4.眠りへの誘い
一刻ほど仮眠をとった後、晃飛は平常どおり弟子たちに稽古をつけた。
稽古中、窓を開け放した道場には晩夏特有の涼風が時折流れ込んできた。山に住まう神がため息の断片を漏らし始めているのだ。もう少しで夏は終わり秋となる。
だが暑いものは暑い。休憩中も、手うちわで軽くあおいだ程度の風量では全然足りず、晃飛の残るわずかな体力は刻々と削り取られていった。やはり夏は夏なのだ。そこに普段からやる気のない弟子たちがいつにも増してのらりくらりと木刀を振るものだから、彼らを指導する晃飛の表情は終始冴えなかった。
「こんな生活が明日も明後日も続くとか、鬼だろ……」
時折襲い掛かってくる睡魔と闘いながら、晃飛は額に汗しつつ律儀に労働にいそしんだのである。
「ありがとうございましたあー」
稽古を終え、退去する挨拶すらも気の抜けた弟子を形ばかりで見送ると、晃飛はようやく全身で深いため息をつくことができた。虚脱感が半端ない。限界に挑戦するとはこういうことを指して言うのだろう。二十代前半、自分ではまだまだ若いと思っていたが、身体的には衰えが始まっているのかもしれない。
「今日は屯所に行く日じゃなくてよかった……。もう寝る……」
食欲すら掻き消えるほどの疲労を背負い、晃飛はおぼつかない足取りで住居の方へと向かった。廊下沿いに進めば自宅に戻れるこの屋敷の構造が今日ほどありがたいと思えたことはない。早く休みたい。十分な睡眠をとって体力を回復しなくては、体よりも先に頭がおかしくなりそうだ。
ああでも、その前に庭で水浴びをして汗を落とすか、と足を止めかけた晃飛の耳に、この家に似つかわしくない雅な音がかすかに聴こえた。それに晃飛はピンときた。心当たりがあったからだ。その音を頼りに歩いていくと、たどり着いた先はやはり庭に面する縁側だった。
縁側では仁威が気持ちよさそうに寝転んでいた。足を組み、両腕を枕にし、目をつむり、吹き抜ける風の奏でるささやかな余韻を味わっていた。そして仁威のすぐそばには琵琶を奏でる珪己がいた。
じーじーと蝉の大群が好き勝手に鳴いて騒がしい中、聴こえるかどうかといったくらいで琵琶の音がつま弾かれている。指先だけで奏でられる音は、ぽろぽろと朝露の雫が零れ落ちるような音だ。
「あ、晃兄」
気配に気づき珪己が顔をあげた。だが指の動きは続いている。手元を見ることなく軽やかに動かす指は、素人である晃飛の目にも熟練者のものに見えた。単調な音の羅列は子供の手習いのようであるが、素人ではこうも心地よい音を奏でることはできないだろう。実際、この音色につられて仁威はまどろんでしまったようであった。
「仁兄、全然起きないね。このくそ暑いのによく寝ていられるなあ」
仁威の胸部は正確な間を保ちながら上下しており、やや開かれた口元からも眠っているのは明らかだった。仁威のすぐそばに、ぽたん、ぽたんと、晃飛の顎から滴り落ちた汗が散った。それでも仁威は覚醒する兆しを見せなかった。
「ふふ、久しぶりにゆっくりできて安心しているんでしょうか」
笑みを浮かべた珪己は仁威の深層までは分かっていないようだった。
だが実際、仁威の寝顔には何の警戒心も見てとれなかった。真実、心を落ち着け安眠に浸っているのだと分かる。そういう仁威を見るのは晃飛も随分と久しぶりだった。少なくとも、仁威の弟・透威が大怪我を負ってからというもの見た記憶がない。常であれば他人がそばにいて深く眠ることなどしないし、少なくとも晃飛が近づいた時点で体を起こしているだろう。汗の雫に反応して目を開けるくらいのことをするだろう。だが今はなんと健やかに眠っているのだろう……。
晃飛は二人に色々と問いただしたい思いがあった。朝も、そして今もだ。だが仁威の心地よさげな顔を見れば、今はそれをするには無粋だと分かる。
晃飛は腕で汗を乱暴に拭うと、仁威と挟むように珪己の隣に座った。
「あちー」
胸元の衣を何度か引っ張り風を体に取り込んでいる間も、琵琶の音は途切れることはなかった。誰も何も語らない中、蝉の鳴き声と、琵琶のささやきと、それだけが夏の庭を支配しているかのようであった。
弦の鳴る音が夏特有の厳しい空気をやわらげていく。
