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3.もしも神様がいて

 地面から腰の高さまである棒には、対する男が持つ剣に比べて有利な点が一つだけある。それは長さだ。その棒は剣に比べてやや長かった。やや、という表現はひどく的確だ。だがそれでも、そのわずかにも思える長さの差が仁威にとっては重要なのである。


 闘いの場において、間合いを制御することは勝つために必須だ。


 とは言え、獲物の長短も、刃の有無ですらも、闘いにおける最重要事項ではない。この場をどう制するか、そのための技術と経験、強じんな心を有しているか否か、勝負はそれに尽きるのだから。場合によっては、長剣でもっても素手の相手に負けることすらある。


 逡巡するわずかな時間を奪うかのように、男が吠えた。


「俺はこんなところでくすぶっているような人間じゃないんだっ!」


 言うや、きつく仁威を睨みつけ、右足をじりりと前に進ませてきた。


(まずい)


 相手の顔を、特に表情や目の動きを注視するのは闘う者の自然な行動だ。だがその時間が長ければ長いほど、素性を相手に悟られてしまう可能性が増してしまう。


(……さっさとこいつを気絶させてしまうしかない)


 相手は近衛軍第一隊に長年属していた男だ。ならば当然、武芸の業は究極の域まで習得している。だが当時の厳しい訓練から離れてすでに八年が経過しているし、酔って正気を失っているあたり、逃亡の間は鍛錬を積んではいないだろうと仁威は読んだ。


 八年前、仁威は第一隊の集団相手に剣を振るうことさえできなかった。

 だが今は違う。

 この八年、誰よりも鍛錬を積んできたという自負もある。


(今ならば――勝てる)


 さりげない仕草で棒の先端を床から少し持ち上げる。

 それに男は気づいていない。

 そのこともまた勝利を確信させる。

 男は自分よりも弱いはずだ、と。


 だが油断はしない。

 想定外の事象にすぐに対応できるようにすること、それを忘れてはならない。


「ううっ……」

「桔梗ちゃん?! 大丈夫っ?」


 うめいた桔梗、大声を発した水仙に、男の意識がそがれた。


 次の瞬間――。


 仁威が動いた。


 音もなく右足を進める。

 重心移動を感じさせないすり足で一気に男との間合いを詰める。


 それと同時に棒の先端を男に向かって持ち上げていく。

 棒は絶対に引かない。


 故意に半身にしておいた腰のひねりを戻す動きだけで加速度をつけ、ただひたすら一直線に男の腹めがけて棒を繰り出していく。


 気配に振り向いた男の血走った目に、さっと怯えの色が浮かんだのと、棒の先端が男の腹にめり込むんだのは、ほぼ同時だった。


「うぐっ……?!」


 と、男の黒目だけがくうっと天井の方へと上がっていき、完全に白目になり……やがて背後からどうっと倒れた。


 男のいた場所には、床に水平に突き出された棒だけが残った。


 仁威が棒を振るいつつ手元へと引き寄せると、男が昏倒した以外は何もかもが先ほどまでと同じ光景に戻った。ただ一つ、棒の空を斬った音だけがしばらく残響のようにこの場に聴こえただけで。


「桔梗ちゃんっ!」


 束の間の静寂は水仙の再度の悲痛な声によって破られた。


 仁威が駆け寄り膝を折ると、桔梗は瞼を震わせながらうっすらとその目を開けようとしているところだった。


「桔梗ちゃん! 桔梗ちゃんっ!」


 狂ったように水仙が呼びかけるのに、ややあって桔梗が薄く笑ってみせた。だが意識が戻ったというのに、桔梗の顔色には明らかな死相が見えた。最後の力を振り絞って目を開けたのだという桔梗の意志が……痛いほどに伝わってくる。


 最期の時、人は語ることを願う。ならば周囲の者はそれに応えてやるべきだ。それを仁威はよく知っていた。それでも、


「水仙、医師を呼んでこい!」


 仁威もまた叫んでいた。


「ここは俺がやれるだけの処置をしておくから、清潔な布や水を大至急揃えて持ってこさせろ。今すぐにだ!」


 はっとした水仙は、桔梗を仁威に預けるとまろぶように出ていった。戸を開け、閉め、一拍置いて、その向こうでずっと様子をうかがっていたらしい女達から悲痛な声が上がった。騒ぎながら、泣き声をあげながら、それでも誰もが最善の行動を起こすために駆けていく。そう、人は最後まで命を救いたいと願ってしまうものなのだ。当の本人が何を一番に望んでいるかは関係なしに。


