2.不思議な男、不思議な業
「なあ。梁先生」
「なんだよ」
晃飛は自分に声をかけてきた若い武官に、面倒くさそうに顔を向けた。
若いといっても、その武官は晃飛とおそらく同い年、少なくとも二歳前後しか年齢は違わないだろう。だがこの年齢で武官になり、しかも武芸経験もない理由を晃飛は知っている。本人が自ら語ったのだ。仕事をしないで遊んでばかりいたらこの年になってしまって、親に怒られて仕方なく武官になったのだ、と。こういう新人はたまにいる。
だがこの若者、稽古にはいつも身が入っていないし、飽きっぽいのか、前回教えたこともすぐに忘れる有様だった。実家は零央でも裕福なほうらしく、五番隊という、無難で身の危険もなさそうな隊に所属している。とはいっても一向に武芸の腕が上達しないので、常に新人のための稽古に参加させられている有様だ。
この男、名を応双然という。
今は休憩時間で、銘々が自分の好きなことをしていた。体を休める者、水を飲みに行く者、仲間と談笑する者、様々だ。講師である晃飛は一人離れたところに腰を下ろしていたのだが。
双然は晃飛の冷たい視線をものともせず、気安く話を続けてきた。
「梁先生はそんなに強いのか?」
「はあ?」
無邪気な顔で問われ、晃飛は思わず目を丸くした。
晃飛にも十代を思わせる無邪気さはある。だが双然のそれはまるで幼児のようだった。頭が足りないのか、だからこいつはいつまでも武芸が身につかないのか、と晃飛が頭を巡らせかけたところで、双然がさらに言った。
「梁先生は毛隊長を倒したんだろ?」
「……よく知ってるな、お前」
その公然の秘密をこうして堂々と尋ねられたのは初めてのことだった。
褒められたと勘違いしたのか、双然が満面の笑みを浮かべた。
「先生は知らないの? どこもその噂でもちきりだよ。先生が毛隊長を一突きで気絶させたってね」
「なんだよお前。俺の突きを習いたいのか。だが百年早いぞ」
「やだなあ。違うよ。僕が言いたいのはそうじゃなくって、先生はそんなに強いのかってことだよ」
この会話を続けることが馬鹿らしくなってきて、晃飛は横に置いていた木刀を持って立ち上がった。
「そんなに知りたいなら立ち会ってみろよ」
すぐに怯えて逃げ出すかと思ったら、意外にも双然は喜んだ。
「えっ。いいの? うわあ、うれしいな。よろしくお願いします!」
なんだかつかめない奴だな、と思いつつも、いったん言い出したことであるから晃飛も引くに引けない。こうなったら寸止めしてやるか、面倒だな、と思いつつ、晃飛は浮かれた双然と共に庭の中央へと出た。
手加減なしで打ち合う場合に比べて、指導のための業は気を使って面倒なのだ。それにあまり面白くない。本当は仁威が自ら体現するように、指導することで自らの業を磨くべきなのだろうが……まだ晃飛はそこまでの悟りの境地には至っていなかった。それに今は仁威のような手練れと毎日手合わせできているから、新人武官の相手をすることは単なる義務、禄を稼ぐための仕事としか思えないのだ。
ほかの稽古者、新人たちは、まだ庭の片隅で束の間の自由時間を堪能しており、この二人の行動に誰一人として何の関心も払わなかった。それもそうだ、気の抜けた様子でぶらぶらと庭に出た晃飛、木刀を持ってはいるもののにこにことほほ笑んでいる双然、二人のどこにこれから立ち会う気概が見えようか。
そして――この二人が木刀を交えた結果は予想外のものとなった。
*
釈然としない顔で一人早めの夕食をつつく晃飛に、お茶だけで付き合っていた珪己が尋ねた。
「どうしたんですか?」
「んー。ちょっとね」
箸に掴んだものを口に入れ、咀嚼しながら、晃飛はつまむもののなくなった箸の先を目の前でくるくると動かしている。実はさっきから晃飛は同じ動作を飽きることなく繰り返していた。物思う表情は珍しい。
「あ、もしかして」
珪己は一つ気がついた。
「これから仕事に行くのが嫌なんですね」
今夜も晃飛は環屋に用心棒をしに行くことになっている。
「それはもちろん嫌だよ」
そう言う晃飛の目線はずっと箸の先端を見つめている。そんなことよりももっと気になることがあるのだと言わんばかりに。そして二本の箸の先は今もくるくると回っている。
あまりにずっとそればかりを続けるから、珪己はとうとう核心に触れた。
「それ何やってるんですか?」
だが返ってきた言葉はすっきりとしないものだった。
「分からない」
「分からない?」
自分でやっていることを分からないと言う晃飛の方こそ……分からない。
「もしかして疲れすぎているんじゃないですか? 今日、お仕事休ませてもらった方がよくないですか?」
切実に訴える言葉は、ようやく晃飛に届いた。
箸の動きを止め、晃飛は珪己に少し笑ってみせた。
「なんだよ。あれだけ俺のこと責めてたくせに。急に心配したふりなんかして」
「ふりって……」
呆れたように、少し悲しそうに珪己がため息をついた。
「大丈夫だって。今夜が最後だし体力には自信あるから」
