいなコメント」
「そっすね。あります」
「つまりそうした物のごくわずかに本当に魂が宿っていて、何かのきっかけで本当に生命が宿るものがあるのです・・ハァハァ」
「 「 「 ぐぉおあぁああああああああ ・・ドゴダァ!! 」 」 」
やつらの叫び声が!!
ドスン!ドスン!!
空気を震わす足音!!
「それらを僕等は・・ハァハァ」
「僕等は???」
しっと言って松本が伽藍の下に背を丸め込む。僕も同じように丸め込み、素早い猫のように動く。
その数秒後、やつらの走り来る足音が聞こえて目の前を勢いよく過ぎて行った。
やり過ごした・・
静かな沈黙の中で松本が囁くように言っ・た。
「その正体はゴーレム・・ヘブライ語で「胎児と言う意味があって・・ユダヤ教だけでなく、世界各地の民話や伝承の世界には存在するものです」
ゴーレム・・そいつはゲームでも聞いたことがある。
大体、マジに強い奴だ・・
「じゃぁアレがそいつだと?」
「でしょうね・・僕も初めて見ましたけど。でもゴーレムとして動くには・・特殊な術が必要なんです。それを使うことができるのは・・」
言いながら松本が背を軽く叩き指さす。薄い床下の先に光が差し込んでいる。
「あそこに行きましょう」
僕は頷く。
まるで猫のように音も立てず、屈み腰で歩いて行く。
外ではあいつら仁王像―――(いや、ゴーレム・・と言ってやる。だって・・仁王像に失礼だ。本来は金剛力士像という存在で我々を見守る仏さんなんだから!!)
「それで、それを使うことができるのは?」
「しっ!今はまずは避難場所を探しましょう」
光が差し込むところを見上げながら松本が言った。
「これ・・床板が外れるようですね」
そっと床板を押した。
すると板が一枚取れた。
「本当だ。なんでだろう?」
松本が手を左右に動かしながら床板を何枚か外していく。すると正方形の空間ができた。
「こだま君、ここで少ししゃがんでください」
言われた通りにしゃがむと背中に重さを一瞬感じた。
松本が僕の背を踏み台にして猫のように堂内へと飛び込んだ。
松本が堂内を忍び歩いているのか、床板が何も音をしない。
僕はその間床下で蹲る様に怯えている。
おぃおぃ・・
少しの間の孤独が非常に不安にさせた。
静かな沈黙が流れて行く。
おぃおぃ・・
不安が段々と大きくなっていく。
僕は背を伸ばして手だけを出して振った。
松本ぉおおおお~
いるのかぁ~~
心の中で叫ぶ。
返事がない。静けさだけが響いている。
もう一度、
松本ぉおおおお~
いるのかぁ~~
すると僕の手を柔らかい松本が掴んだ。あまりの不安と孤独に浸りすぎだ・・、松本 の手の温かさに思わず声が出た。
「引き上げてくれ!!」
言うと、松本が手を力強く引き上げた。
堂内へ飛び込んだ僕は、この堂内があまりにも煌びやかで美しい場所なので驚いた。襖が四方にあり、そこには金屏風で動物の絵が描かれている。
美術の本でしか見たこと無いが、狩野派とか言うそんなレベルの美しい襖絵だ。
すげっ!!
なんか京都にある名古刹みたいなところだ・・
「なぁ・・、、松本。凄くない・・ここ」
そう言って振り返った。
そう、
振り返った。
・・・うげぇ・・・
僕は思わず驚きで尻もちをついた。
予想もしなかった人物がそこに居たからだ。
超自然現象、摩訶不思議
待ったなしの
ジェットコースターだよ、これは!!
あいつの手を握った時、気付けばよかったんだ。
武術経験者に比べて手が柔らかかったことに。
恐るべきスピードで僕の既成概念がアップデートされていく。
まるで次々発表される新しいアプリに対応しなければならないパソコンのCPU並みに僕の意識は変化していかなければ、この超自然現象、摩訶不思議に対応できない。
僕は尻もちをつきながら混濁しそうな意識を整理する。
まず・・
――松本はどこにいるんだ?
