3.戸惑い
昨晩、珪己と仁威はお互いに本心をさらけだした。そしてお互いがお互いを大切に想っていることを告白し合った。そして二人は抱きしめ合った。月食が起こり、月が完全に欠け、あたりが闇に染まり、また月が満ちるまで……。二人は目を閉じ、お互いの温もりと想いの深さに酔いしれたのであった。
その後、二人は少し照れながらも夜遅くまで共に過ごした。茶を飲みながら、たわいもないことを語り、黙り、また語り。そうやって日が変わる時分まで二人きりの時を楽しんだのだった。
異性と抱きしめ合うことにどのような意味付けをするかは人によりけりだろう。また、状況や時代、環境、文化、様々な事柄によってその価値は変わるだろう。
当時、この国、湖国では、異性同士の抱擁には非常に強い親愛の情があることが当然とされていた。そうでなくては抱きしめ合う必要などなく、また、必要もないのにそのようなことをすれば、それは不作法とされていた。
確かに当時、より開放的な恋愛観が広まり始めていたことは事実だ。性的な行為すら、未婚既婚を問わず一種の遊戯のように取り扱われる場合があったくらいだ。だが良家の者の大半は封建的であったし、庶民でも、自己の信念に基づき人よりも身持ちの堅い者は少なからずいた。それは単に肉体面だけのことではなく、精神的な意味でも然りだった。そしてそれは珪己のことでもあり、仁威のことでもあった。
では珪己が昨夜の抱擁についてどう思っているかというと、それは仲直りの証であり、親愛の証であった。昨夜はそれをするのがすごく自然なことで、だからしたのだ。そして抱きしめ合えばやはり嬉しくなった。離れた後、二人して顔を見合わせ自然と笑っていた。その時珪己は感じたのだ。ああ、幸せだな……と。
珪己も昔は抱擁という行為の普遍的な意味、重みを知っていた。少なくともこの春以前までは。一般常識との違いもほとんどなかった。だがこの春、とある夜、李侑生に突如口づけをされ、それから仁威に、イムルに、趙英龍に、晃飛に……四人の男がまったく異なる状況下において異なる口づけを珪己に施してきた。それゆえ珪己は口づけの持つ普遍的かつ最大の価値を見失ってしまっていた。いわんや、抱擁という行為はそれよりも軽んじられても仕方のない状況だった。
一度、珪己は呉隼平と高良季という二人の青年に尋ねている。男が女に口づけをするのはどのような時なのか、と。それに二人はこう答えた。欲情した時、もしくはその女が好きな時だ、と。また彼らはこうも言った。その口づけをした男に訊けばいいのだ、と。
だが昨晩のことは訊く必要はない、そう珪己は思っている。たかが抱擁であるし、お互いの気持ちはすでに通じている、そう確信していた。
仁威のほうも、意味は違えど珪己と同じような気持ちになっていた。
思えばずっと、恋や愛という言葉の定義に振り回されていた。それは長く自分を懸想する李清照や、突如珪己への想いを告げてきた李侑生に影響されていたのも理由だ。
だが昨晩、珪己に『あなたは大切な人です』と告げられ。
『俺もお前が大切だ』と告げることができ――。
もうそれで十分だった。
抱擁は自然としていた。そこに邪な感情は一切なかった。珪己を腕の中に入れた瞬間、空虚な胸の奥底から幸せが溢れだし、凍りついていた心は幸せの熱によって溶けた。幸福は体の隅々にまで染みわたっていった。
名残惜しい思いで体を離すと目の合った珪己がふわりとほほ笑み――そこで仁威はようやく答えを見つけたのだ。
今、この少女のことが大切で、他には何もいらない、と。
確信すると、開陽を出立する以前からくすぶり続けていた強い肉欲も消えていた。仁威が心から望んでいたこと、それは体を繋げることではなく、心を繋げることだったのだ。
八年前のことがあり、仁威は珪己と深い部分で心を触れ合わせることはないと思っていた。それは上司と部下の間柄であった時からだ。だが心を、より深い繋がりを欲するようになってしまった。しかしそれはゆるされないこと、そうも思っていた。それゆえ代替品として体を求めてしまっていたのだろう、そう仁威は己のことをあらためて分析し直している。
