狩りの勝者は……
適切な帆を一枚備えていれば、風の吹く限り何処までへも行ける。例え向かい風へ逆らうことになろうとも。
前世史では常識レベルな豆知識だけれど、厳密にいうと間違っている。『理論的には』との但し書きが必要だ。
なるほど、確かに縦帆ならば向かい風でもジグザグに――斜め右、斜め左と切り返し続ければ、結果的に前方へと進める。……理論上は。
しかし、波の力や風の気まぐれやらが積み重なり、実践的には上手くいかないことが多かった。
そもそも仕組みの解明――風の力を揚力へ変換と理解するのも、十八世紀まで待たねばならならず……つまり、当時の人は原理を理解できてない。
また口伝や経験則に頼らざるを得ない時代だ。
正解の周りを何年もグルグルと巡り続けるような方法――偶然の発見によってしか、その知識も進歩しなかった。
そんな長い々々試行錯誤の果てに、船乗り達は最終結論へ到達する。
ようするに『強固な竜骨を備えればよい』と!
竜骨とは船底へ縦に付ける長いヒレ状の突起で、この工夫があると船舶は横へ流れなくなる。
縦帆を使い向かい風だろうと斜め前へ進む力に変え、横方向の力は竜骨によって打ち消し、結果として前へだけ進む。
これこそが帆船の肝であり、竜骨によって完成されたといっても過言ではない。
だが、船舶を横方向へ動かすような力を押し止めるのに、半端な素材で竜骨を作ったら壊れてしまう。
そして竜骨の換装なんて不可能にも近かったから、ほぼ船体の死と同義だった。……直すのと新造するのとで手間が大きく変わらないのだから、そう考える他ないだろう。
なので帆船の黎明期、竜骨は可能な限りに温存された。
向かい風に逆らって進むなんて言語道断だったし、強すぎる風だったら帆を畳むのが常識とされたほどだ。
しかし、末期に革新が起きる。
製鉄技術の発展により、鋼鉄製かつ一体成型で非常に強固な竜骨を製造可能となったのだ。
この鉄で船を造るという発想は、後年の黒船へ受け継がれ、プレ黒船時代とでも呼ぶべきだろうし――
かの有名な『大航海時代』とも前後している。……短くも帆船の全盛期か。
そして僕は溶鉄技術を持っている――鋼鉄の量産が可能なんだから、鋼鉄製の竜骨だって作れる。
あとは適当な小船をバラバラにし、その竜骨を鋼鉄へ換装すれば、鋼鉄帆船の試作型は完成だ。
……ほぼ毎日、休みなく操船の練習をしている船長の方が、大変とすらいえるかもしれない。
カルロスとソヌア老人は辺りを確認していた。
河の流れと正反対な風向きなら横帆――原始的な風力に押される推進方法でも、漕ぎ手無しに周回が可能だ。
しかし、そうではなかったと確認したのだろう。
「なんか分かりもはんが、凄か。もしかして、あん船長は切り返しん名人じゃしか?」
「……どうして今の切り返しで、艇が引っくり返らんのだ?」
この試作型は転覆防止にロング竜骨――帆に対するカウンターウェイトも装備しているからだけど、さすがに想像すら難しいだろう。
「確かに船長は、この新しい船に精通してます。でも、この新造船――『鋼鉄帆船』の性能に拠るところも大きいのです。風さえあれば、何処へでも征ける船の」
僕の言葉に二人は押し黙った。
陸に生きる者には、天候の気まぐれに左右と思えるかもしれない。だが海の男にとって風は、必ず吹くものだ。
驚愕、羨望、疑念……いくつもの感情が入り混じっているけれど、なによりも憧れを強く感じさせた。
おそらく何処へでも征けるとは、海の男が焦がれて已まぬ理想なのだろう。
そしてカルロスが――イベリア人が持つ特異性への疑念も裏付けてくれた。
愛国心でも郷土愛でもなく、海こそが彼らを結びつけている絆では?
それとも偶然に初めて会ったイベリア人が、海に魅せられているだけ?