――次にこいつがどうして関連してるんだ?
――いつ、どうやってここに来たんだ?
――最後にじゃこの場所は一体?
いや・・
まずは目の前の事実に目を背けてはいけない。
僕は腰を上げて立ち上がるとまずはこの斜め向きに突き刺さる視線を受け止めた。
そう、斜め向きの視線。
「何であんたがここにいるんだ?」
僕は眼鏡の奥から突き刺さる視線を言葉で打ち返した。
打ち返された言葉にたじろぐことなく相手も余裕ある表情で言葉を返す。
「あんた達をずっと地元からつけてたんですよ?分からなかったです?」
斜めに人を見て笑う。
お前ぇ・・
人を斜めに見んな!!
「地元からずっとだと?」
そこで、はっとした。
じゃぁ・・もしやあの松本と待ち合わせた駅近くのカフェで感じた視線と言うのは・・
こいつだったのか・・?
ゴクリ・・唾を飲みこむ。
何とも言えない恐怖を感じた。
今感じた恐怖というのは殺されるとか、拷問にあうとか肉体的なことに対して感じるものじゃなく、こう・・なんか、未知なる存在に出会ったということに対する恐怖だ。
何者なんだこいつ・・
そう言いかけそうになるのを心で押さえた。
まずは聞くことがある。
「松本はどこだ?ここに居た筈だ!!」
「松本?あぁ・・あのおチビ?」
眼鏡の奥でほくそ笑む。
「そ、そうだ、松本だ。どこにやった?」
やつが指差す。
ん?
僕は指さす方を見る。そこには床に転がるひょうたんが見えた。
なんだ?この野郎・・
あのひょうたんがなんだって言うんだ!!
「あれ・・拾ってきたら。あそこにあなたの大事なお仲間さんがいるんだから」
「はぁ・・?」
眉間に皺を寄せる。
「何言ってんだ、あんた・・頭がおかしいんじゃないの?何だって・・松本が・・あんなひょうたんの・・」
中に・・、と言おうとしたが有無を言わせず走り出してひょうたんを拾い上げた。
――ひょうたんの中に人が入れるはずがない
――それが常識ならば・・
――しかし、今は・・?
――非常識なリアルな世界!!
ここまで一瞬に意識が加速してひょうたんを拾いあげた。
「おい!!おい!!松本、いや松本さん・・そこにいるのかぁ?」
僕はひょうたんに向かって叫ぶ。
その声に反応するようにひょうたんの中からトントンと音がした。
松本・・いるじゃん
この斜め野郎・・
僕は振り返る。
するとそこには眼鏡をかけた女ではなく、長いウエーブのかかった髪を揺らして整った顔立ちの知性に溢れた女が立っていた。
「な、何だ・・お前?誰?」
思わず驚いて声を荒げる。
ふふふ、と笑う。
「いえね、もう変装用の眼鏡も真面目臭さを出すために縛った後ろ髪も不要かな。もう窮屈で窮屈で・・たまんなくて。こんなダサい格好」
そう言うと眼鏡を投げ捨てた。
えーーーー!!
こいつがマジさっきのアイツ???
こんな時に不謹慎だというのは分かっている。
分かっている・・
しかし
一瞬でマジ僕は目を奪われた。
こいつ・・綺麗じゃん・・
やばっ!!
頭を激しく振る。
見ればいつ手にしたのかひょうたんをぶらぶらさせている。
ひょうたん・・こいつが危険だ
「ああ・・これ、ご存じない?西遊記と云う物語に出て来る魔王、金角、銀角が持っている呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう瓢箪、紫金紅葫蘆」
知らん・・そんなもん
その難しい名前のひょうたんをぶらぶらさせて、にやにや笑っている。
トントン、ひょうたんから音がする。耳を澄ますと松本の声・・
(((こだま君、こだま君、油断した。いいかいこいつは魔道具だ。アイツが言ったように西遊記に出てくる危険なものだ))))
危険なもの??
