家族の肖像
今朝も城壁からはドゥリトル山が鮮明に見えた。
……うん。本日も絶賛惰眠を貪っている。
なんというか……心の奥底からやる気を感じさせない。
普通は山といったら、男の子が目指すべき生き様のような印象を与えるべきだろう。
なのに弛緩しているというか、気の抜けた雰囲気というか……本当にドゥリトルという名前が、ピッタリしっくりという他ない。
それでも僕は、この無気力な山を段々と好きになりつつあった。
最初は苦笑いするしかなかった名前だって、いまでは愛情の裏返しにも思える。
……同じ家名を持つ者同士、少し贔屓の引き倒しだろうか?
それに、ある意味で適切なネーミングともいえる。
勤勉な活火山なんて、地域住民にとって害悪でしかないからだ。
母上の仰るには年に一、二度ぐらい白い煙――おそらく水蒸気と思われる――を吹き出す程度らしいけれど……それでも降灰被害は免れられない。頻繁であれば、さらに。
多少の愛着があろうと、この調子で眠り続けて貰うのが一番だ。
……この世界は僅かな条件悪化が、そのまま人死へ直結するのだから。
そんな怠け者が微睡むのは、深い森の海だ。
陳腐といわれようと、ただ森の海と呼ぶしかない。それが見渡す限り――地の果てまで広がっていた。
たゆとう波のように霧が森の海へとかかり、深さと……昏さを暗示している。
まだまだ人の版図は、儚いほどに狭かった。この城を中心とした領都ですら、森の大海に浮かぶ小島に過ぎない。
いつしか霧と森に飲み込まれてしまわないかと、この世界の人々は戦々恐々としながら――
憂鬱な妄想を払い除けるように首を振る。
考え過ぎだ。
べつに森は悪意のある災厄として襲い掛かってきやしない。
無知で迷信だらけではあっても……不可思議な超常現象があったり、魔物が跳梁跋扈する世界でもなかった。
ようするに大自然の前では人間なんて、ちっぽけな存在。それだけの当然至極な話に過ぎない。
目敏い女将さんたちへ笑顔で手を振り返しながら、慌てて城壁から離れる。
いつの間にやら川向う側では、女の人達が洗濯を始めていた。
もう冬のど真ん中もよいところで、かなり水も冷たい。そもそも手洗い――それも道具は粗末な洗濯板とタライだけ――の重労働だ。
しかし、そんな過酷な作業を彼女達は陽気にこなす。
いや女達だけではない。
男達だって、負けず劣らずに重労働を頑張る。それも現代日本とは、比較にもならない劣った道具で!
人類の底力というか……その本来持っているポテンシャルを、この世界では強く感じさせられる。
僕達はもしかしたら、強かな生き物なのかもしれない。現代人が思うより、ずっと。
それに領民からの好意は、素直に喜ぶべきだろう。……領主の一人息子としては。
この娯楽の極端に少ない世界で、僕が生活に彩りを添えられるのなら……まあ、今日の星占い役も吝かではない……かな?
ともあれ修練をサボってまで作ったのだから、時間を無駄にはできなかった。予定通りに倉庫へと向かう。
……もちろん扉は開いていない。
ジュゼッペは不平不満の多い男で閉口してしまうけれど、居なけゃ居ないで非常に困る。僕では倉庫を開けるだけで一苦労だ。
つま先立ちになって手を伸ばし、うんうんと唸りながら錠前を回す。
……七歳の時って、こんなにも背が低かったっけ?
いや、この世界の風習で七歳――数えでだから……現代日本式に言い直すと六歳となるのかな?
とにかく明日、ジュゼッペが出勤してきたら踏み台を作って貰おう。自称、元大工の棟梁なのだから、それぐらいは作れるはずだ。
やはり子供には重すぎる扉を、背中で押すようにして抉じ開ける。
……重い!
これは踏み台ではなく、小さな通用門を作って貰うべきだろうか?
なんとか苦労して入った倉庫の中は、相も変わらず片付けが進んでない。
……本当に先代の収集癖は酷かったんだなぁ。
それほど大きな倉庫でもないのに、全く終わりは見えそうにない。ほぼ毎日のようにジュゼッペは整理しているのに。
まあ、急務でもない。ジュゼッペを専属担当にもしたし、いずれは終わるか。
逸る気持ちを抑えながら、とにかく倉庫の隅へ設置した机へと向かう。
目当ての毛布で包んだ鍋は、昨晩に置いた状態のままで鎮座している。
ネズミや猫に悪戯はされなかったらしい! まずはひと安心だ。
手が届かないので踏み台へ乗り、包みを剥がしていく。鍋の外側へ炭で書いた『A』や『B』、『C』の印が消えかけてしまったけど、まあご愛敬だろう。
すでに甘い匂いが漏れ出していて、否が応にも期待は高まっていく! とりあえず『A』の蓋を開け、そのまま指で舐め――
甘い!
成功だ! 気のせいではあり得なかった! 明らかに……そして確実に甘い!
水飴の――麦芽水飴の製作成功だ!
興奮したまま『B』と『C』の鍋も調べかけて、危ういところで木のへらを用意していたことを思い出す。
この後、加熱する予定であっても素手はよろしくない。文明人らしく道具を使って味見をしよう。
……うん?
『B』の方が、より甘い?
でも、『B』と『C』は違いがない……かな? となると成功したのは『B』か『C』だった?
……違うな。
おそらく正しい配合は『A』以上、かつ『B』以下だ。次に作る時の参考にしよう。
でも、とにかく――
水飴の成功だった! 間違いない! それに、これなら再現性も期待できる!
まずは倉庫脇に作って貰った竈の近くへ、僕でも使える高さのテーブルや椅子を運ぶ。
……今日は長時間に渡っての作業となる。本格的に段取りをするべきだろう。
それに火が必要なのは最初だけでも……さすがに寒い。竈の前で作業としても、罰は当たらないはずだ。
しかし――
六歳って、ここまで非力だったかなぁ?
記憶にある父上は、この辺では珍しい金髪碧眼でムキムキな――もう絵に描いたような典型的北方系だった。
むこうでのサクソン人に相当するのかな?
まあ、似たような蛮人枠らしいので、当たらずとも遠からずなんだろう。
それに僕と同じく母上は銀髪で緑色の瞳だけど、やはり北方系の名家出身といっていた。
……だったら僕も、サクソン系らしく筋肉ムキムキとなるはずなのになぁ。
正直、この身体は貧弱だ。今年から始まった剣術の修練でも、力が足りなくて剣に振り回される有様だし。
不思議なことに御婦人受けは良いけれど、この野蛮な時代では危険信号かもしれない。
とりあえず意味のない無い物ねだりは止め、急いで竈の火を点ける。
なぜなら寒い! とても我慢できそうもなかった!
これだけは声を大にして文句を言いたいのだけど……絶対におかしいよ!
習慣だか何だか知らないけれど、もう我慢できなくなるギリギリまで、絶対にズボンを穿かせてくれない!
正確には長ズボンを! もう児童虐待を訝しんでしまうほど!
そして哀れ僕は、もう冬なのに――
半ズボンだ!
子供は風の子とかいうけれど、さすがに常軌を逸していると思う。
そして寒さが極まっても、おそらくは――
ロングソックスを渡される!
そうじゃないよ! 僕が欲しいのは温かい服だよ! 裾の長いズボンの方が合理的だよね!?
室内で上着を羽織って半ズボンにロングソックスとか……ちぐはぐ過ぎるよ!
――などと怒りのエネルギーで必死に寒さと戦うも、一向に火種は作れてなかった!
なんなの、これ! 火打石とか、マジ受けるんですけど!
燧石とかいう硬い石を鉄に叩き付けると、鉄が少し削れて火花となる。
その温度は優に千度を超えるほどだ。これだけで熟練者なら火を起こせるという。
さらに火花をおが屑を入れた箱へ向けて散らすと、より火種を作り易くなる。なぜならおが屑は、薪より燃え易い。
あまりの下手糞ぶりを哀れに思ったのか、わざわざ僕用にジュゼッペが段取りしてくれたものだ。
ようするに火起こしのイージーモードだろうか? ……泣ける。
……とか嘆いている間に火は点いた! それが全てだ!
それに「火起こしの上手い下手が人間力の決定的な差ではないことの証明」は容易い。
また、人類は適材適所という英知も発見している!
………………次は着火器具を作ろうかな。
とにかく指先もかじかまなくなってきたので、作業へと移る。
現状で十分といえなくもないけど、このままでは腐ったり発酵したりしてしまう。やはり濾してから火にかけて濃縮がベストだ。
これは加熱殺菌も兼ねるけれど、それよりは糖分濃度を高める方が大事だったりする。濃縮すれば甘みが増すのは勿論、雑菌の繁殖が不可能となるからだ。
……この冷蔵庫のない世界にあって、腐らないというのは素晴らしすぎだろう。
濾したものを鍋にかけて、薄い飴色で緩い状態から濃い飴色となって粘り気がでるまで煮詰める。
焦げたりしないよう、弱火でゆっくりと。
……あまりに単純作業過ぎて、没頭とはいかなかった。自然と心は、前々からの疑問へと彷徨っていく。
なぜ、この世界の人は水飴を知らないのだろう?
