6.白い粥
珪己が薄目を開けると、すぐそばで男女二人が言い争っていた。
「お前は本当に馬鹿だよ。ここまで馬鹿な息子だとは思ってなかったよ」
「うるさい。馬鹿馬鹿言うな」
「馬鹿は馬鹿だろうっ」
話の内容の割には二人の声量は小さい。眠り人に遠慮してのものだろう。だがお互いの声も表情もきつく、ここでなければ先日のように大声で罵り合っていたはずだ。
横たわったまま、珪己は己の全身に注意を向けていった。恐る恐る、少しずつ。ある程度探索し、大事なさそうだと思えたところで、珪己は緩やかに息を吐いた。無意識で息を止めてしまうほどには緊張していたようだ。
昨日の激痛はまさに地獄の折檻のごとくだったが、今は下腹部がしくしくと痛む程度になっている。これくらいなら耐えられる。少し頭がぼんやりとするが、それもここ数日に比べたら随分と楽になっている。
珪己が自己を診断している間も二人の応酬は続いていた。
「俺よりも馬鹿なあんたには言われたくないね」
「なんだってえ?」
ツンと横を向いたのは晃飛、それに食って掛かったのは芙蓉だ。町人らしい地味な反物で拵えた衣を身に着けているが、それでも夜の世界にいる者独特の淫靡な匂いをそこはかとなく漂わせている。対する晃飛はいつもと同じ生成りの衣で、軽く腕まくりをしている姿はどこにでもいる普通の青年だ。
だがこうしてみると、二人はやはり似ていた。目元は狐のように細く鋭利だし、すうっととおった鼻も、すっきりとした顎までの造りも、姿勢のいい立ち姿も。なにもかも。
さすがは親子だ、そう思ったらふっと笑いがこぼれていた。
こぼれた吐息の気配に、二人が一斉に珪己の方を振り向いた。
「おや、起きたのかい」
「起きた?」
似たようなことを言う二人の鋭い目が小さく見開かれている。そんなところもよく似ていて、珪己はたまらずくすっと笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
晃飛が剣呑な雰囲気を込めつつ尋ねてきたから、珪己はあわてて笑みを消し目線をそらした。
「……なんでもないです」
「なんでもない? 本当?」
ちらっと晃飛を見ると、眉間にしわを寄せてこちらを睨んでいる。
「正直に言わないと……」
随分と長いためを作りながら、じいっといつまでも睨まれ。
「どうなるか……」
何をされるのかと珪己が少し怯えた――その時。
ごつん、と重くて鈍い音がして、晃飛の低い声が途絶えた。
見ると、芙蓉が晃飛の頭を拳骨で殴ったところだった。
「体調の悪い嫁を脅すなんて男のすることじゃないだろっ!」
そう言いながら芙蓉がもう一発拳をお見舞いした。またしても小気味のいい音が室内に響く。
「やめろよっ!」
文句を言う晃飛であったが、そんなに痛そうではない。
今日はなんだかんだで仲が良さそうだな、と思ったのもつかの間、珪己は一つの疑問に行きついた。
「嫁ってなんですか?」
騒いでいた二人の動きがぴたりと止まった。
芙蓉が拳を下ろし、寝台の隅に腰を下ろすと珪己の手を握りしめ、言った。
「もしかしてまだ晃飛は大事なことを言っていないのかい?」
「大事なこと……ですか?」
はてなんのことだろう、と、珪己がまだ動きの鈍い頭で考えを巡らせていると、晃飛が芙蓉の肩に手を置いて言った。
「ねえ、母さん」
「……は?」
胡散臭そうに顔をしかめ、芙蓉が息子の方を振り向いた。滅多に自分のことを母と呼ばない息子がそう呼ぶとき、何か腹に一物を抱えていることがほとんどだからだ。まあ、そういう人間になってしまった原因の一つが自分であることは百も承知しているから、苦虫をかみつぶしながらも息子の言い分を聞くしかないのだが。
晃飛が気味の悪いほどに愛想よく笑った。
「ちょっと外、出ててくれない?」
親指を背にある扉の方に向けて。
「なんでだい。私はまだ……」
「いいから。出てて。ね?」
一言一言区切りながら、笑みを浮かべたまま語る晃飛には不思議な迫力がある。何も言わせない、抵抗させない、その意思が一部始終を観察しているだけの珪己にもはっきりと伝わってくる。
芙蓉は納得できないようだったが、最後には折れて出ていった。戸を閉める直前に「少しの間だけだからね」と言い残して。
ぱたん、と閉じられた扉の気配が、残された晃飛と珪己の間に言いようのない沈黙を運んできた。いや、本当は珪己はすぐにでも晃飛に尋ねるつもりだったのだが、できなかったのだ。扉が閉じられた刹那、晃飛がその笑みを消したから。胡散臭い表情を捨て、切なげに目を細めてこちらを見つめてきたから。