 仁威は桔梗をあらためて床に寝かせると、自分の衣の袖を歯にくわえ一気に引き裂いた。その上に懐の手巾も載せて桔梗の傷口を強く押さえる。心の臓のある胸元を大きく斬られているから縛って血を止めることはできない。圧迫し出血量を少しでも押さえることしかできない。


 これ以上血を流すことは――明らかに危険だ。


「隼平、さん……」

「黙っていろ!」


 今は少しでも持ちこたえてもらわなくてはならない。話をさせる体力も惜しい。

 だが桔梗は話すことをやめなかった。


「隼平さん……もういいの……」

「いいわけがあるかっ!」


 気休めは言えない。絶対に助かるから頑張れなどとは言えない。だがどうにかして助けたい。それはもう人としての本能だ。目の前で死にかけている人物がいたら、可能性が皆無だとしても何かしてやりたいと思うのも人のさがだ。


 数々の死の横を通り過ぎてきた仁威ですら、それらには逆らえないのだった。


「ふふ、こんなふうに必死な隼平さん……初めて見る……」


 桔梗の笑みは儚い雪のようだった。ちょっとしたことで消えてしまいそうなもろい笑みだった。その唇に塗られた紅の残りはいまだ赤いが、紅のとれた地の部分は恐ろしいほどに白い。仁威がこの室に侵入した時よりも、一層血の気が失せてしまっている。


「もしも神様が……いて」


 そこでせき込んで、桔梗が言葉を継いでいった。


「もしも神様がいて……今隼平さんが私を抱いてくれたら死なせないでやるって、そう言ったら……」

「黙っていろ!」

「そしたら、さすがに私のこと……抱いてくれる、でしょ……?」

「これ以上は話すなっ!」


 桔梗が口を開くたびに胸が上下する。そのたびに傷口を押さえる仁威の手のひらは強い温もりを感じた。それとともに、傷口にあてがった仁威の袖の切れ端にじわじわと赤いしみが広がっていった。命が流出する様をひしひしと感じる。感じて……しまう。


 だが桔梗は話すことをやめなかった。


「ねえ、そしたら抱いてくれるでしょ……?」


 涙に濡れた桔梗の瞳があまりにも真剣で、だから仁威はうなずいていた。


「ああ」


 くしゃっと、桔梗の表情が崩れた。


「なんで……? なんでそこまでしないとその気になってくれないの……?」


 仁威に向かって差し伸べてくる桔梗の手もまた、血に赤く濡れていた。


「私、生まれてから今まで一度も贅沢言ったことないのよ。美味しいものを食べたいとか、きれいな恰好をしたいとか、どこかに行きたいとか……妓女を辞めたいとか……。そんなこと、願ったこともないのよ……?」


 桔梗の血に濡れた手が仁威の頬に触れた。ぬるりとした感触の向こう、桔梗の手はひんやりとしていた。


 濡れた瞳は今も仁威を見つめている。

 だがその焦点がゆっくりと合わなくなってきている。


 死が急速に迫ってきている。


 このような状況に陥った人間を仁威は幾度も見たことがある。あるが……今、仁威は覚えのないやるせなさを感じて苦しかった。


「私が願ったのは……たった一つよ。あなたに一度でいいから抱かれたいってこと、それだけだったの……。そんなに不相応な願いだったの……? 私、隼平さんにとってそんなに嫌な女だったの……?」


 仁威は無言で首を振った。


「じゃあ……迷惑、だった?」


 それにも仁威は首を振ろうとして……できなかった。


 その気配を頬に触れていた手のひらで感じ、桔梗が泣き笑いの表情になった。こんな時だというのに、桔梗はひどく無垢な顔に戻っていた。まるで少女のように。時を巻き戻すかのように。