実のところ麦芽水飴を作るのは簡単だ。
材料集めだって難しくはない。
なぜなら代用品が多いから。必要なのは麦芽か大根。そしてデンプンを多く含んだ食品だけだ。
例えば僕の場合、大麦麦芽と大麦を使って麦芽水飴を作った。
これは大根と大麦でも可能だし、大麦麦芽と何かの豆類でもいい。酵素と材料が揃えば条件は満たされる。
が、やはり大麦麦芽が一番に手っ取り早い。
大麦が栽培されているのなら、絶対確実に存在するし……いざとなれば自作するのも簡単だ。
なぜなら大麦麦芽と気取らず――大麦モヤシと言い換えれば、すぐに理解できる。
つまりは発芽させて伸びてきたものを、切り取るだけで良かった。しかも、乾燥保存すら可能ときている。
そして大根でやる場合、さらに話は簡単で……なんと大根おろしにすればOKだ。
また、作業そのものも恐ろしくシンプルだったりする。
水溶したデンプンに酵素を混ぜ、変化が終わるまで一定温度に保つだけ。最後に残ったカス――固形物を取り除ければ完成だ。
僕のケースでいったら、大麦粥へ粉末状とした大麦麦芽を混ぜ込み、適当に湯煎した。
……本当は八十度で数時間程度が目安なのだけれど、それなりに幅はあるし、少し間違った程度で大失敗とはならない。
それに最後は煮詰めるのだから、多少の品質差なら有耶無耶にできる。
しかし、ここまでの工程を、この世界の人々も利用していた。
これは絶対確実で間違いない。なぜならエールを飲んでいるからだ。
エールの場合、大麦粥へ麦芽を入れて糖化させ、濾したり濃縮したりせずにビール酵母を追加する。糖をアルコールへ変化させる為にだ。
結果、大麦どぶろく――エールが作られるのだけれど……過程で糖を――麦芽水飴を作っているのは、僕と変わりがない。
なのに、この世界で水飴を見たことがなかった。
……どうしてだろう?
などと考えているうちに水飴の濃縮が終わる。色こそ違うものの、粘度は蜂蜜ぐらいだろうか?
……念の為に蜂蜜と比べておく。
うん、同じような粘り気な気がする。これなら濃度も似たようなものだろう。
え? なぜ蜂蜜を持っているかって?
それは厨房からパク――内緒で永久に借りてきたからだ。
うん? なら水飴なんて作らないで、蜂蜜で良いだろ?
残念ながら、それは違う。
これから蜂蜜と水飴を使うから、両方ともに用意した。
それに、なぜか領主の息子である僕ですら、そうそう蜂蜜を口にできない!
理由は判らないけれど、この世界では超高級品のようだった。
しかし、普通にミツバチを見かけたこともあるし、領内の村々から税として納められてもいる。貴重な輸入品という訳でもない。
……謎だ。
だったら悪いことしないで、水飴で我慢しろ?
それも見識不足と思われる。
確かに材料費から考えて麦芽水飴は安い。おそらく蜂蜜と比べれば遥かに。
しかし、同時に甘みも遠かった。
砂糖の甘さを十とするならば、なんと蜂蜜は十三前後に相当する! ややもすると蜂蜜がくどく感じるのは、甘みが強すぎるからだ。
対するに水飴の甘さは、三か四程度でしかなかった。
やはり現代日本人の記憶を持つ僕には――砂糖も蜂蜜も好き放題に使えた人間にとっては、水飴だと物足りない。
なので『龍髭糖』を作る!
その原材料が水飴と蜂蜜という訳だ。
え? 『龍髭糖』なんて聞いたことがない?
……ふむ。甘味料としては成立していないし、あまり一般に有名でもない。
だが『異世界チート百珍』こと通称――
『異世チ珍』
という書物を、ご存じないだろうか?
マイナージャンルの作品で知る人ぞ知る程度なのだけど……僕の愛読書だったし、少しなら諳んじれるほどだ。
もう純粋に読み物として面白いので、ぜひともご一読をお勧めする。
その『異世チ珍』で簡単な砂糖の代用品として挙げられているのが、いまから作る『龍髭糖』という訳だ。
当然に架空の糖ではない。実在する菓子――龍髭飴の原材料だったりする。
また、さすがは異世界チートを選りすぐっただけのことはあって――
それなりに甘くて作るのも簡単だ!
なぜなら同量の蜂蜜と水飴を混ぜ合わせ、寝かせるだけ! 以上、終了!
まず同量を混ぜ合わせた段階で甘さが平均された――十三足す四を割って八から九だろうか?――の甘味料となる。
それが寝かすことで濃縮され、最終的には推定で九以上!
好みによって固形化したものを轢いて粉にしたり、棒状や板状にして使いやすくする。
これこそ、最も簡単に砂糖の代用品を入手する方法といえるだろう。
などと説明している間に、壺二つ分の『龍髭糖』が手に入った。
……呆気なさすぎる。それに量も多過ぎた。まあ、どう使うかは寝かし終えてからで十分か。
それに、この『龍髭糖』すらセカンドベストに過ぎない。もっとダイレクトな水飴からの砂糖作りも『異世チ珍』には紹介されている。
だが、できるだろうか?
『異世チ珍』に難しいと明記されていた砂糖作りを?
とにかく母上が所有するガラス製の涙壺へ、適当に水飴を薄めて注ぐ。
ちなみに涙壺だけど、現代日本人なら丸フラスコかメスシリンダーと認識すると思う。
なんでも戦地へ夫を送った高貴な身分の女性は、その不在時の悲しみに流した涙を、この涙壺へと貯める習慣があるとかないとか。
したがって実用性皆無の不思議な形状なものが多い。
その証拠に、どう見ても母上のは大きなメスシリンダーにそっくりだ。
この涙壺は隣の領主夫人から送られたと、珍しく母上が不機嫌に話してらしたから……おそらくは嫌味なんだと思う。
意味するところは――
「旦那様が出征なんて、それはお気の毒ですこと。おほほ」
だろうか?
超高級品――ガラス製品は、数えられるくらいしかない――を使ってだから……まあ渾身の嫌がらせなんだろう。
……もしかしたら涙壺を割ってしまっても、母上は笑ってお許し下さりそうな?
でも、少しだけ隣の領地が羨ましくはある。
なぜならガラス工房を領内に持っているからだ!
そしてドゥリトル領には、工房どころか職人の一人すら居ない!
つまり、ガラス製品は輸入するしかなく、どれもこれもが貴重品だったりする。母上の愛用しているワイングラスですら、この領内では羨望の的。贅沢品だ。
などということを考えながら、鍋から涙壺へ藁を繋いでいく。
……藁へ藁を差し込み、繋ぎ目の隙間を粘土で埋めるという方法でだ。
ジュゼッペに塗料で強化して貰っておいたとはいえ、非常に壊れやすい。何本も無駄にしながら、地道に伸ばす。
……嗚呼、ガラス製品が欲しい!
ゴム製品とまで贅沢はいわない。間に合わせでも良いから、せめてガラス製の器具を!
想像の数倍は時間をかけ、やっとこ涙壺まで藁をジョイントし終えた。
……空気漏れしたらどうしよう? その都度、粘土で漏れる場所を修復か?
まあ、その時はその時だと割り切るしかなさそうだ。
続いて鍋の中へ傾斜を――銅の粉で何本もラインを引いた板を設置する。
これは銅管の余りをジュゼッペと削ったものだけど、二人掛かりで一日仕事となってしまった。
……器具もだけど、工具も足りない。
これは早急に解決しないとなぁ。自由にできる資金も含めて。
軽く溜息を吐きつつ、別の開いてる鍋へレモンを絞っていく。
これは先代が帝国で流行っていると聞いて、大枚を叩いて植えたものらしい。
例によって母上は、ぷくっと頬を膨らませながら教えて下さったから……凄く高かったのだろう。もしかしたら金貨百枚単位かもしれない。
やはり舅が放蕩な収集家では、悩みも尽きなかったようだ。
母上にしては珍しく、先代が山師に騙された話を何度となく繰り返すし……嫁舅問題は最悪に近かったと思われる。
しかし、ちょうど冬で旬だし、最も簡単な酸の入手方法だ。ここは遠慮なく活用させて貰おう。
惜しみなくレモンを絞り、銅のラインが水没する寸前まで注いでいく。
……僅かに果汁が――酸が銅に触れ、微かな音を立てる。それは銅が酸化した音で、水素が発生した結果ともいえた。
成果に満足しつつ、次は鍋に小さな穴の開いた蓋を――取っ手を外し、その部分に小さな穴の開いたままの蓋を逆さに乗せる。
涙壺と繋いでいる藁が潰れないよう粘土で保護し、さらに粘土で空気が鍋から漏れないようにも目張りもだ。
そして最後に逆さな蓋の部分へレモン汁を注ぐと――
簡易水素発生装置の完成だった!
