エピローグ(三)
ポンドールの離宮において僕の役目は椅子だった。
いや、より正確には座布団か?
おそらくは特別発注であろう派手目な椅子へ僕を座らせ、当然の権利とばかり奥さんは膝の上だ。
それから思う存分に僕の顔を撫で回したり、しな垂れかかったりと思う存分好きに振る舞う。
などと聞けば夫婦仲が良好と思われるかもしれない。
だが、このポンドールがお気に入りな娯楽の最中、僕の方から触ったらいけなかったりする! なぜか手を伸ばすと抓られて!
目の前で揺れたり、当たったりしても、それへ触るのは禁止とか! もう蛇の生殺しだ!
その日も抓られた痛みが散らないものかと手を擦っていたら、あやすかのように菓子串が口元へと差し出される。
……なんでポンドールは、僕に甘いものを食べさせたがるんだろ? 甘党と思われてんのかな?
まあ異論もないので、いわれるがまま口を開ける。
甘い。
小麦で焼いたパイの類? でも層になって? それに蜂蜜の甘味とチーズの塩気が!?
前世でいうところのチーズケーキやミルフィーユ、あるいは甘いラザニアとでもいうべき感じか。
「……美味しいね。初めて食べたよ。なに、これ?」
「平たいケーキっていう帝国の御菓子や。久しぶりに食べたい言うてたらガイウス小父さんが――」
なるほど。交易商人ガイウスの土産品か。
僕にも献上品を山ほど持ってきていたけれど……ローマ市返還を目前に、なにがなんでも関係国を大人しくさせたいのだろう。
まあ僕としても帝国が自重してくれてるのなら――
「菓子職人を贈ってくれたんよ」
……前言撤回。土産人だったらしい。
そりゃ料理人を連れてくれば日持ちとか解決だけど……東の国々では、奴隷制度がカジュアル過ぎやしないだろうか?
「大丈夫やで。ちゃんと御寺さんで、ボーの誓いへ切り替えとるさかい」
ポンドールは苦笑いだけど、しかし、重要なことだ。
それで菓子職人の奴隷は、恩赦だけが希望の終身刑から、永くとも有期の拘束へと変わる。
どころか年季は金銭へ換算できるから、可能なら購うことすら可能だ。
やはり奴隷制と奉公制には天と地の差があるし、それを導入したカーン様は偉大といえる。
……この菓子職人には、なにか金目の物でも下賜しておこう。
「旦那様の仰ってた通りで……なにもかも金銭へ換算するんも、悪いばかりではないんやろか?
確か……資本主義?でしたっけ?」
実例から思うことがあったのか、やっとポンドールは前向きに考え始めてくれたようだった。
「うん。でも、僕のは主義主張を内在しないから、呼称を変えるべきかもだけどね」
資本主義は様々な切り口で説明されるが――
『なにもかもに値段を付け、それで解決の手助けとする』
という方法論の側面もあった。
基本的には労働の対価へ値段を付けるところから――
一つしかない命、自由な身分、喪ったら取り返しのつかない身体まで――
本来、金銭へ換算するべきでない事象にも値段を付けてしまう。
数値化してしまえば叩き台となるし、「目には目を、歯には歯を」と穏便に済ます時の指針ともなる。
まあ現時点では――
「目を潰されたからって加害者の一族郎党皆殺しは、やり過ぎだよ。購いを求めるとしても、目と等価程度で納得するべき」
を啓蒙が先かもしれないけど。
とにかく前世史で農奴制の解消に役立ったのは、資本主義の導入――というか、その前提なあれこれだったりする。
つまり、あらゆるものに――労働や自由な身分にも値札を付けてしまうことがだ。
さらに両輪ともなる生産性の向上で、農奴に至るまで余剰生産力を――自由処理可能な資本を得させる。
買い取れるシステムと資金の入手方法。
この二つこそ、前世史で農奴解放などが為されなかった地域でも、いつの間にか自由を勝ち得ていた理由とされる。
ようするに共産革命や社会革命を経由せずとも、奴隷制の解消は可能だ。彼ら自身が、自らを買い戻せるようになればよい。
「せやけど……小麦の――農作物の買い取りシステムを作るってのが、いまいち分からへん。
いままで通り、御ぜぜへ変えたい人が、好き勝手にじゃあかんのやろか?」
「それでも悪くないけど、改革の速度が遅くなる。それに重要なのは、誰も彼もを貨幣経済へ引き込むことの方なんだ。
ようするに僕への――王への忠節や義務から働くのではなくて――
働ければお金を得られるから、働くようになって欲しいんだよ。
それを何より雄弁に教えてくれるのが、労働の成果が金銭になるだから」
ただ、支配体制側の立場でみれば忠誠や掟、思想などを背景にした理由――つまりは代価のあやふやなシステムが使い辛くなってしまう。
ポンドールが首を捻るのも尤もか。
「それに全土で小麦の買い取りするいうても――
やり過ぎたらアカンのやろ?」
「うん。まずは物納以外――金銭による租税納付を認める。
それから段々とスライドさせていき、最終的には全てを金銭で納税して貰う」
「そんなん必ず小麦を売りにきてまう! それも国中の全農民が!」
……うーん。そうなるか。小麦本位制の方が、マシかなぁ。
「駄目だからね?」
「分ってますぅ! そやけど――
誰にもそうできひんよう、先回りして小麦問屋を北王国中に? ……少しも悪さしないで?」
この時代、全人口の九割方が農民で、総生産でも大部分を占めている。
仮に一割の上前を撥ねるシステムを構築したとしたら――
その支配者は、王をも超える権勢となるだろう。
前世史では全く違う方法論だけど、似たような独占支配の成功例もあるし。
「うん。ポンドールなら何か思い付くだろうし……作れもするだろ? 末永く悪さのできない小麦問屋の全国網を?
きっと後世の歴史学者は、その功績を褒め称えてくれるよ!」
……地味すぎて専門家以外は知らないとかにもなりそうだけど。
そして思ったように誑かせなかったらしく、俄かにポンドールは膨れっ面だ。
「いけずや! 旦那様の根性悪!
こないな話を御預けにするなら、最初から言わへんかったらよかったのに!」
……商人となるべく育てられたポンドールには、聞けば気の毒か。
「光の帝国だけじゃ足りなくて、小麦の帝国まで欲しいのかい?」
混ぜっ返したら、黙っててとばかりプラセンタを捻じ込まれた。……甘くて美味しい。
まだまだ奥さんは御立腹だったけど、この分なら助けてくれるだろう。
それに最近になって分ってきたのだけれど、これはポンドールにとって譲れない儀式のようなものだ。
きっと彼女の中で沽券に係わるのだろう、頼まれたからといって唯々諾々に従うのは。
とにかくポンドールが納得してくれたのなら、あとは政治向きの詰めをネヴァンと――
いつのまにか鼻を抓まれていた。
その原因たるポンドールは悲しげで……怯えた目をしている。
「……いま違う女のこと考えていた」
結婚に際し唯一つ求めてきた条件は「二人だけの時は、他の女のことを考えない」だった。
なぜかポンドールは、どんな時でも気が付いたし……いつでも酷く取り乱す。
これを嫉妬深く独占欲が強いという方もいるだろう。
しかし、だとしても……それは僕が原因だ。ポンドールに責任はない。
「そんな訳ないだろう?」
鏡の前で何度も練習した誠実な微笑みを浮かべ、なおも言い募ろうとするポンドールの口を塞いでしまう。
僕らが歪んでいて間違てるのなら――
その罪科を背負うべきは男の僕だろう。……それが一生に渡ろうとも。