(((名前を呼ばれるとひょうたんの中に吸い込まれてしまうから!!注意して下さ)))
名前を呼ばれたら?
僕は頭がクエスチョン?になった。全く何のことか分かんない。
「おい!!こちとら西遊記なんざ、見たことも読んだことも無いんだよ。何、すまし顔で笑ってるんだ。そんなものを見たり読んだりするぐらいならネットで他の動画見てる方がましだ。何が名前だ!!あんた聞くがな。僕の名前を知ってるって言うのか?」
唯の図書館のカード係のくせに!!
それにあそこのカードは番号しか書いてない。
個人情報保護ってやつだ!!
「あんた・・馬鹿じゃない。そんなに早く私と決着つけたいわけ??」
肩を揺らせて高らかに笑う。
「じゃぁ、言ってみろよ。知ってるなら」
啖呵を切った。
――その刹那
僕の身体は一気にひょうたんの中に吸い込まれていった。
あ、あれれ???
僕の思考が停止した。
なんで?
だって僕一度もあいつに自分の名前を見せたこと無いし・・
真っ暗なひょうたんの中で僕は困惑する。
「あんた・・・本当に馬鹿よね。あの図書館のカード作る時、申込書に自分の名前を書いたじゃない。カードが番号しか書いてないとしてもそれぐらい後で誰かが見りゃ分かるって」
僕はひょうたんの中でドンドンと叩く。
待て!!
まだ聞いてないことがあるんだ。
――こいつがどうして関連してるんだ?
――いつ、どうやってここに来たんだ?
――最後にじゃこの場所は一体?
教えろ!!
この斜め野郎!!
ドン!ドン!!
ドン!!
「駄目よ。教えてあげない。だってあんたらここで死ぬんだから、もうそんなこと必要ないし」
え?
死ぬ?
それってリアルに?・・・・
揺られている。
薄暗いひょうたんの中で。
それはもう在り得ないシチュエーション。 しかしながら間違いのない現実で、事実、揺られながらひょうたんの中を転げ回っている。
自分の知恵の浅はかさを今もって後悔する。
くっそー・・・
しかもこいつ「あんたらここで死ぬんだから」なんて言いやがった。
在り得るんか?
お前ぇ日本やぞ!!ここ。
サミットやG20にも参加する超先進国。そんな国家でこんな摩訶不思議な状況で「死」=つまり殺人何て・・そんな理不尽なことが平気で行われる訳がない!!
だが・・
だが・・・・
この状況はどうだ?
僕は確かにひょうたんの中で転がっている。転がる度にリュックの中の魔術書が動いて背中を当たる。
夢じゃなくて超現実なんだと意識は理解している。
それが・・
何故か悔しい。
心から悔しいんだ!!
「あのさ、お二人さん。ちょっと悪いんだけどさ・・死に方変更するわ。最初、仁王像にさぁ、踏みつけてもらおうかなぁと思ったんだけど・・」
はぁ???
踏みつけだと?
お前、
あんなでかいやつに踏みつけられたら像に踏まれる蟻じゃねぇか!!
「うん、蟻みたいに痛みもなく一瞬で死んじゃってしまうと何か・・面白みがないから拷問系に代えるね」
え・・拷問系?
「ちょっと・・高田さーん!!」
誰だよ?高田って。そんな奴居たか?
