4.二人の距離
「突き業は、突く方向を保つことが非常に大事だと、それはお前にも分かっているだろう」
問われ、珪己はうなずき、考えつつも自分の意見を述べた。
「剣に勢いをつけるためには自分と目標の間を結ぶ線上を剣が走る必要があると思います」
「そうだな」
で? と、無言で促され、珪己はより一層思案しつつ答えていった。
「そういえば、私も突く寸前まで考えていました。どうやったら真っすぐ突けるだろうかって。剣がぶれないように気をつけなくちゃ……って」
「それはとても大事なことだ」
師に褒められ、珪己はようやく少し気を緩めることができた。
「ですが、これでも慎重に行動していたつもりだったんですよ? 突き業に対抗できる何かの業を見せてもらえることは分かっていましたし、何かあればすぐに別の業に移行できるように注意していたんです」
「確かにそんな感じの剣だったな」
「分かりましたか?」
「ああ。いまいちだったからな」
ずばり言われ、珪己は苦笑した。相変わらず遠慮のない人だと思いながら。
少し前まではそんなところが嫌で嫌で仕方がなかった。
だがもっと前は、一流の武官とはそんなものだろうと素直に従えていた。
今は――また少し違っている。
そこに仁威の誠実さが見える。だから全然不快ではない。それどころか正直に言ってもらえて心地よいくらいだ。思ったとおりに伝えても反発することなく受け止め反省し、次に繋げられる人間だと、そう認めてもらっているようで誇らしくもなる。
受け取る側の意識次第で正にも負にも受け止められることに、珪己は少しの驚きと新鮮さを感じつつ、いまだ距離の近い仁威をふと見上げていた。
顎のところに少し剃り残した髭が残っている。そのことにまず気づいた。だが開陽にいた頃は常にきれいに整えられていた。それが武官の花形の隊長たる仁威の義務だったからだ。隙のない雰囲気、身のこなしは、貴族のそれと見まごうほどで、着飾りおとなしくしていれば貴族と勘違いされてもおかしくはなかったし、事実そうだった。
だがこの放浪生活に入ってから、仁威は自分の身なりを一切気にしなくなった。衣服だけではなく髪や肌も常に薄汚れているようになった。顔つきも、苦労している分、鋭利な気配が色濃く見えるようになった。少しくずれた雰囲気はただの庶民にも見えないが、もはやどうひっくり返っても貴族の一員には見えない……。
珪己の物思う視線に気づき、仁威はさらに剣技について教えようと開きかけた口をつぐんだ。そっと見下ろすと、珪己の瞳の奥には深い森のような迷いと戸惑いが見えた。
「なぜ今更そのような目で俺のことを見るんだ?」
それに珪己がはっとした顔になった。
一歩引こうとした珪己に、仁威はその小さな肩に手を置くことで制した。
二人の視線がかち合った。
が、数拍おいて、珪己が折れた。
「……すみません」
「謝る必要はない。それは『前』にも言っただろう?」
あの真円の月が輝く夜に、そう仁威は明言している。だがいまだこうして項垂れてしまう珪己を前にしたら仁威は繰り返さざるを得なかった。
「俺の生き方は俺が決める。他人に責任をとってもらおうなどと思ったことはない。だからお前が謝る必要はないし憐れまれるような覚えもない」
その言い方は珪己の心を少し傷つけた。
本人にその意図がないことは十二分に分かっている。言葉通り、自責一つで生きていたいと仁威は願っていて、しかしそれ以上に守護対象である珪己のことを案じている、ただそれだけなのだ。
だが分かっていても珪己は苦しみを感じた。幸福とは他人が決めるものではないというけれど、それでも、第三者が見たら今の仁威はやはり『不幸になった』と判定されるに決まっているからだ。たとえばそれは外見一つとっても分かる。
だが謝罪の言葉を幾度も言うべきではないことも分かっている。
言えば言うほど、仁威は眉をひそめ、それを見た珪己も辛くなるだけだからだ。
珪己は口をつぐみ、目を伏せた。他にどうすればいいか分からなかったからだ。何も言わずこの場を去ることができればどんなに楽か。
(そして明日には何もなかったようにふるまえればいいのに……)