逆さにした蓋の穴からポタポタと漏れることで、鍋のレモン汁水位が上がる。
水位が上がれば、銅とレモン汁――酸が触れ水素を発生だ。
そして鍋に水素が充満すると、唯一の出口である藁から漏れていく。
結果、水素が供給されるという訳だ!
想定通りに上手くいき、水素は藁の先から――涙壺の中で泡となって立ち上っている!
……でも、やや想像より勢いがない……かな?
まあ、べつに問題はない……はずだ!
水素供給が遅かったら、その分だけ反応に時間が掛かるだけ……のはず!
ここで化学に詳しい方であれば「水飴――麦芽糖水溶液に水素を加えても、何も起きないのではないか」と仰るだろう。
もちろん、それは僕も理解している。
麦芽糖水溶液に水素を加え続けようと、何の変化も起きない!
なので、もう一つ工夫が必要だったりする。
ポケットから白銀のネックレスを取り出し、落ちないよう棒へ引っ掛け、水素泡のコースと重なるように沈めていく。
……うん、こちらも問題なしだ。
設計通りに水素の泡は、ネックレスを伝わって上り始める。
これは何をしているかというと、白銀を触媒に追加だ。
ちなみに触媒とは反応の前後で自身は変化せず、特定の化学変化を促す物質のことを指す。
逆にいうと化学変化が起こり始め、これで目的の物質が精製される。
つまり――
幼馴染で腐れ縁の水飴ちゃんと水素君は、どんなに接触しても化学変化しない様子だった。
しかし、ある日のこと。良家のお嬢様である白銀ちゃんが触媒として追加される!
当然の権利のように白銀ちゃんと接触した水素君は、おもわず色気づいてしまう!
そんな水素君が気になって仕方がない水飴ちゃんは、自分の気持ちに気付いて告白&合体!
という流れ……らしい。
厳密には白銀ちゃんと水素君が一時的な化学変化を起こし、その不安定になった水素君を水飴ちゃんが略奪するようにして化学変化……と段階を追う。
何を言っているのか解らない?
ようするに――
麦芽糖と水素を触媒環境下で接触還元させると、還元麦芽糖 (マルチトール)へ変化する
だそうだ。
もちろん、僕にも何のことやら解らない! 知っているのは手順だけだし!
そしてマルチトールも別の言い方――ダイエットシュガーとか人工甘味料などと呼べば、その本質も理解できるだろう。
吸収率が低いのはメリットでもあり、デメリットでもあるが……その甘みを数値化すると、なんと九!
ほぼ砂糖も同然といえるし……この世界では砂糖が、おそらく超高級品――まだ僕は、見たことすらない――だ。
それを原材料は大麦だけ、諸経費も薪とレモン、銅だけだから……もう錬金術と大差ないような?
何よりも成功すれば、明日からは砂糖を使いたい放題だ!
しかし、『異世チ珍』には高温・高圧での接触還元が望ましいともあった。
一応は触媒が絶対条件。他は促進させるだけではあっても……確実に歩合は低くなってしまう。場合によっては、成果を認められないほど落ち込む可能性すらあった。
伊達に『異世チ珍』で難しいと明記されてない。水飴と比べたら天と地の差だ。
やはり、器具の開発を先にするべきだったか?
高温だろうと高圧だろうと、いくつか胡麻化す手段が『異世チ珍』には紹介されている。
もっと確実な方法――プラチナ製の密封容器に水飴の水溶液と水素を封入し、器具ごと加熱して温度と内圧を高める方法だってある。
だが、この世界でもプラチナは、やはり集めるのが大変といえた。
むこうの人類は、金や銀、銅などと同時にプラチナを発見している。
それぞれ必要技術は違うらしいけれど、発見時期は似たようなもの……らしい。実際、古代エジプトでプラチナは珍重されていた。
しかし、中世のヨーロッパなどでは違う。
なんと近世まで、その価値を認められていなかった。
金より価値がないのに、その希少性は金よりも高い。さらには金や銀のように加工できない癖に、金と同じくらい柔らかくて実用性も低すぎ。
結果、『駄目な銀』とか『偽物の銀』、『小粒の銀』などと蔑まれた……そうだ。
この古代なんだか中世なんだか判別つかない世界においても、それは同じらしかった。
僕の所有物となったのも「先代の遺産だから」という理由で、貴重性は全く考慮されてない。
おそらく先代のことだから、珍しい金属というだけで買い求めたのだろう。
……もしかしたら値段を聞いて母上は、卒倒したんじゃなかろうか?
ここの倉庫と同様、遺産として僕へ残されたのも納得するしかない。親族の誰にも価値が判らなかったのだろう。
とにかく話を戻せば、まるごとプラチナ製の器具なんて用意できなかった。
価値を認められてなかろうと、その希少性までは変わらない。下手したら集めるのに同じ重さの金より高くつく。
かといってガラス製品も負けず劣らず高価な訳で……その上、欲しいのは特注品だ。ましてや遠方の工房へ頼むともなれば、もはや絶望的という他ない。
いや、確かに裕福とはいえないけれど、ドゥリトル領は貧乏でもなかった。
鄙びているともいえるけれど、領地の広さは国内屈指だという。
その領主の一人息子という立場を笠に被り、僕には甘い母上へお願いすれば、おそらく我儘も通る。
が、やはり、贅沢は口にし辛かった。
そもそも父上が出征中な以上、ドゥリトル家の男子として母上をお守りする義務がある!
……まだ六歳の未熟な幼児だろうとだ!
それに戦費で財政も圧迫されているようだし、のほほんと放蕩息子よろしく散財なんて許される訳もなかった。
爺やのセバストはもちろん、留守居役で城詰の騎士達だって眉を顰めるに違いない。
でも、いわば投資ともいえて……めでたく還元麦芽糖の精製に成功すれば、それこそ大金が稼げる。
一トンほど金と等価で売り捌いたとしても、小金貨にして二十万枚! 大金貨で五万枚だ!
これなら初期投資なんて、すぐに――
……あれ? それってドゥリトル領の年間予算で四分の一!?
………………拙い。非常に拙すぎる。
これだと世界を激変させ過ぎちゃう!
そもそも砂糖より先に、還元麦芽糖の量産体制が出来ちゃうと……うーん? 砂糖量産に至る過程の技術が、全て開発されなくなる? それは何だろう?
これは自分用に作るだけにして、売却するとしても注意深くしないと駄目か? いや、考えるのは精製に成功してからでも……まった! そもそも現時点で成功が危うくて、だから器具類が欲しい。できればプラチナも。それには現金が必要で、母上にねだるのなら後で返さないとだし……まて、まて、まて! 何らかのリスクを負うとしても、それは還元麦芽糖の精製でがベスト? 成功が疑問視されるものより、他の確実に可能で世界への影響も少ない技術にした方が――
そんな苦悩の深淵へと沈みかけた僕を、天使が救ってくれた!
「リュカ兄ちゃま、なにしゅてるのぉ?」
声に振り替えれば――
幼女が白い巨大な犬を連れていた。
僕の義妹、乳兄妹のエステルだ!
この地で大勢を占める西洋人特有な濃い肌色。くせ毛だがボリュームのある金髪と碧い瞳を持つ幼女で……死角は全くない。あと十年……いやさ二十年は戦える!
しかし、それらの外面より、気立ての良い素直な内面を高く評価するべきだろう。素直妹、万歳!
「えっと……お砂糖を作ってたんだよ。ステラはタールムと遊んでたの?」
「うん! 『今日のお手伝いは、いいわよ。遊んでらっしゃい』ってクラウディアしゃまが! お砂糖? お砂糖ってなーに?」
と返事をしながら、当然の権利として僕の膝へ腰掛けてくる。
勿論、なんの問題ないぜ! ステラが抱っこしろというのなら、いつだって大歓迎さ!
が、僕とエステルの背格好は変わらないので……抱っこというより、二人で椅子をシュアといった感じになる。
「母上が? ……なにか急務でもあったのかな? それに、お砂糖は……えっと……甘くて美味しいものだよ」
「甘いの? ステラ、甘いの大好き! 兄ちゃ! しゅうかくしゃいのパン! 美味しかったねぇ!」
砂糖を想像できなかったのか、エステルは甘いという言葉の方へ反応した。
お嬢様――僕の乳兄妹なぐらいだ。領内でも屈指といえる――なのに、お菓子は半月前に食べたっきりというのが泣ける。
「ほら! これは水飴だけど……舐めてごらん、甘いから!」
水飴を木のヘラで掬って渡す。
なんの疑問も感じなかったらしく、エステルは受け取るや口へと運ぶ。
……義兄としては、可愛い幼女が持つべき用心深さを説くべきだろうか?
しかし、この崇高な命題の答えを得る間もなく――
「おいしぃー! 兄ちゃ、これ美味しぃ! 甘い! しゅごい!」
と興奮したエステルはバタバタと動く。
……可愛い! 許せる! 嗚呼、なんて幸せなんだ!
このように義妹と兄妹の情を深めていると、あらぬ勘繰りをされる方もおられかもしれない。
でも、心配されずとも平気だ! この場を借りて声を大にして言いたいのだけれど――
僕はロリコンじゃない! もちろんシスコンでも!
これは父性愛がキュンキュンしちゃっているだけで、邪な感情など皆無!