「こんな時でも嘘をつかないなんて、ひどい人……。でもそんな隼平さんのことが好きだったの……」

「俺のことを知らないくせに……!」


 やり場のない仁威の想いは、気づけば怒りとなって吐き出されていた。


「お前は俺のことを何も知らないだろう! それなのに好きだの愛だの、お前はおかしいっ!」


 桔梗にぶつける激しい感情の元は、これまで仁威が出会ってきた幾多の女への否定、拒絶だ。なぜこんな時に。いや、こんな時だからこそだ。命が消えてしまう直前にある今だからこそ、仁威は桔梗に正直に接するほかなかった。


 好きだ好きだと、そればかりを繰り返してきた従姉妹。

 あの手この手で年若い仁威を籠絡してこようとした隣人の後家の女。

 そんなのはごく一部だ。


 見た目だけで近寄ってきた女達。

 言葉一つ交わしたこともないのに惚れてきた――顔も覚えていない幾多の女達。

 冷たくしても、それでも引かない女は一定数いた。


 だから無視をし、睨み、しまいには憎くもないのに怒鳴りつけ――女という存在を自分の人生から排除せねば、仁威は心の安寧を得ることができなくなってしまったのである。


 それが理由で、女に不人気な武芸を習い始めた。

 そしてそのことが仁威の人生を定めたのである。


 だがこの春、八年ぶりに再会した珪己に、あり得ないほどの熱情から成る恋心を抱き。

 紫苑寺の女僧や芙蓉、それに桔梗と言葉を交わすようになり。


 女だからと誰もが害となるわけではないのだと、仁威はとうとう実感するに至った。


 だが、桔梗も結局はこれまで仁威が拒んできた女そのものだった。


 さほど仁威のことを知りもしないのに好きだと言い、生の火種が消えゆく狭間にあるというのに、あれほど大事にしている家族のことではなく、赤の他人への恋心に悔恨の念を抱くとは……。


 対する仁威には、何より優先すべきことがあるのに。

 志、贖罪、武芸者であること、そして楊珪己という存在がいるのに――。


 それらに比べたら、他のものなど、桔梗のことなど塵に等しいというのに――。


 それらの中でも、仁威はどこまでも尊い恋すら捨てると決めてしまったというのに――。


「お前にはもっと大切なことがあるだろう?! その命、その体、家族、どれもお前にとっては俺とのことよりも優先すべきだろう?! なぜなんだ、なぜ出会って間もない俺なんかにそこまでっ……!」


 だが桔梗は動じることもなく、ただ笑みを消して真面目な面持ちで言った。


「分かるわ」

「分かるわけがないっ!」

「分かるわ。だって私、これまでたくさんの人を見てきたもの……。生まれてから今まで、たくさんの男を見てきたもの……」


 その言葉は桔梗の生きざまそのもので、それに気づくや仁威がはっと息を飲んだ。


「分かるわ……。私には分かったの、あなたがそういう人だってこと……」

「お前……」


 まるですべての女に解を突きつけられたかのように、仁威はすべての言葉を失った。


「隼平さん、言われたもの全部持ってきた!」


 わずかな静寂を打ち破って水仙が手に桶や布を抱えて戻ってきたが、二人が見つめ合う様子にすぐに口を閉ざした。水仙の方から見える桔梗の横顔が、死にゆく直前だからこその強さで彩られていたからだ。その横顔は、美にうるさい妓女ですら思わずはっと息を飲むほど美しかった。


「ねえ、最後にひどいこと言わせて……?」


 苦し気に一度喉の奥をこもらせ、桔梗が振り絞るように言った。その目は仁威だけを見つめている。もうそれ以外何も見えていないかのように。


「あなたに抱いてもらえていたら、きっと今、幸せな人生だったなって思えていたわ……。幸せだったなって思いながら笑って死ねたわ……」


 もう一度、今度はより一層強く喉を唸らせた。


「でもあなたは私を抱いてくれなかった……。だから私、不幸だったなあって思いながら死ぬのよ……。ふふふ」


 ふふふふふ。


 桔梗の小さな笑い声が室内に響いた。

 少しの間そうやって響いて、仁威の頬に触れていた桔梗の手がぽたりと床に落ちた瞬間。


 それは途絶えた。

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