別に今でもその欲が皆無なわけではない。昨晩珪己に言ったとおりで、仁威とてただの男なのだから。だがもう十分に満たされていた。今珪己と共にいられるこの至福の時間、この短い束の間の幸福をこそ噛み締めていたい。刹那の輝きだとしても……かまわない。
晃飛はいかにも満ち足りているといった感じの二人を見比べていたが、やはり理解しがたいようだった。とはいえ疲労困憊しているのも事実で、
「じゃあ俺、ちょっと寝てくる。朝餉ができたら呼んでね」
と言い残し、ふらふらと家の中へと入っていった。
二人だけが残され、珪己は畑仕事にあらためて取り掛かることにした。籠を脇に抱えなおし、艶々と光るしし唐を手にしたところで、仁威が声を掛けてきた。
「一人では大変だろう。俺にも何かできることはないか」
顔を向けると、頭一つ背の高い仁威によって見下ろされていた。二人がこういう状況になることはしょっちゅうだ。体格の違いだけではない。指導する者とされる者、成人と未成年が接すれば、どうしてもそうならざるを得ないからだ。だが今朝は不思議と威圧感はなかった。
仁威の目元は柔らかく、頬も硬直していない。何より笑顔が美しい。美しい、そう異性の笑顔を見て思ったのは、珪己は初めてだった。
「あ、あの」
「なんだ?」
「えっと……」
不可思議な動悸を感じ、胸に手を当てつつ珪己は向こうの畑を指差した。
「じゃあ、あっちの水やりをお願いしていいですか? 私、先に台所に行ってかまどに火を入れてきますから」
「だったら俺が火を入れよう。俺は昔から火を起こすのが得意なんだ」
「そうなんですか?」
目を丸くした珪己の頭に、ぽん、と仁威が手を載せ覗き込んできた。
「疑われる理由が分からないんだが?」
距離の近さに、珪己は不覚にもどきりとしてしまった。載せられている手から頭部にじんじんと熱が伝わってくる。照りつける残暑の太陽の熱も相当なものだが、仁威の手から受ける熱はそれ以上で、顔が紅潮してしまいそうだった。
(なんでだろ。これくらいのこと、これまでたくさん経験してきたのに)
体術の稽古中もそうだし、他にも例を挙げればきりがないほど、珪己はこの青年に近づき、また触れたことがある。昨夜などはその最たる例だ。なのに……。
(昨夜はなんともなかったのに……なんで?)
内心の動揺を悟られないよう、珪己は少し視線をそらした。
「わ、私だってけっこうすごいんですよ」
それを仁威は少女特有の仕草、つまり『すねている』のだと勘違いした。
「それは悪いことをした。じゃあ俺は水やりをするか」
そう言って去りかけたところで、背の方、珪己がくいっと仁威の服を掴んだ。
「どうした?」
どうした、そう尋ねられても珪己にも答えられる理由などない。思わず掴んでしまった、それだけだ。
「じゃあ……一緒にやりませんか」
「一緒に?」
仁威がきちんと振り返ったので、珪己はもじもじとしながらも思いつくままに言った。
「一緒に野菜に水やりをして、それから一緒に台所に行くんです。そこでじ、仁威さんの火おこしを見せてください。そしたらどちらが早く火をおこせるか分かります」
そこでちらっと仁威を見上げ、「いいですか?」と珪己が問うた。
その仕草の可憐さに、仁威は思わず破顔した。
昨夜、二人は夜遅くまで話し込んだのだが、その際、会話がたまにつかえることに二人は気づいた。理由は簡単、二人がお互いの名を呼ばないことが原因だった。
これまで、仁威からは『楊珪己』もしくは『お前』と言うだけ、珪己からは『隊長』『袁隊長』、最近は『兄さん』と呼ぶようになっただけ。だがそのどれもが新たな二人の関係にはふさわしくなかった。
これまでの二人であれば、その齟齬も適当にごまかしてやり過ごすことを選んだだろう。だが二人はこの特別な夜に素直になっていた。どちらからともなく呼び名の不自然さについて切り出し、この家ではお互いの本名で呼び合うことにしたのだった。
「ああ、お前がそれでいいならな……珪己」
最後に言い慣れない名を添え、それだけで、仁威は今生きていることに感謝したくなった。
逆に珪己は一層こそばゆい気持ちになった。昨晩の自分はもしかしたら別人なのかもしれない、などと思いながら。よくこんな素敵な人を相手にしてあれやこれや平気でできたものだ、と。約束をしたからには名で呼び合うことをやめるつもりはないが、朝から仁威の放つ柔らかな空気や笑み、言葉の一つ一つに、珪己は頬がほてって仕方がなかった。