正直、睡眠不足と疲労で晃飛の体力は限界にきている。今日は屯所での稽古もあったから余計にだ。針のむしろのような母親の店で一晩働かされることも精神的には相当厳しい。だがそんなことをこの妹に言っても仕方のないことで、今、晃飛が気になっているのはもっと別のことだった。
「昼間、不思議な業を使う奴がいてさ」
「不思議な業?」
一瞬きょとんとした顔をした珪己だったが、すぐに好奇心に満ちた顔になった。向かい合う机に身を乗り出してくる。
「どんな業ですか?」
珪己のその反応は晃飛の中にある靄のようなものを打ち消す効果があった。こういうときの珪己からは純真さを強く感じる。かりそめの妹に内心感謝しつつ、少し苦笑しながら晃飛は説明した。
「剣先がくるくると回る業」
「回る? なぜですか?」
丸く見開いた目が珪己の驚きの大きさを正確に表しているかのようだ。だがこの反応は大げさなものではなかった。実際、剣技といえば、叩くように斬るか、突くか、この二択になるのが通常だからだ。
この時代、斬れ味のいい剣が元々少ない。なぜなら剣をもって戦う必要がある者は武官だけで、しかもその武官ですら、実際の戦闘に参加する機会があまりないからだ。そのため、研ぎ手が一時期に比べて格段に減ってしまった。研ぐ者がいない、だから叩くか突くしかなくなる……というわけだ。
しかし例えよく研いだ剣を持っていたとしても、相手と剣を交わし続ければ、打ち合った部分は削れてしまう。相手の体を数回斬れば、血や脂が付着して斬れ味が落ちてしまう。戦闘中、その都度剣を取り換える暇などあるわけがないから、敵に対して『斬る業』を使う機会はほとんどないに等しい。三代皇帝の御代であれば、禁軍のような、突発的な事態において即座に敵を排したいような状況で使われる程度だ。
だから当然、庶民がお稽古ごととして習う剣技は『叩く』『突く』に特化するものとなっていた。
特例は開陽にあった鄭古亥の道場だ。古亥は元近衛軍将軍であったから生徒に『斬る』という行為を丁寧に教えていた。腕が立つ者や敏捷な者であれば、相手からより遠い間合いでも、切先だけで相手の動きを制することができるので、身に着けても無駄にはならないからである。また、このような剣技は庶民には物珍しく、生徒を呼び込む効果があったのも理由だったりする。
以上のとおりで、古亥は剣技全般を生徒にきっちりと教えていた。だから古亥の弟子である珪己は晃飛の話に驚いたのだ。剣先を回すという行為は『叩く』『突く』、そして『斬る』のどれにも当てはまらないから。
ただ、晃飛には珪己が疑問に思うことをうまく説明することができなかった。
その時の晃飛の説明を、後から、晃飛がいなくなった場で珪己から聞いた仁威は「ほお」と一言つぶやいた。無言のまま、やや思案顔で茶に口をつけた仁威に、珪己は話の続きを辛抱強く待った。視線を受けていることに気づいているはずだが、仁威はなかなか思案することをやめなかった。そしてまた一言つぶやいた。「そうか」と。だがそれだけだった。
こうして仁威と会話を重ねるようになって珪己が知り得たこと、それは仁威が非常に物思う人間だということだ。黙っているのも傍にいる自分を放っておくのも、何か深く考えているからで、それは表情をよくよく読めば分かる。頭が足りなくて時間がかかるというよりは、あれもこれもと思索の根を広げていることが原因なのだろうと、そう珪己は思っている。
だが十分な沈黙の後、珪己はとうとう耐えきれずに尋ねていた。
「何が『そうか』なんですか?」
「は?」
顔を向けてきた仁威は自分が独り言を言ったことに気づいていなかったようだ。それを自覚するまでにまた時間がかかる有様だった。
「ああ、すまん。晃飛が見たのはな、南域のほうで通じる業の一つだ」
「南域?」
「そうだ。西の方で生まれ育った晃飛が知らないのも仕方ない。いや、この街にその業を使う人間がいるということの方が珍しいな」
「仁威さんは見たことがあるんですか?」
それに仁威が小さく笑った。
「ああ。それが俺の仕事だったからな」
まだ湖国という巨大な国が興ってから百年もたっていないが、それ以前の三百年もの長い間、この国には十の国があった。それぞれに多種多様な文化が根付いていた。だから武芸の種類もこの地には星の数ほどにあった。
しかし湖国が興った後、初代皇帝の施策により武芸の価値は下がってしまった。だがそれら民族の文化まで抹消するようなことまではされなかった。しかし武芸とは文化の一つともいえる。それゆえ、相当数の武芸の業が湖国創生によって消滅したものの、淘汰または統一されるまでに至らなかった、というわけだ。しかしこの国の主な移動手段はいまだ船と馬であり、活版による印刷が広まり始めたのも三十年ほど前のことだ。だから、地方独特の武芸の業は今も確かに息づいているものの、それらすべてが公の場で理解されているとは限らないのである。
ただ、近衛軍第一隊としては、この広い国のどこにおいても皇帝を守護できなくてはならず、それゆえ、様々な業を日々調査、検証することは任を全うするための重要な手段であった。であれば、隊長であった仁威はそれらを理解する希少な武人の一人であっても当然なのである。