そう、いつだって僕は自分に言い聞かせている!
僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。ロリコンでもいいじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない。僕はロリコンじゃない――
少しだけ日課の祈りに腐心していたら――
「なくなっちゃった。もっと大事に舐めればよかった……」
と、エステルが深い悲しみに暮れていた。
その様子は、まるでこの世の終わりでも来たかのようだ。
しかし、お嬢様として育てられたエステルには、高級品であろう甘味のお代わりなんて想像すらできないのだろう。
「まだ沢山あるから大丈夫だよ! ほら、その木のヘラを貸して――」
ふと思いついて、もう一本足して水飴を掬いなおす。
「よく見てろよ、ステラ――こんな風に水飴は練って食べるんだ」
「練るの? なんでー?」
などと聞き返してくるけれど、早くも言われた通りに手を動かしている。
……うん。素直って素敵だ! 感動しかない!
「練れば練るほど甘くなるのさ! 嘘だと思うなら、味見しながら練ってごらん」
言われたエステルも水飴を舐めたり、練ってみたりと……楽しみ方が判ってきたようだ。テンションが上がったのか、足をパタパタしている。
……眼福だ。
目を輝かせた幼女が水飴を練り、舐め……その度に「兄ちゃ、美味しい!」や「兄ちゃ、甘い!」と報告してくる。
なんて天国だ、ここ!?
と堪能していたら、僕の膝へ頭を乗せたものがいる。
……タールムの奴だ。正直、重い。重量的な意味で。
まあ大型犬とか超大型犬に分類される犬種だし、もう成犬――僕やステラと同い年で満六歳だ――なので、凄く大きい。
たしかフランスの貴族は、子供の護衛として大きな犬を飼う習慣があったから……その辺りなんだろうか?
でも、こいつは僕の護り犬というより、エステルの子分になってしまっている。僕のことなんて、手の掛かる弟分程度に思っているんじゃなかろうか?
まあ、エステルの専属護衛と考えれば許せるけど。
少し考えてタールムにも分け前を――水飴の絞り粕を与える。
あまり犬に糖分は良くないけれど、原材料は大麦一〇〇%。そして大麦はブリーダー推奨のエサだから……大量でなければ平気だろう、きっと。
のっそりと立ち上がったタールムは、うにゃうにゃと唸りながら食べ始めた。
……お前、猫みたいだな。それに尻尾を振るのはよせ! 顔に当たってんだよ!
まあ、いいか。
僕とエステル、タールムは他のきょうだいよりは特別だ。
二人と一匹は、ほとんど同じ時期――順番は僕、エステル、タールム――に生まれたのだし、ずっと一緒だった。
ちょっとくらい弟分が生意気でも、許してやるのが兄貴分の度量というものだろう。
……図々しくお代わりを要求するな! もう駄目! 犬の身体には、悪かったら大変だろ!
しばらくタールムと戦っている――得意技は顔面舐めと大好きホールドマーキングで手強い――と、さらなる来客が竈を目指してきた。
誰かと思えば――
乳兄弟のサム義兄さんだ。
それに手拭いこそ首に掛けてはいるものの、ひどい濡れ鼠となっている。
「義兄さん! ……修練、終わったの?」
「ああ、いまさっき終わった。水、冷たくなったなぁ! 凄く寒い! 火に当たらせて!」
そう言いながらガシガシと短い金髪を拭っていく。
おそらく修練――剣術の訓練が終わったところで、汗を流そうとダイナミックに顔――というか頭を洗ったのだろう。
だが、もう季節は冬であり、気温も確実に日本より寒い。
なのに沐浴もどきが標準というのだから……この世界の男達には、驚かさせられてばかりだ。
「それと怒ってたぞウルスさん。『またリュカさまは、サボりかぁ!』って」
「ウルスは怒ってばかりじゃないか。それに修練を励んでもなぁ……僕より弱い戦士とか、いるのかな?」
「始めたばかりで何いってるんだよ! それに、すぐリュカだって大きくなるさ。お館さまの子なんだから」
しかし、それをサム義兄さんにいわれても説得力は感じられない。
たった三つしか違わないのに、かなり恵まれた体格へと育ちつつあるからだ。さすがは代々騎士の家系なだけはある。
……まあ、僕も数世代に渡って領主――武人の家系なはずなんだけど。
「でも、何してたんだ? あの変なおじさんは?」
「ジュゼッペ? 今日は休みだよ」
「あれ? 今日は五のつく日だったっけ? ――なんだ、これ? 少し甘いぞ?」
止める間もなくサム義兄さんは、水飴の絞り粕を口にしていた。
……いや、まあいいけどさ。甘酒の原料みたいなもんだから、多少は味もするだろうし。
でも、サム義兄さんは腹ペコが常態すぎて、少し食欲に突き動かされ過ぎじゃ?
「そっちの水飴――ステラが舐めてる薄茶色の方が甘いよ」
「本当かい?」
「待った! 義兄さん、待った!」
サム義兄さんが水飴の壺へダイレクトアタックする寸前で止め、ステラと同じ様に木のヘラを渡す。
……僕も九歳の頃は、こんな感じだったかなぁ?
「あまっー! なんだ、これ!? 凄く甘いぞ、リュカ! なんというか……凄く甘い! いや、そうじゃないな……とにかく甘いんだ!」
人間、感激がオーバーフローすると語彙力を失う。なので我が義兄さんは、特別にアレという訳ではない。
そう自分に言い聞かせ、身体を冷やしただろうサム義兄さんの為に鍋を竈へと掛ける。
……温かい飲み物でも飲めば、ひと心地つくはずだ。
「ふーっ! 兄ちゃ、甘いの! これ、しゅごく甘くなった!」
「だな、これ甘くて美味しいな、ステラ!」
サムとエステルの二人は、共鳴でも起こしたかのようだ。
「……あれ? サム兄ちゃ? いつの間に?」
いや、どうしてかエステルはサム義兄さんに気付いてなかったらしい。……もの凄く騒がしかったのに。
「エステル……僕は、お前の『のんびり屋』なところ、兄として凄く心配だよ? ちょっとずつでいいから直そうな?」
年相応な男の子のものから長兄としての顔へ、サム義兄さんの表情が変る。
……苦労してるんだよな、まだ九歳なのに。
そして『のんびり屋』といわれ、ほとんど反射的にエステルが頬を膨らませる。
……まあ生まれた時から言われ続けたら、そりゃ嫌にもなるだろう。
エステルが僕の乳兄妹に選ばれたのは、色々な理由があるのだけれど……サム義兄さんの存在も大きい。
僕は第一子なこともあり、男だったら自動的に嫡男となる。確実に乱世を生き延びるには、やはり男の乳兄弟が望ましかった。
そしてサム義兄さんがいれば、たとえエステルが女に生まれようと、絶対に男の乳兄弟を確保可能だ。
どころか男に生まれたら、剣を持てる乳兄弟が二人となる。他の条件も鑑みれば最適ですらあった。
そんな理由で僕とエステルの二人は、生まれる前から乳きょうだいと決められていたらしい。
なのにエステルは周囲の期待に反して女子。さらには僕より後に生を受けた。
もう封建的と呆れるしかないのだけど、なんでも「先に生まれ、主君の露払いをするべき」だったらしい。
結果、エステルは事あるごとに『のんびり屋』と揶揄されていた。
……まあ事実として、おっとりし過ぎてもいるけど。
これは僕とサム義兄さんの責任もあるかな? 二人して甘やかしちゃったし。
「そんなこと言うサム兄ちゃ、嫌い! べーっ!」
はしたなくも小さな赤い舌をサム義兄さんへと見せつけ、「リュカ兄ちゃは味方だよね?」とばかりにギュっと抱きついてくる。
もちろんですとも! この義兄は、なにがあってもエステルの味方さ!
そんな僕達二人の様子に、サム義兄さんはがっくりと肩を落とす。
……うん。一家で唯一の男として父親役も務めねばならず、僕ほど無条件ではいられないのだろう。
でも、少しサム義兄さんは頑張り過ぎだ。
男の乳兄弟が果たすべき役目、早逝した父親の代理、将来は騎士となって武門を復興……荷物を背負い過ぎだろう。まだ九歳だというのに。
いや、そう気楽にしていられないのも事実か。
この地は未開で野蛮で……果てしなく過酷だ。努力しても、それだけでは届かない。そんな理不尽にあふれていた。
なのに幼くとも必死で年長者たろうとする姿には、感動すら覚えさせられる。
……一応、これでも僕は精神的に大人――遥かに大人だから、わりと我慢できるんだけどな。
それに、だからといって……いくらサム義兄さんが同情に値しようと――
エステルを甘やかすのは止めない!
夢にまでみた妹だ! いや、義妹か! とにかく『いもうと』には違いない! ペロペロ、クンカクンカでもしない限り――
兄は何をしても許されるはずだ!
なぜなら、これは家族愛――つまりはアガペーだから!
えっ? 違う? それをいうならストルゲー? なら、それで!
……そういえば紳士のグリモワール『ホンモンの書』には「ドント・タッチ」と禁忌があるだけだった。
しかし……それは……つまり――
クンカクンカは許されるのか!? 非接触だし!?
