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4.探していた

 放心する時間もわずかなうちに、階下から明らかに複数の男の足音が聴こえだした。


(一、二、三……四人か)


 どんな過酷な時にも瞬時に冷静さを取り戻せるのは、武官としての鍛錬の賜物だろう。仁威は桔梗を床に下ろし例の棒を手に取るや、音もなく窓を開けた。


「隼平さんっ?」


 驚く水仙に、仁威は人差し指を口元に立てることで黙らせた。


「いいか、俺がここにいたこととあの男を倒したことは誰にも言うな」

「え? ええ……でもどうして?」

「どうしてもだ。お前はすぐに厨房に行け。俺もすぐに行くから。あと、なるべく『あいつら』と喋るな」


 そこまで言いきると、仁威はためらうことなく階下へと飛び降りた。


 だん、と着地した際の重い衝撃を足裏で感じたのとほぼ同時に、先程までいた室に集団が入り込んだ気配を仁威は感じた。


「うわっ」


 一人の男が腰の抜けそうな高い声を発したのが、開けたままの窓の向こうから聴こえる。


「こりゃあ、ここ数年で一番の事件じゃないか?」


 やや落ち着きを感じさせる低い声が続いたが、それにも少しの震えが感じられた。


 仁威は木陰にひそみ様子を探っている。水仙は言われた通りに「すみません」と言いつつ、無事に室の外へと出ていった。


「新人くんよお、俺らについて行きたいって立候補してきた割にはおとなしいのな」


 から元気だと思われる別の男の声かけに、残る一人が答えた。


「いえ、血を見るのなんて初めてでびっくりしちゃって」


 びっくりした、そう言う割には無邪気な声だ。

 何も考えていないような、または考えていることを悟られまいとするような。


「これさ、俺ら五番隊じゃなくて一番隊の出番じゃないか?」


 こもったような声になったのは、きっと語り手が何かで口を覆ったからだ。血の匂いは嗅ぎ慣れないものには強烈な吐き気をもよおさせる。


「しょうがないだろう。一番隊は年始の知州ちしゅうの参賀の準備で忙しいんだ」


 知州とは湖国を構成する各州の長のことをいう。そして知州は首都で執り行われる年始の儀に参列することが義務付けられていて、その訪問団を守護する役はどこの州でも廂軍の花形である第一隊の任務なのである。


 だが年長者の諭すような発言に一人が反発の声をあげた。


「どうせどこで遊ぼうとか、そんなくだらない話をしているだけだろ」


 知州やその供である文官にとって、この年に一回の機会は、政治的に非常に重要な意味をもつ。だが彼らに付き従うだけの武官らにとっては、年に一回の慰安旅行のようなものなのだ。それもそうだ、公費で正々堂々と首都で豪遊できるのだから。地方勤めの武官は大した禄をもらっていないから、実際、第一隊の面々には最近浮かれた様子が見られていた。


「それだったら二番隊の出番だろ? 少なくとも俺ら五番隊じゃない」

「それはこの応が悪いんだ」

「へへっ」


 あの無邪気な声で新人だという男が笑った。


「へへ、じゃねえ! お前が『現場に行ってみたい』なんて騒ぐから、こんな面倒なこと請け負うはめになっちまったんじゃねえか!」


 ぺらぺらと語る彼ら――五番隊の武官――は、どうやら喋っているだけでなんら現場検証も、遺体の検分も、倒れ伏している男の拘束も始めてはいないようだ。


 これ以上ここにいても無意味だと判断し、仁威はその場を離れることを選択した。木々の間を音を立てることなく去ることは朝飯前、行先は当然、水仙の待つ厨房だ。



 *



「ん? どうした?」


 開け放したままの窓の方を見やっていた応に、一人が尋ねた。


「いーえ?」


 応は笑って答えると残る三人に声をかけた。


「ここは大丈夫そうですから、僕がやっておきます」

「はあ? お前がか?」


 胡乱気に言い返されたが、応は笑みを貼り付けたままうなずいてみせた。


「女の人はもう死んじゃってるからやることないし、あっちの男はこの紐で縛っておけばいいですよね。それよりも先に店の人に話を訊いてきた方がいいですよ」

「そうか?」

「ええ。さっきの女とか」


 新人といえどなぜか説得力のある物言いに、気づけば三人は素直に従っていた。この斬撃の場から一刻も早く離れたいという思いもあって、三人はぞろぞろと室内から出ていった。