二人きりの道場、静寂の中には虫の音だけが聴こえる。
仁威も何も言わない。動かない。
だがその視線が自分に注がれていることは、目を伏せたままの珪己にもはっきりと感じられた。片方の肩にはいまだ仁威の手が添えられている。大きくて堅い手の平の感触が夏物の薄い衣ごしに感じられる。
男の手だ。
大人の、武芸者の手だ。
とはいえ師匠の鄭古亥とも、幼馴染の浩托とも違う。手のひらから伝わる熱は昼間の日差しとそん色ないほど熱い。古亥ならば春の陽だまりのような柔らかな温もりを発するし、浩托ならば秋の晴れ間のような爽やかな熱を放つだろう。だが今こうして肩に置かれている手は違う。
珪己が別の方向に思案の枝を広げていきつつあることを、仁威はなんとなく察していた。だが何について考えをめぐらしているのか、それについては掴めないでいた。
いや、実はあるにはある。
だがそれだと決めつけることはできないでいた。
それは今は考えたくない類のことだった。
そこにはきっと喜びが満ちている。だがそれは束の間のことでしかなく、逆に悩みの方は無限大に広がることで……。
今はただ、心落ち着く日々を過ごしたい。
それが仁威のはかない望みだった。
朝も昼も夜も、笑みを浮かべていられる今がどれほど貴重であるか、先の未来を予測しているからこそ――分かるのだ。
あの月食の起こった夜、仁威は珪己と心を深く通わせることに成功した。
しかし、だからといって現実を楽観視しているわけではない。
珪己の肩から、仁威はそっと手を離した。
「仁威、さん?」
顔を上げた珪己の瞳が、少しの怯えに揺らめいた。
触れることで怯えたのではない、離れたことで怯えたのだ。
その瞳によって見つめられた瞬間、納得し蓋をしていたはずの欲情が、仁威の内部で首をもたげた。真の闇、あの月が一瞬空から消えた夜のような暗闇の中、月の代わりに太陽がその姿を現したかのように。
それは仁威にとっては現れてはならないものだった。昼ならばいい。または正しい世界で生きていられる者にとってはいい。だが今は夜だ。そして仁威には日の下で堂々と姿を晒すことのできない人間なのだという自覚があった。
そんな仁威にとって『それ』は脅威でしかなかった。正常な人間にとっては当然の権利、当然の欲でも、仁威にとっては恐怖と危険を誘う禁断の熱なのだ――。
じりり、と、欲の炎が、仁威の生煮えのような心の片隅を焦がした。
リーン、リーンと、屋外では馬鹿みたいに虫が騒いでいる。
仁威の鼓動も痛いくらいに跳ね出している。
今、仁威と珪己は、視線で、頬の少しの動きで、小さく開いた唇で、様々な想いを有言に語っていた。
珪己は仁威が離れたことを寂しく思っている。
仁威は珪己に触れることをまたもや渇望している。
だが珪己は仁威に何を言えばいいか分からなくなっている。
そして仁威も珪己に何を伝えていいものか分からなくなっている。
(あの晩のように感情をぶつけ合わなければ素直になれないのかな……)
珪己は自分のふがいなさにそっとため息をついた。
(俺はまた欲に負けるのか?)
再度道を見誤りかけている不安から仁威は目をさまよわせた。
そして二人はお互いの動作に気づき――。
珪己は今度こそ本当に怯えから、仁威は己に対する羞恥から、それぞれが一歩退いていた。そして二人はまたお互いのその行動に心を痛め、そろって眉をひそめた。
やがて仁威が首を振り、黙って道場から去っていった。
その後ろ姿を見送る珪己の頬に、涙がつうっと伝った。
だが珪己にはこの涙の意味が分からなかった。
(……ちょっと拒否されたくらいで傷つくなんて子供みたい)
そんな自分が悔しくて、それであふれた涙なのだろうか。
それとも――。
だがそれ以上は考える気にはなれず、珪己は手の甲で乱暴に涙をぬぐった。
そして考える間もなく木刀を振るっていた。
「やあっ!」
縦に大きく振るった刃は重い音をたてて空を斬った。
「やあっ! やあっ!」
何度も何度も木刀をふるい――そうすることで珪己は己の内の正体不明の靄を切り捨てようとした。
その晩、珪己は夜遅くまで木刀をふるった。
次話からは第三章です。