おお、かみょ! 我を試したもうな!
だが、いま密やかに……ひと呼吸だけ……そうすれば……エステルの……あの御日様の匂いが――
僕はホンモンになるぞーっ! 徐々にぃっ!
しかし、魂を深淵へと投げ捨て終える――ホンモン七十二の性癖を解き放つ寸前、目え覚ませと呼ぶ大きな音がした。
とにかく何事かと振り返れば――
ダイアナ義姉さんだ。
……悠々とトイレの横へ吊るした手洗い用の桶――底の金具を押し上げると水が出る優れもの――を使っている。
となると先ほどの物音は、トイレのドアを閉めた音か?
そりゃ確かに用を足した後は手を洗うべきだし、それについて異論もないけれど……少し酷くないだろうか?
僕とジュゼッペの二人でトイレを作っていた時は、おまる作りに夢中の変人とまで貶されたのに!
しかし、完成したらしたらで気になったのか、内緒で試していたのだろう。
……ズルい! それじゃ罵られ損じゃないか! ありがとうございます!
とりあえず嫌味でも言ってやろうと口を開きかけ――
「私のような美少女は、うんちやおしっこをしないのよ!」
と先手を打たれた。しかもドヤ顔で。
……うん。でも、義姉さん……美少女は「うんち」や「おしっこ」と口走ったりもしないと思うんだ。
あまりのことに、あんぐりと口を開けていたら――
「なによ? なにか文句でもある訳?」
と腰へ手を当てて仁王立ちだ。
その手足はニョキニョキと長く、それでいてまだ細くて……将来性と幼さを強く感じさせた。
サム義兄さんと背丈こそ変らないけれど、やはり徐々に男女差は出始めている。双子といっても二卵性だし、ようするに同い年のきょうだいということか。
「……ある訳ないよ、ダイ義姉さん」
「なら、よろしい。私も義弟が素直で嬉しいわ」
ご満悦の様子で、自慢の黒髪を手で靡かせる。うん、超ご機嫌だ。
調子に乗らせるのは業腹だけど、逆らったら酷い目に遭わされる。余計なことは言わない方がいい。
でも、なにが「美少女は、うんちやおしっこをしない」だ!
まだ夜は独りでおしっこ行けない癖に! もう起こされたって、一緒にいってあげないぞ!
「……うーん?」
僕の髪を整えながら、疑わしそうに顔を近づけてくる。
……この大きな黒い瞳は苦手だ。じっと見つめられると、とても落ち着かない。
それに義姉さんは、どうして僕の身だしなみに厳しいんだ? 服なんて清潔なら、それでいいのに!
……あと、異常なぐらい半ズボンに固執するのも止めて欲しい。どうして僕だけ? もうサム義兄さんは卒業しているのに!
おそらく義姉さんは――
姉は何をしても許される
と思っているに違いない! 賭けても良いぐらいだ!
しかし、誤解して欲しくはないのだけれど、僕とダイアナ義姉さんの仲は悪くない。
むしろ穏やかに互いを認めつつ、熾烈なマウンティング合戦の途中というか――
ダイアナ義姉さんが、お姉さんぶりたくて仕方がないというべきか。
その小さい身体の何処に隠しているのかと不思議になるぐらい、もう精一杯に幼い母性をかき集めてくる。
……これでも精神的には大人だし、それぐらいは判ってしまうのだ。
踏まえて僕側の気持ちを、語弊を恐れず言語化すれば――
年下の幼い義姉さんが世話焼きなものだから、むず痒さに萌え死にしそうな上、当然にパブみも感じるからオギャらざるを得ない
だろうか?
……うん、どの単語がどの単語へ掛かってもヤバい。年下義姉という段階で相当なパワーワードなのに!
それに黒髪ロングのストレートというのも反則だろう。
おそらく父譲りな兄や妹とは違って母親似で……魔力めいたパワーがあった! 黒髪萌え属性であれば、たぶん溶ける!
そういえば小学校で同じクラスになったミヨちゃんも、奇麗な黒髪だったなぁ……何もかも皆、懐かしい……まるで遠い幼い頃の夕暮れだ。
まあ、いまも幼児だけどね! まだ、満六歳だし!
だが、昔を懐かしんで気を許した隙に、義姉上のダイレクトアタックが通る!
……よりにもよって『龍髭糖』の方へ!
「え……なに……こりぇ……あまひ……すごく甘ひっ!」
想定外の感動に打ちのめされたのか、真っ直ぐ立っていられないとばかりに僕へ寄りかかる。
……お、女の子臭い!
「義姉上! ヘラぐらい使って下さい!」
叱りながら予備のヘラを渡す。
……どーして指でいくかなぁ! あと、自分のだからってペロペロ舐めないの! はしたないでしょ!
「はいはい、これを使えばいいのね? まったく……リュカは細かいんだから。そんなんじゃ立派な君主になれないわよ」
嗚呼、姉を持って初めて解った!
『姉』と書いて理不尽と読ませる!
この格言は正しい! 経験すれば、誰にでも理解可能だ!
……って、また『龍髭糖』へいくのかよ!
「あーっ! ずりゅい! ステラは我慢してたのにぃ!」
そしてエステルからも不平の声が上がる。
「……じゃあ、ステラもひと掬いな! ――判った。ふた掬いね。義姉上! 義姉上は、そっち! そっちの水飴が入った壺の方へ! 『龍髭糖』は、まだ完成してないんです! 食べ尽くさないで下さい! ――あ、義兄上も良かったら『龍髭糖』を――」
そこで「俺! 俺! 俺を忘れるな!」とタールムも吠える。
……君、けっこう自己主張激しいね。護り犬の割に。
「はぁ……お前にも御代りな。これリサイクルしようと思ってたのに……」
仕方がないので、残ったなけなしの水飴の絞り粕を与える。
水飴やビールの絞り粕などは、見た目よりはるかに栄養価が高いという。肥料として活用したり、パンや菓子類のつなぎとしても流用できる……らしい。
まあ、本格的調査は今度でも良いか。水飴製作までは、確実に繰り返せそうだし。
それに我ら四人と一匹の兄弟姉妹で団欒の方が大事だ。何物にも代えがたい。
ただ、当初予定より成果は減ってしまった。
残るは『龍髭糖』が二壺――少し減ったが、まあ二壺だ――と水飴が一壺。
あとは涙壺内の分だけど……今回、還元麦芽糖の精製まで成功できるとは思えない。
少しでも甘みが強まってたら――水飴よりも甘くなってたら、次に繋げられる程度だろうか?
まあ、それだけでも大きな一歩とはなる。
べつに急ぐ話でもない。今日のところは可能かどうかだけ確認し、次は道具類の工夫ができてからにしよう。
……などと考えていたら、いつの間にかシーンとなっている!
何事かと振り返れば、そこに――
我が乳母上にして乳きょうだい達が実の母親、レトが立っていた!
そしてダイアナとサム、エステルの三人は固唾を呑んでいて……つまりは緊迫した雰囲気だ。
どうして? ……いや、愚問だ。
なぜなら見たこともない表情でレトは固まっている。
その人差し指は顔の近くで静止しているから……おそらく『龍髭糖』の味見をしたのだろう。
……うん。拙いな。ようするに――
義母ちゃんが怒ってる!
……のか!? いや、まだ挽回の余地はある!?
「若様!? こ、これは? も、もしかして……さ、砂糖でございますか? でも、それにしてはコクが――」
「……え? ……って、砂糖!? ああ、やっぱり砂糖はあったんだ? いや、あるんだよね?」
これは……違う。間違った。いま、それを問い質す必要はない。
そして城にも砂糖はあるようだけど、それは厳重に保管されているようだった。おそらくは蜂蜜以上に。
「違うの! 違うのよ、母しゃま! 兄ちゃは作ったって……おしゃとうを作ったって――」
緊張に耐えきれなくなったのか、それとも僕を庇うつもりか……エステルが明後日の方向へとアシストを試みる。
でも、そっちじゃないよ! そっちは安全地帯じゃない!
「違うんだ。僕が作ったのは『龍髭糖』の方じゃなくて、こっちの水飴の方で――」
混ぜただけであろうと、厳密には『龍髭糖』も僕の手による。
だが、そんな細かなことを論じる暇はなかったし、上手いことレトの気も逸らせた。
「水飴? これですか? ――うん? どこかで口にしたことがあるような?」
半ば上の空のまま、レトは指さした水飴を試しだす。
……上手く誤魔化せたかな?
それに水飴の味は心当たりがある様だった。
でも、即答はできなくて……だけど記憶に引っ掛かるものはある? どういうことだ?