そしてそんな自分の変化にこそ、珪己は戸惑っていた。
*
朝餉を食べている最中、晃飛は眠い目をしばたきながらも珪己と仁威の様子を注視していた。やはり庭での二人の様子が気になっていたからだ。だから案の定、呼び名の変化には俊敏に反応した。
「ちょっとちょっと!」
「どうしたんですか?」
「どうしたの、じゃないよ。今、仁兄のこと名前で呼んだよね」
それに珪己が少し頬を赤らめた。
「昨日、そうしようって二人で決めたんです」
「だめだって! 君、今の自分の立場を理解しているの?」
「でも私、ずっとこの家にいるだけだしいいじゃないですか。晃兄だってなんだかんだ言って仁兄って言ってるし同じですよね」
「そりゃあ同じだけど、でもさあ」
ちらりと仁威を見ると、当の本人は平然とした様子で咀嚼している。だがその頬のわずかな緩みを晃飛は見逃さなかった。
「仁兄! それ自己満足でしょ!」
「お前に言われたくはないな」
あっさりと言い切られ、晃飛はなんだか馬鹿らしくなった。
「……ま、いっか。『約束』は守っているみたいだし」
「なんですかそれ」
「いいのいいの。お子ちゃまの妹には分からないから」
何やら言い返そうとした珪己の口を塞ぐように、「ごっそーさん」と言うや、晃飛は席を立って行ってしまった。
「なんなんでしょうね、晃兄のあの言い方」
憤然としつつも箸を止めない珪己に、仁威はただ笑ってみせただけだった。
「ところで、今日なんだが」
「なんですか?」
「時間があったら……またあの曲を弾いてくれないか」
仁威の柔らかな視線に、珪己の箸が止まった。
「どうした?」
「あ、いえ」
不器用に再開してみたものの、珪己はどうにも落ち着かなかった。
こうして仁威と親密に接することができるようになった嬉しさを、珪己はあらためて噛み締めている。二人の間に満ちていた重い空気や軋轢は、放浪の旅が始まって以来続いていたが、昨夜をきっかけにまるで幻のように掻き消えた。
喉の奥につかえる魚の小骨のようなものがなくなり、昨夜は仁威との語らいを心から楽しむことができた。素直な気持ちを直接言葉に載せることができる、そんな些細なことが、幼子であれば容易なことが、これまでどれほど難しく、また寂しいことだったかを痛感しながら。
伝えたい気持ちがあり、その気持ちを相手に真っすぐに伝えること。
開陽を出る以前、珪己はそれらの尊さに気づいていなかった。
だから今朝、仁威とさらに交流を深められる期待を胸に、珪己はうきうきとしながら起床したのだった。さて今日は何をしようか、どんな話をしようか、そんな楽しい空想をあれこれと思い浮かべながら。
だが……何かが先ほどから違っている。
なぜか仁威のやることなすことに過剰にどぎまぎしてしまう自分がいる。
それが今朝から始まった理由も分からない。
自分のことなのにまったく解せない。
これでは会話を楽しむどころではなかった。
ひとまず大量に麦飯を口に入れてみた。そうして、口の中に押し込んだものの味覚に集中することで普段の自分を取り戻そうと試みる。大粒の麦を奥歯で何度も噛み締める。そうしないと粒がいい具合に砕けないことを珪己はすでに知っている。開陽で食していた米だけの飯とは違うのだ。
咀嚼する珪己を、仁威がじっと見つめている。返答を待っているのもあり、また、珪己が麦を食べる様が興味深いのもあるのだろう。
他人にこうも見られながら食事をしている状況が、珪己は急に気になりだした。急かされているような気もする。十中八九、すべては珪己の心根の問題でしかないのだが、口内のものを半分も消化する前に、もそもそと答えていた。
「むぐむぐ……そうでふね、せんたふものがおわったら」
それに仁威がくくっと笑い声をあげた。目尻に皺を寄せ笑いをこらえようとしている。だがそれでも笑いが漏れてしまう、そんな様子だった。子ども扱いされた気がして、飲み込めていない麦飯だけが理由ではなく珪己の頬が膨れた。
だが。
「ちゃんと食べてから話せばいい」
仁威の目元の柔らかさは昨夜以上で――。
珪己はとうとう赤くなった顔を隠せなくなり、しばらくもごもごと口を動かしてごまかすしかなかった。