「あー、すんません、遅れちゃって。下で土砂崩れが起きてここまで回り道しちゃいました」
男の声。
「うん、いいよ」
答える斜め野郎。
「案外早く決着つきましたね」
男の声。
「そうそう、案外おバカコンビだったわ」
答える斜め野郎。
「そりゃよかった」
男の声。
「それでさ。ここにそのおバカ二人が入っているから、裏のさぁ~炭を焼く窯があるでしょう?あそこにこれを放り込んで火を焚いてくんない?」
答える斜め野郎。
「良いんすかね?あそこで」
男の声
「大丈夫よ。前もあそこでイノシシとか鹿とか害獣駆除の為に焼いたから、肉も良く焼けるよ。それに焼き終わった後に骨になっても、害獣達の骨とかと交じってマジ分かんないし~」
何だと!!斜め野郎!!
「了解っす!!さっすが頭いいいっすね。じゃぁ後はやっときます。あ、違うわ・・『殺っときます』ですね(笑)」
お前、普通に笑うな!!男の声。
「雨も少し小降りになったから今からJRに乗って大阪に帰ろうと思うけど、もしかしたら大阪まで直で行くかも。悪いけど車借りるね。鍵はどうする?」
帰る・・だと??斜め野郎。
「あっじゃ・・猪熊さんに渡して下さい。明日大阪に取りに行きますわ。仕事で淀川のワンド整備があるんで」
猪熊??男の声。
「そうじゃぁ、後は頼むね。あ、そうそう、あの仁王像、高田さんのスマホにゴーレムアプリ入れといたから、この仕事終わったら停止しといてくれる。それで元の場所に戻って仏像になるから」
アプリ・・なの・・
ゴーレム動かすのに。
斜め野郎・・
「あーーーそうだ。最後にもう一つ追加でお願い。この魔界閉じといてもらってもいいかな。何から何まで申し訳ないんだけど」
斜め野郎。
はぁ・・魔界?!
「了解っす。魔界ジオラマってどこにあります?」
男の声。
「本堂の祭壇に置いてあるから。最後に電源切っといて」
斜め野郎の声。
――はーい
以上、その声を最後に沈黙が訪れた。
不気味なほど、何も聞こえないひょうたんの中で僕は何回も転がりまわった。
だがどこかに運ばれているのは分かった。
ごろごろ
ごろごろ
唯、唯
今できることは唯ひょうたんの中で転がるだけだ。
それが、
不意に止まった。
暫くすると何かが焼ける臭いがした。
(これは何かに火を点けてるんだ・・)
おいおい!!
(マジ・・生きたまま火葬する気か?!)
鼻歌が聞こえて来た。
相手がかなりリラックスしている。
「さてと・・」
長い沈黙を破る男の声が聞こえた。
「お二人さん、火が強くなるまで後十分ぐらいですから、せめてそのひょうたんの中で極楽浄土か天国かどこにでも行けるよう念仏でもお祈りでもしといてください」
男の笑い声が聞こえた。
心臓がバクバクして来た。
この現実に耐えられないのだ。
しかし、一体僕にどんな理由があるというのだろう。
こいつらに殺されるという理由。
ただ図書館で偶然魔術書を見つけたという、それだけのことだ。
魔術書の事は後から現れた松本が色々教えてくれた。
だが・・
ミレニアムロック?
それを偶然にも僕が解除した。
その責任が僕にある??
だがそれが本当に、僕が起こした事なのだろうか?
ハンドル何て言うのも本当はでっち上げのデマに過ぎないんだ。
そんなの妄想の・・
浮世離れした空想なんだ。
正直に言う!!
今でも頭の片隅ではすべてフィクションじゃないかと思っている。
夢なんだと。
でも・・
事実は・・・
今この状況なのだ。
間違いない
何なんだ
ふざけるな!
ふざけるな!!
ゲームじゃないんだ!!
簡単に命を捨てれるか!!
ふざけんな
この殺人野郎
変態野郎
生きて、お前らを絶対叩きのめしてやる!!
LINEが鳴る。
見れば松本だ。
僕はメッセージを見る。
#こだま君、大丈夫ですか?
続けてメッセージが届く。
#そろそろ形成逆転と行きましょう