やはり、この地の人々も水飴を発見していて……それでいてレア? ちょっと説明が――
などと考えてる暇じゃ無かった。
「あーっ! この壺、蜂蜜を入れといた奴じゃないですか!」
と悪事がバレたからだ。
……うん、これは絶体絶命というやつかもしれない。
この文明レベルでは珍しいと思うのだけど、僕は母上やレトに食べ物関係で怒られたことがなかった。
……むしろ、もっと食べる様に叱られているくらいだ。
なのでレトの反応は衝撃的というか、非常に驚かさせられた。
どちらかというと勝ち気で……個人的には乳母上より、義母ちゃんと呼ぶ方がしっくりする。それくらいに気丈な女性だ。
でも、勘違いをしてはいけない。
なぜなら乳母とか義母ちゃんという言葉の持つイメージ――ふくよかで人を和ませ、食いしん坊だけど料理の上手い……からは、かけ離れているからだ。
間違っても『オバさん』と呼ばれるような女性ではない。
そもそもサムとダイアナを産んだのは十五歳の時というから――
御年、未だ二十四歳! 贔屓目なしで若かった!
誰がなんといおうと、僕には若い娘さんとしか思えない!
が、そのレトは涙目で……ベソをかきかけている。
弱い女性ではない。
エステルを身籠っている最中に夫を亡くし、それでも残される子供の為にと、即座に就職――乳母は高級女官でもある――を決めた。
もちろん、コネや同情をフルに活用した結果とは思うけれど……もはや女傑の類だろう。
そんな鋼鉄の義母ちゃんが、涙目だ。
世話をしているバカ息子を叱るべきか、それとも珍しく見せた食い意地を誉め伸ばすべきか。
しかし、その対価に蜂蜜一壺はやり過ぎだった。
庶民よりは恵まれた生まれ――騎士の娘として生を受けた自分ですら看過できそうにない。
この食が細いバカ息子を育てる為になら、この程度の贅沢は許容するべき?
だが、それでは本物の放蕩息子となってしまう。
乳母として――そして仮親として認められない。たとえ恨まれようと、子には正しさを教える義務がある。
そんな怒り、不安、疑念、怯え……それらが綯交ぜになった顔をしていた。
……どうしよう?
軽くよろめいたレトを支えるサム義兄さんは――
「ほら、謝っちゃえよ! 僕も一緒に怒られてあげるから!」
とでも言わんばかりな表情だ。
ありがとう! 義兄さん! 実際、サム義兄さんも共犯者側だと思うけど、その心遣いは身に染みるよ!
しかし、その反対側で腕を組むダイ義姉さんは――
「ちょっと! 母さんを苛めたら許さないんだからね! ……よく判らないけど!」
と目が怖い。
……そりゃ、言ってることは正しい! 僕だってレト義母さんを困らせる奴がいたら、ぶっ飛ばす! 事情を斟酌する必要すら感じない。それが唯一の正義だ。
でも、今回は僕だけが悪者じゃないというか……義きょうだい全員で利益を分け合ったというか……少しだけ酷くないだろうか!?
どうやら味方は――
「怒られりゅ? 兄ちゃとステラ――怒られりゅの?」
と涙目で抱き着いてくるエステルだけらしい。
「大丈夫だよ」と頭を撫でて落ち着かせるけれど……この窮地を脱するべく、なにか知恵を絞らなきゃいけないみたいだ。
その問題なレトは……口を尖らせ拗ねていた。
さらには「今回ばかりは、お謝りになられないと許して差し上げません!」といった雰囲気で、こちらをチラチラと窺う。
正直、その様子は可愛らしい。
これで職務中には――対外的には、キリっとした態度を保っている。城中の女の子達が憧れる、まさに職業婦人そのものだ。
が、僕達きょうだいの前では気を抜いてしまうというか……本来の性格へ戻るというか……子供相手に拗ねたりも平気だったりする。
ただ、ほっこりした気分となるには、左の泣き黒子がよろしくない!
状況にそぐわないというか……無駄に艶っぽいというか……もしタイトルを付けるのであれば――
『未亡人義母レト二十四歳、嗜虐を誘う啼き黒子』
だろうか!?
なんて、おフランス! やはり、この地はフランスだった!?
……古式に則るのであれば『義妹・義姉・義母』か。どっちにせよ、おフランスだ!
そして溢れんばかりの母性だって問答無用にズルい!
僕の乳母を務めてくれたということは、まあ、それで僕の血肉は構成されている訳で……その点で説得力があるから登用もされる訳で……相手が乳母上殿であろうと、男たるもの視線は惹きつけられてしまう訳で……――
もうダイ義姉さんやエステルなどは、新ジャンルですらある!
ニョキニョキと手足ばかり細くて、女の子臭い義姉さんも――
どこもかしこもポヨポヨで、まだ幼児体系のエステルも――
素晴らしい未来を血統に保証されていた!
『勝利を約束されしペッタン』! これが新ジャンルでなくして、なにが新しいというのか!
……これはレトを筆頭とする我が三人の女神達が、偉大なる母性を顕現せしむるという意味だ。
もちろん、他意など存在しない。本当だ。どうか信じて欲しい。
とにかくファイトプランは一つしか残されていなかった。
つまり、『素直に謝って、それでいて許して貰う』だけが!
うおおっ! 燃えろ、ショタぢから! 震わせろ母性!
「ごめんよ、レト……僕、そんなに蜂蜜が高価だったなんて知らなくて……」
そして母上譲りの外見をフルに活用して上目遣い!
これに限る! この地で覚醒して以来、これ一本で窮地を潜り抜けてきたんだ!
なぜか義姉上が鼻を押さえているけど……どうして!?
そしてエステルは脹れている? なぜに!?
だが、緊迫したのも一瞬で――
「もーっ! 若様は困ったらそれなんですから! いいですか? レトだけなんですよ、こんな風に甘いのは?」
とレトは溜息を吐く。
……やったぜ! 無事に窮地は脱したみたいだ!
これで中身は大人だから……定番な尻叩きなどの躾は、存外にくるものがある。僕の必死さも、少しは理解して貰えるだろう。
「本当にごめん、レト。でも、そんなに高いとは――」
「下々の者は、それこそ婚姻の祝いでぐらいなんです! でも……まあ……若も悪気があった訳じゃないみたいですし、残った蜂蜜を返して頂ければ今回は――」
「あっ! 二壺あるんだから、一壺は僕に残してよ! 代わりに水飴の方をあげるから!」
レトが各々の手で『竜髭糖』の壺を引き寄せようとしたところへ、水飴の壺を差し出す。
確かに黙って蜂蜜を持ち出したのは悪いけれど……『龍髭糖』と水飴を一壺ずつ戻すなら、それなりに公正な取引だろう。
が、しかし――
レトは『龍髭糖』の壺を掴んだまま固まってしまう!
そして――
「ふた……壺? 蜂蜜は一壺だったのに……この妙な……そう……砂糖みたいな甘さの奴が……二壺? どうして?」
と自問自答を始めた!
……これは拙い。
ここまで高級品だとすると、一壺の蜂蜜が倍に増えたら……「不思議なこともあるものだ」で済みそうになかった。
かといって砂糖の類であると考えても、それはそれで一大事だろう。高級な蜂蜜より更に希少なのだから。
確か『異世チ珍』にも蜂蜜は高価とあったし、その理由も説明されていた気もする。
そう考えると増えたら拙い代物なのだろうけど……このレトの困惑っぷりから考えると、ほとんど超常現象も同然だ。
もう顔中が汗なレトが、恐る恐る問い質してくる。
「……若様? これは……その……か、神の国の……御知恵で?」
似たような質問は覚醒して以来、数え切れない。
しかし、何とも答えようがないので、ふにゃふにゃと誤魔化すしかなかった。
おそらく僕は『魂だけ神の国へ行っていた子供』と見做されている。それぐらいの推察は難しくとも何ともない。
だからといって――
「僕は神の国へ行っていたらしいけど、そこは……具体的にいうと、どんな場所なの?」
と尋ねるのは憚られた。
神の国へ行っていたはずの本人が、何も知らないなんて……それでは出来の悪い冗談にしかならないだろう。
結果、神の国の情報は伝聞を繋ぎ合わせる感じで――つまりは、まだ判っていない。というより本質的な意味では、実在してないように思えるほどだ。
「そ……それは……『龍髭糖』は……砂糖じゃなくて……砂糖か何かであって……」
「兄ちゃ……お砂糖を作るってゆってたよ?」
キョトンとした様子のエステルが首を傾げる。……可愛い。
とても愛らしいけれど、しかし! いまは黙っていて欲しかった! その証拠に――
「嗚呼っ! 御曹司が! 若様は妖怪『砂糖吐き』になってしまわれた!」
「それでなのね、母様! 前々からリュカは甘い言葉ばかりと私も――」
とダイアナとレトは母娘二人で嘆き始める。
……本気で妖怪とか信じてるの? それにダイ義姉さんの非難は、ちょっと見当外れだと思う。
もう冷静といえるのはサム義兄さん唯一人だったけど……その表情は凄く醒めていた。
「み、見捨てないで! 義兄さん!」とアイコンタクトを試みるも、「自分で何とかするように」と言外に返される。
こうなったらアドリブで――
「神の国では当たり前」とか「挨拶代わり」「心に棚を作れ!」「それはそれ、これはこれ」「触らなければ犯罪じゃないんです」「いいじゃない、にんげんだもの」「心の中の悪魔がやれと命令を」「萌えさせる方が悪い」「ロリは文化」「ひょっとしたら……舐めるだけならセーフなんじゃないか?」
などと捲し立て、相手を煙に巻くしかない!