……どちらにせよ二人を口説き落とす好機だ。
「この船は――というより、この技術は、友人にだけ売るつもりです。まあ当然に、それ相応の代価も頂きますが」
意外かもしれないが、これは嘘偽りのない本心だったりする。
まず竜骨の現物を売るだけなら、技術情報の漏洩を心配しないで済む。
さらに珈琲航路を考えると、ある程度は信頼可能な船舶が必要だ。
それでいて鋼鉄竜骨の販売はドゥリトルが独占だから、販売側でありつつ立場の強化すら図れてしまう。
……金銀に匹敵するほど高価な鋼で、他ではできない一体成型、さらには竜骨という非常に有用なパーツだ。収入源としても計り知れない。
「それで穀物の交易条約の話をしたんじゃな? あれは交換条件か?」
「いえ、あれは純粋な相互互助を目的としたもので」
「御老人、あやおいも助け合い目的ち思えた。安う売っ約束じゃっで、得をすったぁマレー領やろう」
意外なことに農業生産力は、カルロスが支配する北部イベリアの方が高かった。純粋に北部ガリアより、イベリアの方が立地に優れるからだ。
そして同じ北部ガリアでも、ドゥリトルは農業しかやることが無かった分だけ力を入れている。
「あの条約は、誰かが本当に困ると真価も分かって貰えるのですが……」
中世といったら飢饉のイメージが強い。
だが一口に飢饉といっても、大きく分けて三つのパターンがあった。
一つは純粋に土地が貧弱な場合だ。
十に満たない生産力で、十の人口を養おうとしたら、毎年豊作でも足りなくなる。……終わりなき飢饉といえて、本物の地獄だ。
二つめは世界的な災害による。
ミニ氷河期の到来、大火山の噴火、太陽活動の変化、海水温変動などで……基本的に避けようがない。
最後が局所的な凶作による。
これも天候不順などが原因で、やはり回避不能だ。
しかし、江戸時代の記録などでは、とある藩が凶作で苦しんでいても、隣の藩は豊作なんてことがよくあったらしい。あるいは、その逆のケースが。
二つの藩で平均すれば毎年必要量を収穫できていたのに、どちらも数年ごとの凶作で苦しむことすらざらだ。
これは中世という時代に、まるで流通が機能してない証拠ともいえた。
なぜなら世界的災害や疫病の大流行でもなければ、ほとんどの地域で人口は増え続けている。
つまり、食料は足りていたのだ。事実として全体数は減らなかったのだから。
踏まえると局所的な凶作による飢饉は、再分配されなかった故といえる。
そして凶作の時でも誰かが不足分を補ってくれれば、飢死者を減らすぐらいは可能だ。
つまり、前以て緊急時に一定量を安く融通する約束を結んでおき、いつか起きる凶作へ備えれば済む。……もちろん、売却用の食糧備蓄も義務付けて。
ようするに保険の一種だけど、いまいちソヌア老人の心には響かなかったようだ。
最初に使うのは僕らドゥリトルでなく、農業力の劣るマレーに思えるけれど……さすがに無理強いする訳にもいかない。
しかし、珈琲航路の第一歩にして、重要な橋頭保でもある。是が非でも、この同盟は成立させねばならない。
いまこそ更なるカードの使いどころか。
「暮れてきましたね。舵取りに間違いでもあったら大変です。 ――船長、合図を」
肯く船長の指示で船員が川岸へ――城の方へ、あらかじめ申し合わせておいたサインを送ると――
煌々と塔の最上階が光を放ち始めた!
それは蝋燭や松明などは比べ物にもならない白く力強い光――石灰の熱放射によるものだ。
近代では舞台照明やサーチライトに使われたといえば、その明るさを分かって貰えるだろうか?
「あや星じゃしか!? わいは星を捕めたんか!?」
カルロスは驚愕して叫び、ソヌア老人はあんぐり口を開けたままとなった。
『アレクサンドリアの大灯台』の建造は紀元前三世紀という。
諸々の事情から簡単には灯台を作れないものの、その価値は知れ渡っていた。
そもそも遠洋へは出ずに、近海をなぞるような航海が基本の時代だ。誰も彼もが灯台の見える範囲へしか行かない。……その海域に灯台があれば。
実際、羅針盤――船舶用の方位磁石より即効性はあるだろう。なにより光なら、届く範囲内の全員で分かち合える。
しかし、灯台の運用には明るい光が必要不可欠であり、それを用立てるのも簡単な話ではなかった。
そのコアとなるパーツに現代科学チートを提示で……二人になら――海の男になら、その価値を理解できるはずだ。
……獲った。
鋼鉄の竜骨に灯台用のライムライト、飢饉対策の条約と……二人には垂涎の話だ。
おそらく一つ二つなら、さらなる条件を追加しても呑むだろう。完勝といえる。
しかし、もう今日は細かいことを考えたくない。ただ、この達成感に満たされたまま……――
嗚呼! そうだ! 今日ぐらいは風呂を強請っても、罰は当たらないだろう!
今夜は熱いぐらいの湯舟へつかり、思う存分に成功を噛みしめ……――
「素晴らしいですわ、リュカ様! 私、魔法の船にて訪われ、光を結納された娘など存じ上げません! これほどまでの御厚意、畏れ多いほどでございます!」
なぜか昂揚した様子のネヴァン姫が、素っ頓狂なこと口走った。
「……ネヴァン姫? もしや船に酔われたか?」
「しかし、私とて伊達に『西海の総領姫』と呼ばれておりませぬ。リュカ様に相応しきを持参できるかと」
……おかしいぞ? ちっとも会話の成立してる気がしない。
「あー……ネヴァンや? 爺じは、その……ネヴァンにお婿さんは早いんじゃないかと……――」
「御祖父様、なにを暢気なことを! この求婚は、必ずや後世の語り草に! 光を結納された花嫁なんて、もう末代までの栄誉としか!」
……変だな。このお姫様、かなり変だぞ!?
それまでは退屈そうな深窓の令嬢だったのに、いまや歴戦の狩人の如くだ!? でも、何故!? そして何を獲物に!?
堪らず助けを求めて母上を振り返ると、しかし、不思議そうな顔で首を捻られていた!
「ど、どういうことなんですか、母上!?」
「どういうも、こういうも……身分ある紳士が、未婚のお嬢さんを連れ立って来られたのだから……そういうことでありましょう? 御教えしたはずですよ?」
つまり、この会合は僕とネヴァン姫の見合いだったの!?
「初耳ですよ、母上!」
「……御伝えしていなかったかもしれませぬ。 ――吾子、遠方よりマレーの姫君が参られております。相応しき態度で以って、知遇を賜るとよいでしょう」
しれっと仰るけど、母上! これ完全に、お忘れになられてましたよね!? 滅多にない程、顔を赤くされてますし!
いや、そんなことより喫緊の問題はネヴァン姫か!? でも本当に御見合いで――つまりは御嫁さんに来て貰うの!?