無言で見つめ合っていたのはわずかな時間だった。先に珪己の方がこの沈黙に耐えられず、思わず視線を外していた。動いた視線の先、今日も開け放したままの窓の向こうには、夕暮れ時特有の複雑な色をした空が広がっていた。橙、赤、桃色、黄色。水色、青、群青、紫。そして黒。雲は少しの白が残っているが大半は夕焼けに染まっている。一つだけ、白い星が針のように細い高山のすぐ上に光っている。
「……私、長い時間眠ってたんですね」
思ったことをつぶやいていた。
それにつられるかのように、晃飛が背後の窓の方を振り向いた。
「ああ、そうだね。あれから半日ぐっすり眠ってたんだよ。どう? お腹すいてない?」
「少、し?」
起きたばかりでいまいちはっきりとはしないが、すいているような気もする。
それに晃飛がうれしそうな表情を見せた。
「よしよし。まだ作ったばかりだからおいしいと思うよ」
そう言い、机の上の鍋を覆う厚い布――保温効果がある――を取ろうとする晃飛に、珪己は「すみません」と声をかけた。
「それよりも先にお水をもらっていいですか? なんだかすごく喉が渇いて……」
「そうか。そうだね。あ、それと食前に薬を飲ませないといけないんだったな。準備しなくちゃ」
そうして珪己は昨夜のように晃飛に褐色の液体を飲まされた。抱いて起こされ、腕の中に包まれながら。なんだか子供に戻ってしまったようで照れくさかったが、晃飛の体温、感触が不思議と心地よくも感じていた。
「なんだか父様みたいですね」
照れくささのあまり思わず言っていた。
「はあ?」
「あ、すみません。父様じゃなくて兄さんでしたね」
小さい頃、道場で師匠の古亥を一度だけ『父様』と呼んでしまったことがある。その時以上の恥ずかしさで珪己はいたたまれなくなった。あの頃はまだ幼かったから、古亥も周りにいた仲間も軽く笑い飛ばしてくれた。そういうことはよくあることだ、と慰めてくれながら。だが珪己はもう十六で、それなのに他人を父様なんて呼んでしまえば恥ずかしいに決まっている。穴があったら入りたいとはこういう時に使う言葉だろう。
また『お子様だ』と馬鹿にされるかと案じていたら。
「しばらくは俺のこと、名前で呼んでくれる?」
晃飛が突拍子もないことを提案してきた。
しかも。
「それと、数日以内にはこの家を出てあの人の家に住んでもらうから」
驚くべきことを言いだした。
「あ、荷物はもうある程度まとめてあるから」
そう言う晃飛の視線の先を追うと、確かに部屋の隅のほうには衣類をまとめたものらしき包みと、琵琶と木刀が一か所に置いてあった。いくらなんでも気が早すぎではないかと、当然珪己は焦った。
「あの、どういうことですか?」
「それはこれを食べながら聞いてもらうよ」
晃飛は珪己から離れると、先ほど触れていた鍋の蓋を開けた。その途端、薄く白い湯気が立ち上った。椀に中身をすくい入れ、さじと共に珪己に手渡された。
椀から伝わってくる温もりが、まだ夏だというのに珪己は不思議と心地よく感じた。それは先ほどまで触れていた晃飛の温もりによく似ていた。
椀を引き寄せ、その中を一目見て、珪己はあっと驚いた。真っ白だったからだ。ただ湯で炊いただけの米粒が所狭しと密集している。そのどれもが光り輝いている。まるで天の星を椀の中に閉じ込めたかのように。
それは開陽に住んでいた頃を思い出させた。熱が出るたびに母が、母亡き後は家人が作ってくれていたものと同じだったからだ。
「いただき……ます」
ずっと食べ物の匂いが鼻についていたのに、不思議とこれは受け入れられた。口に入れると、やや懸念していた吐き気も起こらなかった。それどころか、純粋に――。
「……おいしい」
思わず、といった感じで言葉が漏れていた。
「ああ、よかった」
晃飛が先ほどと同じように寝台の隅に腰掛けた。
「あの人に聞いたんだ。開陽のお嬢様が食べそうな味付けを。こういうのが好きなんだね」
「は、い……」
一口、二口。
ほんのりとした塩味が米の甘さを引き立てている。なんとも優しい味だ。
開陽では本来、味付けの濃い料理が多い。だからこれは病気になったときにしか口にしないもので、実は開陽に住まう者の大半は好まない味だった。右に倣えで、実は珪己もそんなに好きではなかった。早く元気になっていつもの食事をしたいと、これまでも逆の意味で奮起させられてきたくらいだ。
なのに今は――。
「ううっ……」
さじを置いた珪己の目から涙がこぼれだした。
その手を口元に覆い、嗚咽をこらえながら――涙を止まるすべは知らず、ただ泣くしかなかった。