重要なのは――
勢いだ!
しかし、突然に背後から抱きすくめられ、僕の覚悟は不発に終わった。
「この場所が御気に入りのようですね、吾子? 今日は良い子にしてましたか?」
聞き間違えるはずもない声、優しい力加減、愛用の香り――すぐに判る。
「母上!」
「はい、貴方の母上ですよ?」
などとお道化られるのは――
世界で一番美しい女性にして僕の母上、クラウディアその人だ!
そして騎士として本格的な修行の始まったサム義兄さんは、卒なく胸に手を当てる西洋風のお辞儀で母上を迎える。
……この世界でも男社会は上下関係に厳しいので、礼儀に無頓着だと困るのだ。
慌ててダイアナとエステルも、スカートを詰まんで身体を屈める挨拶――カーテシーかその祖先だろう――で続く。
やや娘達の所作に不満そうなレトは、お手本とばかりに堂に入っていた。
しかし、キョロキョロと周りを見渡され母上は――
「家族だけなのですから、堅苦しい挨拶は抜きにしましょう」
と困り顔だ。
それへ「異存はないよ」とばかりにレトが肩を竦めたので、非公式な家族の空間へと変った。
まあ、母上は城内で最高位の女性だし、礼を尽くされて当然いえる。
しかし、僕らは真の意味で家族なのだし、母上の要望も妥当だろう。
「私を除け者にして、皆で何を? 思うに……御馳走ですね?」
と仰るや、母上は水飴の入った壺へと手を伸ばす。
……細くて白い指だなぁ!
母上を見る度に、その肌の白さに驚かさせられる。
……「鏡を見ろ」といわれそうだけど、この世界の鏡は貴重品だ。僕の管理下にはない。
話を戻すと父上と母上、僕は、白人種という他なく、かなり珍しい部類だった。
もちろん他に白い肌な者もいる。が、極端に少ない。
ざっくりと四割ほどがレト達のような西洋人の肌色――濃い肌色だ。
そして三割が薄い褐色、二割が褐色。
残りが白い肌で、もはやマイノリティといっても差し支えはない。『生っ白い田舎者』呼ばわりが定番のようだし。
……事実として北方から移動してきたらしく、由緒も正しく蛮族なのだけど。
ただ、間違っても母上を田舎者呼ばわりする無礼者はいない。
生まれからにして名門クラウディウス家で……というより、北方人なのに苗字があるほど権勢のある一族の出身だ。
これがどれくらい凄いことか伝えるのであれば……「僕は領主の家系なのに苗字がない」といったら判って貰えるだろうか?
必要に迫られればリュカ・ドゥリトルと名乗るけれど、それは「ドゥリトル出身」程度の意味でしかない。
そんな名家出身の母上を賛美するのであれば……美しい、だろう。
嘘偽りなく、いままで僕が見たことのある女性の中で一番だ。もちろん、両方の世界を通じて。
もう『可愛い』や『萌える』なんてのを通り越して、人を平伏させる力――威厳にすら転化している。
べつの言い方をするのなら『御姫様』だろうか?
銀髪に緑の瞳、白い肌をしたプリンセス……それが母上の第一印象だ。
えっ? いくらなんでも人妻を褒め称えすぎ? 肉親だからって盛り過ぎてる?
いや、そんなことはない! こればっかりは客観視もできている。なぜなら――
まだ母上は、お若いからだ!
僕を産んでくれたのは、なんと十五歳の頃というから……御年、いまだに二十一歳!
むこうでなら、まだ大学生か?
人の妻という肩書をクローズアップしても、普通に問題なく若妻……いや、人によっては幼な妻とすら呼ぶだろう。
よって母上が若くて美しいというのは、べつに贔屓の引き倒しでもなんでもなかった。観測から導かれる真実に過ぎない。
「……おや? これは……飴細工ではありませんか。なんとも珍しい」
驚いたことに母上は、一口で水飴の素性を言い当てた。
「ああ、それだ! 駱駝の王様がくれた、アレ!」
「……駱駝の……王……様?」
記憶を呼び覚まされたのかレトも叫ぶのだけど……こんどは逆に母上が首を傾げてしまった。
「って……あんた……忘れちまったの、クラウディア!? 駱駝の王様! 私が言うのもなんだけど……あれだけ貢がせておいて!?」
そして驚きのあまり、レトは素になってるし。
二人が名前を呼び合うのは父上に母上、レトと亡くなった旦那さんが王都に居たころの習慣だという。
でも……駱駝の王様? 王都の頃? 貢がせる?
「駱駝は覚えておりますよ? あの面白い顔をした獣のことでございましょう? 臭いには困りましたが……なかなか愛嬌もありましたね」
そう答える母上は、形の良い顎へ指を当て首を傾げていらした。……これ、相当にうろ覚えっぽいぞ?
「む、惨い……駱駝の王様は……あれが原因で『砂漠の国』を追われたのに……『エクボで城一つ』の異名だって――」
……何があったんだろう。恐ろしいことにレトはドン引きだし。
しかし、貴重な情報を得られた。
『砂漠の国』とやらが何処かは判らないけれど、この世界でも水飴は発見済みだったらしい。
外国人が貴重品として携えるようなら……伝来も間近といったところか?
そもそも未開の地だと、パン作りですら絶望的だったりする。古代ローマなどは、エジプトから輸入していた時代があるくらいだし。
酒造り、パン作り、水飴……全て同じ根を持つ技術であっても、発見や伝来は文明差――タイムラグがあって当然ともいえる。
「こちらは……蜂蜜を使っているのですか? ……素晴らしいお味ですね。しかし、材料に蜂蜜では、そうそう口にできそうにも――」
「『龍髭糖』は――そいつは半分だけ蜂蜜で! あとは大麦だから!」
レトの視線を意識しつつ、被せるように説明しておく。……これで落ち着いてくれたら助かるんだけどな。
しかし、意外なことに母上とレトは、なにやら考え込む風となる。
「なるほど。駱駝の王様は教えてくれませんでしたけど……この水飴?というのは大麦で作れたんですね!」
「しかし、こちらは――『龍髭糖』?ですか?は、確かに美味しいですけれど……蜂蜜の半値もするのでは……」
と、なぜか『龍髭糖』は不評だ。
これでも中国では皇帝の大好物で、現代でも観光土産なほどなのに。
……いや、だからこそか。やはり高価すぎるようだし、『蜂蜜の謎』も解く必要があるようだ。
しかし、それへ思いを巡らす時間はなかった。
なぜなら母上が――
「そうそう! 私、つまみ食いをしに来たのではなかったのです!」
と思い出されたからだ。
必然的に僕達は「誰に用なんだろう?」と続く言葉を待つ。が、しかし――
なにも仰られずに母上は、そそくさとトイレへと向かわれた!
それでチャンスとばかりにダイ義姉さんの目が光る!
――だが、させない! 言わせるのもか!
「母上はっ! 『うんち』や『おしっこ』などっ! なされないっ!」
しかし、僕の真実の告発にレトとダイ義姉さんはドン引きで、判らなかったのかエステルはポカンと口を開けていた。
いやっ! ただ一人っ! 我が同胞にして宿命で結ばれた義兄弟! サム者だけは違った!
なぜなら、その眼差しには『凄みっ!』が宿っている!
「リュカ! もちろんだっ! もちろんだともっ! クラウディア様はっ! 『うんち』もっ! 『おしっこ』もっ! なされないっ!」
そうサム者の差し出す腕へ、自らの腕を重ねるっ!
嗚呼っ! 僕達のパルスが正されて!
「ねえ、ちょっと! これって差別じゃない!? クラウディア様なら良くて、どうしてアタシは駄目なのよ!」
なぜか不満げなダイ義姉さんが食って掛かってきた――というか、実力行使に出た。
ま、負けないぞ! 僕は自分の信仰を貫く! 暴力になんか負けない!
しかし、どうしてダイ義姉さんは手が出るんだ? もしかして僕は、一生ポカポカ叩かれる定めなのか? 姉弟ってそういうものなの!?
……加減してくれているのも判るから、まあ……アレだけど。
なぜか面白くなさそうなエステルをあやしながら、義姉の横暴という嵐が過ぎ去るのを待つ。
時折、勢い余って肋が顔に当たって痛い。
……将来的に義姉上は、ちゃんと母性を顕現できるのかな? 少し心配になってきた。
ダイ義姉さんもエステルも、レトに似て華のように美しい姉妹となるはずだ。
だが、もし義姉さんだけが母性を大きくできなかったら?
……義妹は豊満……豊満なのに……義姉は……それを拗らせて……コンプレックスに……――
………………アリか?
おお、かみょ!
僕は『つるつるぺったん』が『つるぺったん』となる目撃者として! この地へ!?
それとも最初の予想通りに……可能性の限界を追及する為に?
ハレルヤ! そして聖なるかな! もちろん僕は、どちらでも構いません!
