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3.真夜中の指南

 もの言いたげな珪己の目線の意味を一つ理解し、仁威が言った。


「試してみるか?」

「え?」

「知りたいんだろう? その業のことを」

「いいんですか?」

「いいさ。さ、道場へ行くぞ」


 さっと立ち上がり、仁威はすたすたと歩きだした。その後ろを珪己はあわててついていく。その表情は困惑気味であったが、次第に晴れやかなものへと変わっていった。背後の少女の気配から感情の変化を感じ取り、前を向いて歩く仁威の顔にも小さな笑みが浮かんだ。


 すでに薄暗くなり始めていたため、二人はまず台所で火の種を拾い、それから道場へと入った。案の定、無人の道場は半分も見えないほど暗くなっていた。小さな窓の向こうに、橙と薄紫が入り混じったような、夕暮れ時特有の不思議な色の空が見える。昼間あれほど燃えていた灼熱の太陽は、すべてが溶けて地の底へと沈んでいる。


 リーン、リーン、と虫の音が聴こえる。


 もうそろそろ秋になるのだ、と、なぜかそのことに珪己の意識は動いた。


 この時間でもまだ動けば汗ばむほどに暑い。感覚的には夏は確かに継続している。だが季節は確かに動いている。次に気づいた時には涼しくなっていて、そのまた次に気づいた時には秋になっているのだろう。そうやって時は流れ、季節は過ぎていくのだろう……。


「どうした?」


 仁威に尋ねられ、珪己は説明し難い感傷を振り切った。


「なんでもないです。木刀取ってきますね」


 壁際に掛けられている木刀を二本取り、珪己はそれを仁威に渡した。


 木刀を握ると、仁威の放つ雰囲気がじわりと変化した。まろやかな空気から尖りのような特性が見え始める。それは二人が心を通わせるに至るまでに常に仁威が醸し出していた気と同質のものだった。闘うことを意識した、それゆえのものだ。だが仁威はまだ木刀を手にしただけで構えもとっていない。ただ片手に木刀を下げ持っているだけだ。


 少し緊張を感じながら、珪己は木刀を構えた。開陽では、仁威は珪己に稽古をつける際には気を放つことをしなかった。それがこの街にやって来てからは変わった。初めて出会った日のように気を完全に解き放つことはしないが、珪己が怯えによって動けなくなるぎりぎりを見極めたような気の放ち方をしてくるのだ。


 少し油断すると開陽の街を出たあの日にまで意識が立ち戻ってしまいそうになる。鄭古亥の家で芯国人を刺したあの日に……。心が惑いそうになる直前で、珪己は一度唾を飲み込んだ。そして柄を持つ手に力を籠めた。


 今自分にできることは限られている。

 そのことを珪己はよく知っていた。


 それは後悔することでも泣くことでもない。

 剣を置くことでも怯えて部屋にこもることでもない。


 強くなることだ。


 誰にも迷惑をかけることのないように、護りたいものを護れるように。

 それは八年前から変わっていない珪己のたった一つの志であり信念だった。


 仁威は構えをとることなく「突いてみろ」とただそれだけを言った。


 珪己は押さえていた緊張が再び湧き上がってくるのを感じた。突き業は一歩間違えると相手に重傷を負わせてしまう。だから珪己は、開陽にいた頃も、ここ零央でも、その業を試したことはほとんどない。なのでためらった。


 無言で仁威を見ると、仁威は常の無表情な面持ちでただ視線を合わせてきた。しかしその目には落ち着きと貫禄が見えた。大丈夫だと、その目が確かに語っている。


 珪己の腹が据わった。


 相手は仁威なのだから問題など起こるわけがないのだ。それに以前から稽古中に晃飛の見せる突き業には感嘆していて、自分でもいつか試してみたいと日頃から思っていた。


 そう、こうやって武芸を楽しいと思える自分を珪己は絶対に捨てたくないのだ。一度捨ててしまえばもう二度と剣を持てなくなるだろうし、そうなったら一生弱いままの自分でいるしかなくなる。