この街の熱を鎮めることができるのは神だけだと零央の人々は信じている。夏を終焉させる権利は神のみが有するものだ、と。だが今、琵琶の音は神の力に等しい効果を発している。先ほどまでいた道場に流れ込んできた微風など比べ物にならないくらいに。それは普段音楽というものに縁のない晃飛にとって不思議な作用に思えた。
傷や熱によく効く薬を晃飛はいくつか知っている。だが珪己の奏でる音は、人を内側から癒していくかのようだった。それは目に見えないし味もしない、ただの音の連なりだというのに。きっと晃飛が適当に奏でても何も起こらないのだろう。だが珪己が奏でるとそれは――。
眠る仁威の横顔が、遠い故郷にいた頃の少年のようにあどけなく見えた。
「その曲、なんかいいね」
「ありがとうございます」
珪己がほほ笑んだ。
その表情は、晃飛が見知った少女のものとは違っていた。『何もできない馬鹿で可愛い妹』とは――違う。
「やっぱりお嬢様は楽器ができて当然なんだ?」
わざとおどけたように言ってみた。
「どうなんでしょうね」
やはり少女の笑顔は変わらなかった。
「新しい弦、買ってよかったね」
「はい」
昨日、晃飛は弦をねだる珪己を連れて初めて二人で外に出た。目的の店に寄って真っすぐ帰宅はしたが、それが仁威の怒りを買うはめになったのだ。
なのだが、その怒りの源であったはずの弦は、今はこうしてその人物をまどろませている。あれほどの激情を内に秘めていた男を癒すことができている。その効果もまた晃飛には神秘の類に感じられた。
(普段そういったことを信じない俺が……なんでだろう?)
まるで自分が超常現象に頼らねば生きていけない腰抜けのように思え、その考えを晃飛は急いで振り払った。すると庭を真一文字に流れる小川、緩やかな水の流れに反射する陽光が目にちらついた。光の柔らかさすら、琵琶の音によって生み出されたものに思え、晃飛はそっと目を逸らした。
「そういえば、仁兄はこのことについてなんて言ってた?」
「二度と勝手に外出するなと言われました」
そう言った珪己の表情は、しかし晴れ晴れとしていた。
その横顔をしばらくじっと見ていた晃飛だったが、やがて仁威にならって背中から縁側に寝転んだ。見上げた空は今日も高く青かった。いつもどおりの夏、いつもどおりの世界。なのに何もかもが――。
「……なんか俺、君たちのことがよく分からないや」
正確には自分も含めてだ。
だがそれは言えなかった。
「そうですか?」
答える珪己の声の高さは、もう昨日までの少女に戻っている。
「うん。なんでだろうね……」
晃飛に急に襲い掛かった疎外感、それは随分前から晃飛の内に漂っていた。
ここは自分の家で、住み慣れた街、住み慣れた国のはずだ。なのにまるで自分一人が異国人になってしまったかのように感じてしまう。仁威と珪己との間には、上官の娘と部下といった関係以上の、何かしら特別な絆があるように思える。それは仁威の表ざたにしない懸想のせいかと思っていた。だがそれだけではないように感じた。特に今日はそれが鮮明に映って見える。
独りで生きられるようになりたい、そう願ってがむしゃらに働き、晃飛は若くしてこの家、この道場を手に入れた。平穏な日々も手に入れた。だったら昔慕っていた男が何をしようがどうでもいいはずだった。だが再会し、今も自分が仁威を求めていることを晃飛は自覚していた。
独りで生きたいと願うことと、誰かを求めてしまうこの熱情と。
この二つの矛盾はいったい何なのだろうか。
理想と現実の違いなのか。
理性と本能の差異なのか。
だとしたら相反する二つはどのようにつり合いをとればいいのか。
仁威を自分から解放してやりたい。だけどそばにいてほしい。
幸せになってほしい。だけど自分を置いてどこかに行ってほしくはない。
誰かの物にはならないでほしい。
もう少しだけ、自分と共に過去の痛みを共有していてほしい……。
「ほんと……何なんだろうね……」
ぽろぽろと鳴る琵琶の音を聴きながら、つぶやく晃飛も睡魔に囚われつつある。
ふふ、と珪己がまた笑った気配を感じた。
「私たち、みんな同じなんですね……」
その意味を晃飛は考えることはできなかった。
逆らう気もおきないほどの眠りへの欲求に従い、晃飛は静かに夢の中へと沈んでいった。全身を濡らす汗の嫌悪感も忘れ、疲れと共に心の重しを脱ぎ捨てるように。
琵琶は夢の中までもそっと寄り添ってくれた。
次話からは第二章です。