などと現実逃避していたら、いつのまにやら義姉上の横暴は止んでいた。
なんだろうと見てみれば――
「ちょっ! 止めてったら! くすぐったいでしょ!」
といわれながらタールムが、なんども義姉上へ頭を押し付けていた。
それは、まるで――
「姐さん! ここは一つ、あっしに免じて! あいつも悪い奴じゃないんでさぁ」
とでも言ってるかのようだ。
飼ったことがあれば判るのだけれど……犬というのは泣いてる子供をあやしたり、喧嘩の仲裁を試みたりする。
でも、これじゃ護り犬というより、子守り犬だ。
「しかし、若様……あのトイレ?ですか? あれは中々よいものですね。……見てくれはいまいちですけど」
そして予想外なことに、レトからトイレ作りを称えられた。……ということはレトも愛用者の一人だったらしい。
「いや……ほら……あれは試作品というか? これでジュゼッペにも要領が伝わったというか……もう少し改良したのを作る予定なんだよ」
これは謙遜でもなんでもない。
ありあわせの材料で作ったので、一号作品は微妙な出来だ。「一応、基本設計通りに動くことは動く」程度でしかない。
……使うのは僕とジュゼッペだけだろうから、しばらく放置とも思ってたけど。
「でも遠いのよ! どうして、ここへ作ったの? 夜とか困るじゃない!」
やっとタールムを納得させられたのか、ダイ義姉さんも加わってきた。
……うん、もういいけどさ。おまる作りに夢中な変態扱いの濡れ衣は晴れたようだし。
「それじゃ主館の方へ新しいの作る?」
「ああ、そりゃが良いかもですね! でも、アンナ婆さんはこぼしてましたよ。梯子だと水を足しにくいって。……梯子じゃなきゃいけないんですか?」
もちろん、そんなことはない。
だが、それよりも知らない内にタンクへ給水していたのにビックリだ。ジュゼッペから説明されたのかな?
「それに材質も考え直すべきです。無垢のままでは、いずれ汚れが染込むことでしょう」
いつの間にか戻られた母上も注文を付け加えられた。
トイレなんだから撥水加工的な――なにか塗料でも使えということだろう。
さすがは家計を預かる主婦目線――城一つという単位であろうと、母上は主婦だ――とも思えるし、皆の順応性の高さには驚かさせられもする。
結局のところ僕の作ったトイレを現代人に説明するのであれば、やや大きめな仮設トイレだろう。
それ用の道具と知っていれば、なんとなく使い方も理解できるのかもしれない。
ジュゼッペの言によれば、すでに帝国ではトイレもあるようだし。
そして文明と知性は無関係という好例でもある。
確かに未開ではあっても、その住人が愚かという訳ではない。頭の回転が速い者であれば、僕の意図した以上を見て取るかもしれなかった。
……やはり現代知識を持ち込むのなら、慎重を期した方が良さそうだ。
「ステラは……よく判らないけど……兄ちゃのおまる好き! 兄ちゃのだと……ちーしてると見に来るオジさんに見つからないの!」
エステルには、おまるとトイレの区別ができなかったようだけど……その発言内容は衝撃的だ。
「ちーしてると見に来るオジさん」? ガチの変質者じゃないか!
慌ててサム義兄さんとアイコンタクトを交わす。当然に無言の応えが返された。
……発見次第に殺る。それは男の義務にして権利だろう。
しかし、母上やレト、ダイ義姉さんは「あー……そういうの居るわよねぇ」的な表情をしていた!
……もしかして……わりと普通なの!?
「よいですか、エステル? その者とは絶対に二人っきりになってはいけません。もし二人きりになった時は……躊躇わず大声を! 大声を出すのです」
「クラウディア様の言う通りにね、ステラ? とにかく誰か助けを呼びなさい。それで怒ったりは絶対にしないから」
「走って逃げてもいいのよ? そういう変態オジさんは、だいたい足が遅いから!」
と三人三様のアドバイスまで始まった。
……なるほど。
そういえば現代日本式な――完全にプライベート空間を確保するトイレは、世界標準でも珍しいのだった。
トイレ覗きというセクハラは、近代まで続いたというから……僕の試作品は、女性にとって大発明だったらしい。
などと独り納得していたら、いつのまにか沈黙が下りていた。
どうしたのだろうと顔をあげたら――
皆で不思議そうに涙壺を――実験器具を眺めている!
水飴は問題ない。
まだ伝来していなかったといっても、つまるところ存在はしていたのだから。
『龍髭糖』だって、突き詰めれば蜂蜜と混ぜただけの代物に過ぎなかった。
トイレは驚くかもしれないが、おまるの延長線上にあるというか――事実としておまるを流用すらしている。
多少の説明があれば、納得できなくもないだろう。
しかし――
いま目の前で繰り広げられている実験風景は、どうにも説明のしようがなかった!
……うん、拙い!
実験という概念や言葉すら知らない人たちに、この複雑怪奇な装置はどのように映るんだろう!?
「わ、若様? これらは……その……『神の国』の儀式か……お呪いで?」
そう質すレトは、視線を合わせてくれなかった!
嗚呼、言ってる本人も違うと! そうであって欲しいという願望か!?
もしかしたらレトは、なにやら『眷属的な存在』を呼び出す儀式と思ったのかもしれない。
……例えば旧くて支配者的で神懸かったナニカなどを!
「だ、大丈夫よ、リュカ! お、お義姉ちゃんは! お義姉ちゃんは、何があってもリュカの味方だから! た、たとえ……たとえリュカがオバケに――妖怪『蜂蜜味』になっても!」
ダイ義姉さんはダイ義姉さんで、どーしても僕を人外にしたいらしい。
そして怯えているくせに震えながら手を握ってくる。
……僕達きょうだいで一番に臆病なんだから、無理しなけゃいいのに。しょうがないので大丈夫だよと握り返す。
「これは涙壺ではありませぬか、吾子よ。これは高価なものですから、遊びに使ってはなりませぬ。もし割れでもしたら大変で――いえ、もちろん! 割れてしまったら、それはそれで……吾子が怪我さえしなければ」
母上は母上で、含みのある言い回しだし!
もしかしてフリですか!? この気に入らない涙壺を割ってしまえという!?
とにかく窮地だ。言葉に詰まってしまった。
嗚呼、すべてを密室で行うぐらいの慎重さが必要だったのに!
そして沈黙は深く、ただ鍋の沸騰する音だけが――
……うん? 鍋の沸騰する音?
竈に掛けた時はすぐに沸かなくて……いまごろボコボコと沸騰してきたぞ!
何! この焚火という不便なモノ!
だが、それがいい! それで都合が良かった!
「これは料理! 料理をしている最中だったんだよ! やっと鍋も沸いたみたいだね!」
「えっ? 兄ちゃ、それはお砂糖を作ってい――」
「うおおおおおおおおおお、おおおおお! 突然ですが、これは『料理の雄叫び』ですッ!」
エステルが明後日の方向へ話を転がす前にインターセプトをする!
そして皆がビックリしている間に涙壺の中身――もしかしたら還元麦芽糖となってるかもしれない水飴溶液を、沸騰している鍋へドーン!
……関西でいうところの『ひやしあめ』か? いや、温かいから『飴湯』かもしれない。
ついで閃きのプッシュに身を任せ、余ったレモンも絞る!
結果としてレモン飴湯? それともホット・レモネードか?
どちらにせよ、おそらく世界初だ! たぶん、ありえた歴史より数百年は早く!
そして適当な湯飲みに注ぎ、どんどん給仕する。
コツは勢いだ! 勢いに身を任せどうにかする! これぞ奥義!
「凄いぞ、リュカ! これ甘い! そして酸っぱい! あと温かい!」
……サム義兄さんのボキャブラリー不足は、折を見て改善を図ろう。きっと将来、困る時が来る。
「ふぉおおっ! 兄ちゃ! これ美味しい!」
「……うん、悪くないわね」
ダイアナとエステルの姉妹も、気に入ってくれたようだ。
『ひやしあめ』とか『飴湯』は、全世界的にあったそうだし……これはこれで怪我の功名だったかもしれない。
水飴や甘い飲み物程度であれば、それほど大きな変化ともならないはずだ。
「シトの実を、このように使うとは……。他の料理へ応用も?」
「……たまには先代様も、よき買い物をされていたようです」
と母上&義母ちゃんの評判も上々だし。
……なんとなく誤魔化せたかな?
内心、ホッと胸を撫で下ろしながら、自分でも味を見る。
うん、間違いない。『ひやしあめ』には馴染みがないけれど、ホット蜂蜜レモンと思えば納得できる。
なによりも久しぶりの甘い飲み物だ! それだけで感動してしまう!
ただ、予想より甘過ぎる気がした。
部分的に還元麦芽糖となっていて、少しだけ甘みも増したのかな?
……まあ、追試は別の機会か。
やはり秘密を守れる環境や機材が用意できてからだろう。
それより、いまは団欒を――家族との団欒を優先したい。
甘味に綻ぶ笑顔を見れば、この水飴作りは大成功だったと確信できる。それが全てじゃないだろうか?
……いつのまにやらタールムも分け前を強請っていて、レモンの味に悶絶しているのも含めて。
どこであろうと、なにがあろうと……家族を得て、笑顔に満たされる。
平凡すぎるようでも、きっと唯一に正しい幸福なのだから。