 気づけば動いていた。


「てやあっ……!」


 一切の遠慮を捨てて。


 いったん木刀を腰の付近まで引いて、それから腰のひねりを使って一気に突く。理屈は当の昔に理解している。切っ先が目指すのは仁威の腹、丹田のあたりだ。


 突きの弱点も以前仁威に教えてもらっている。まず一つ目、それは突く寸前に剣を引くことで間合いが開いてしまうことだ。二つ目は、突いている間、順応性が低下してしまうということだ。他の動作に切り替えることができなくなるから防御に弱くなる。攻撃力を増すために防御力を落とすことから、突き業とはまさにもろ刃の剣なのだった。


 では最初からこれらのことを前提として業を仕掛けたらどうなるだろうか?

 それが今珪己が試していることに繋がる。


 珪己は向かい合う仁威の動きを注視しながら突いている。

 目で、全身で仁威の動きを観察している。


(これなら反撃されても対応できるかもしれない……!)


 ようやく、仁威が腹の下のほうで木刀を両手で握った。


(……まだ大丈夫!)


 仁威が何かするよりも、自分がその腹を突いてしまうほうが――絶対に速い。


 珪己はより一層剣の速度を増した。

 もうここまで来れば、本気で突くだけだ。

 自分を、自分の剣技を信じるしかない――。


 その時。


 仁威の木刀の切っ先が少しだけ上がると、珪己に向かってなぜかくるりと円を描いた。


(え……?)


 珪己の足が、手が、剣が止まりかけた。

 だがすべてのものが慣性にしたがってそのまま動き続けた。


 回転する木刀の切っ先が触れた途端――まっすぐに突き進んでいた珪己の木刀が進行方向を変えた。まるで竜巻にはじかれたかのように。


 わずかにだが、切っ先の進む方向が変わり――そのわずかなずれによって、珪己の木刀は仁威の脇腹の隙間へと吸い込まれていった。


 予想外の事態と、木刀のとまらぬ勢い、吸引力につられて、珪己は操られるかのように一歩前に出ていた。もう一歩出そうになったところをぐっとこらえて踏ん張ると、首にこつんと何かが当たった感触がした。


 振り向くと、それは仁威の打った手刀だった。


 いつの間にか珪己は仁威に背後を取られていた。

 そして仁威に至近距離で見下ろされていた。


 珪己が握る木刀の持ち手部分は仁威の腰の手前まで近づいている。


 二人の間合いは異常に縮まっていた。


「どのような相手と闘おうとも基本と冷静さを忘れるな」

「……はい」


 指摘はそのとおりで、珪己はぐっと唇を噛んだ。


 闘う相手が自分の想定する業だけを仕掛けてくるとは限らない。それは仁威が言っていたとおりだ。そして武芸者たるもの、間合いを制御することはもっとも重要かつ基本的なことだ。長剣、短剣、懐剣はもとより、槍もそうだし、素手で闘う場合もあるが、それぞれの獲物に合わせてどう間合いを取るべきか瞬時に測ること、それは武芸者に必須の能力なのである。もしも測り間違えれば、その身に業を受け敗北することになるからだ。


「突き業には多くの長所がある」


 仁威がいつものごとく丁寧に説明を始めた。


「己が間合いを素早く縮め、最速で敵をほふれること、これは突き業の最大の利点だろうな。攻撃は最大の防御というのはまさにこの業のためにある言葉だ。闇雲に剣を振りかぶって無防備に胴を敵にさらけ出すくらいであれば、突きまくる方がよほどいい。武芸経験の浅い者にもこの業の習得はそれほど難しくない。度胸さえあれば敵を倒せるからな」


 だが、と仁威は続けた。


「攻撃力を増すためにはどうしても剣に速度をのせなくてはいけない。しかしそれこそが突きの最大の弱点なんだ。速度ののった物体というものは、別の方向からの力を受けると、意外なほど容易に進行方向を変えてしまう特性があってな」


 今仁威が語ったことは、時代が変われば学術的に理解されている初歩的な知識である。だが当然、この時代の珪己は知らない。いや、別に仁威も原理を理解しているわけではない。だが長年、毎日欠かさず剣を握り、闘い方を模索していれば『分かって』しまうのだ。

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