 残された応は笑みを浮かべたまま床に転がる男に近寄った。男はいまだ白目をむいて気絶している。


 しゃがんで胸元をはだけてみれば、下腹部に印のように丸く赤い痕があった。明らかな打撃痕だ。――応のような男が見れば。


 ぐるりと室内を見渡すと、武器になりそうなものは何もない。


 立ち上がり窓辺に近づくと、応は階下を覗き見た。だがそこにも何もなかった。暗くて見えなかったのではなく、『応の目』でも何も見えなかったのだ。


「ふーん」


 振り返った応の笑みは一段と濃くなっている。


 その表情のまま男に近づき――背中に膝をあててぐっと力を籠めると、男は意識を取り戻してぴくぴくっと震えた。


「……がはっ!」


 応が手を離すと、慣性に従って男は真正面に倒れ込んだ。顔を打ち付ける直前で両手をついて事なきを得たが、男は続けざまに何度もせき込んで身を震わせた。


「よっぽどひどく打ち込まれたんだねえ」


 男を見下ろす応の声には面白がっている様子がある。だが男には応える余裕などない。背後にいる見知らぬ男に振り向いて見せる余裕すらなく喘いでいる。仁威が与えた打撃は明け方まで意識を取り戻せないほどの強烈なものだったのだ。それを無理やり覚醒させられたせいで、男は今、地獄の苦しみを味わっていた。


「君は誰だ? 相手の男はどんな奴だったのかな?」


 もちろん男は答えられない。げほげほと男が床に吐き出す唾には、血の色が幾分混じっている。だが応は容赦しなかった。


 右足を持ち上げたかと思うと、それで容赦なく男の首の裏を強く踏みつけたのである。


 まだ手の力が戻っていない男は、簡単に体勢を崩し前のめりに倒れた。


「ぐはあっ……!」

「訊かれたことには答えようね?」


 男が振り返ろうとするのを、応は足裏に力を込めて阻止した。今、男は完全に床に這いつくばっている有様だ。


「まずはじめに。君は誰?」

「お、俺は武官だ……っ!」


 元武官と言わないのは、この男の最低限の矜持のせいだ。


「ああやっぱり」


 応の口元がほころんだ。


「僕が探していた一人は君か」


 その瞬間、男の全身が大きく震えた。


「ま、まさかお前は御史台ぎょしだいの………」


 ぐうっと、応の足が踏み込まれた。

 これ以上はないほどに強く。


 御史台、その名を頭に思い描くだけで身を震わすのは自身が罪人であることを自覚している者だけだ。


 この国では刑罰に関する任を請け負う組織が三つある。一つは枢密院が管理する大理寺だいりじであり、罪人を捕え監獄にて保持する。もう一つは中書省五部の一つ刑部けいぶであり、こちらは被告人を聴取し状況を調べ、法にのっとって裁判を起こす。


 そして最後の一つが御史台である。御史台は二府のどちらにも属さず、組織構成上は皇帝直下に組み込まれている。それは彼らの任が非常に特殊だからだ。償うべき罪を償なっていない者を探し出し捕らえること、必要があれば皇帝の勅命を受けて自らが処罰を下すこと、つまりは枢密院や中書省が裁ききれなかった、裁けなかった悪事を断罪することが彼らの任なのである。


 今、男は自分が罪人であることを十分自覚している。しかも応は『探していた一人』と言った。あの八年前の夏の夜、自分以外にも幾人かが闇に紛れて逃亡していて、その後の消息を男は一切知らない。だが、あれほどの事変を犯した男達を国は放置していなかったのだと、そのことに今更ながら気づいたのである。


「はいはい、余計なことは言わなくていいから。じゃあ次の質問。君を倒した奴はどんな人間だった?」

「知らないっ……!」

「知らないじゃダメだよ。ちゃんと答えて。どんな容姿だった?」


 その間も応の足はじりじりと踏み込んでくる。床に当たる男の顎が擦り剝けて血が流れだしたがかまいはしない。


「やけにいい剣を持ってるね」


 応の目が床に落ちているむき出しの長剣をとらえた。


「それになんでこんないい店に君みたいな根無し草が遊びに来たの? そんな金、どこにあるの?」


 だが男が口を開きかけた、その時。


「……ああ、もうおしまいの時間だ」


 そう言うや応が足をどかした。


 ふっと軽くなった首の付け根、だが男がそれに気を緩めた瞬間――同じ箇所に鋭い衝撃を受け、男は再度気を失った。


「また今度二人っきりになったときにお話ししようね」


 応が手刀を打った手をおろし懐から紐を取り出したのとほぼ同時に、室の戸が開かれた。


「話は訊いてきたぞ。……っておい、まだ縛ってもいなかったのかよ」

「すいませーん。さっき急に意識取り戻して暴れたもんで手こずっちゃって」

「大丈夫だったのか?」


 同僚に心配げに尋ねられ、応はぺろりと舌を出した。


「勝手に一人で転んで気絶してくれたんで助かりました」

「そりゃあよかったな」

「で、どうでした? 何か面白い話は聞けました?」

「うん? ああ、こいつは酒に酔って暴れて、勝手に転んで気絶したんだと。お前の話といい、やっぱり酒は飲んでも飲まれるもんじゃないな」


 がははは。

 三人があげた笑い声に重ねるように、応もはははと笑った。


 一人の女の死体のそばで、四人の男達の笑いは乾いた風のように響いた。



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