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5.謝罪

 明け方、帰宅した仁威は真っ先に庭へと回った。

 だが今日もそこには愛する少女の姿はなかった。


 少し前まではここに少女がいるのが当たり前だった。朝日が昇るとともに庭へと出て水やりをし朝餉のための野菜を収穫する、それが少女の日課となっていたからだ。そして「おかえりなさい」と朝日よりもまぶしい笑顔を浮かべてくれていたことも……。


 だが姿がないということは、今朝もまだ体調は回復していないということだ。昨日の今日ですぐに良くなるわけなどないが、仁威は小さく落胆のため息をついていた。無意識のうちに奇跡が起こることを期待していたらしい。


(俺もつくづく馬鹿な奴だ)


 自分自身に悪態をつきつつ台所へと行くと、そこには予想どおり晃飛だけがいた。


「おはよう、仁兄」


 晃飛の前では小中二つの鍋が火にかけられていた。ぐつぐつと煮えているのは雑炊だ。中型の鍋にはよく見かける類の食材が入っている。麦と、それから刻まれた葉の鮮やかな緑が。だが小型の鍋には見るからに滋養のありそうな具材が満ち満ちていた。しかも米がふんだんに入っている。そのことに仁威は目ざとく気づいた。晃飛が食卓に米を提供したことは一度もなかったから、その理由は簡単に推測できた。


「珪己は食欲が出てきたのか?」

「うーん、そうだね。少しずつね」


 実は昨夜も一口も食べていないが、晃飛は敢えて言わなかった。小さな嘘を取り繕うかのように、晃飛は早口で言った。


「さっき見たらまだ寝ていたから、そっとしておいてあげてね。よく眠れているのはいい傾向だから」

「ああ。面倒かけてすまないな」

「何言ってんの。俺たち兄弟でしょ」


 それに仁威が笑った。


「ああ、そうだな。俺たちは兄弟だったな」


 その一言、その笑みに、晃飛はたまらない気持ちになった。


 ずっと欲しかった言葉だ。

 なのに今、晃飛は仁威に隠さねばならない秘密を抱えている。


 しかもそれは仁威が愛する少女の一大事についてなのだ――。


「しばらく、さ」

「うん?」

「食事、妹に合わせたものを作っていい?」

「ああ、もちろんだ」

「そう、よかった」

「金は大丈夫か? ひとまずこれを」


 言いながら懐に手を入れた仁威を、晃飛は手を振って制した。


「大丈夫だよ。これくらい環屋から幾らでもくすねてこれるから」

「は?」

「今までもいい食材のほとんどはそうして手に入れてたんだよ。気づいてなかった?」

「お前なあ……」


 あきれたように仁威がため息をついた。が、苦笑しながらも晃飛を責めるような様子はない。環屋の女将である芙蓉、つまり晃飛の実の母親が、息子に対して遠慮しがちなところを知っているからだ。理由は当然、他の男と暮らすために実子を捨てたから。芙蓉は言い方は乱暴だし、そっけない態度をとることが大半だし、時折強く出ることもあるが、根本的には息子に逆らえないのだ。食材を少し融通することで芙蓉と晃飛の気持ちに折り合いがつくなら、他人の仁威が正義を振りかざして糾弾することではない。


「ところでさ。昨日、仁兄と剣を合わせていて気づいたんだけど……」


 鍋の中身をかき混ぜることを口実にしながら、晃飛は仁威に背を向けた。

 今、どうしても尋ねておきたいことがあったから。


「仁兄はやっぱりあの子のことが好きなんだね」


 かすかに身じろぐ気配を背後で感じた。


 昨日、晃飛は己の覚悟を決めるために仁威に闘いを挑んだ。それは受け止められた。その間、仁威は常のごとくだった。つまり、指導者たらん振る舞いをしていた。なのだが……。


 闘いを終えた後に仁威が言った言葉、その際に見せた表情は、この男の素を露見していた。それでいいんだ、そう晃飛に言いながら、自分は真実そう思ってはいないとでもいうかのようだった。言いきるやすぐに晃飛から目線をそらした。まるで自分は変わりたくないのだといわんばかりに。変わらず今までどおりの愚直な生き方を選ぶのだと宣言するかのように。


 そこにもっとも関わることといえば、珪己への恋心しかない。


 そう思い、晃飛は尋ねたのであった。


「……すまん」


 長い間を置いて返された答えは予想通りであったから、晃飛はつとめて明るい声を出すことができた。


「いいって。元々俺が約束だとか言って変なことを言い出したのが悪いんだから」


 それから。


「……本当にごめん」


 ずっと謝りたかったことを口に出すのには勇気がいった。実際、言いきった途端、晃飛はひどくほっとした。背を向けていても残滓のような緊張によって体は硬直したままだ。だが今を逃せば謝罪する機会を失う。これ以上はないほどに強く深く後悔している今でなければ言えない。その思いを利用して、晃飛はようやくこの件について謝罪できたのだった。


(もしも今、敵襲を受けたら)


 ふとそんな空想が晃飛の頭に浮かんだ。


(きっと何の業も使えないで敗北するんだろうな)


 こんなに体が硬くなっていてはまともに動けないに決まっている。


 そんなことを想像できるくらいには余裕があるのだな、と、自分のことなのに晃飛はげんなりとした。肩が落ち、それで幾分体が弛緩した。そんな自分にまた幻滅しつつ。


 ごめん。それはたった三文字のことだが、たかが三文字では表しきれないほどの想いを込めた言葉だった。心から謝罪したいと願っていたことだった。昨夜も自分が発端で苦しみあえぐ珪己を見て、晃飛は息もできないくらいに胸が苦しくなったばかりなのだから。


 なのに謝罪した気分にはまったくなれないでいる。ただ『ごめん』と言っただけの自分を少し上から俯瞰しているような変な感じすらする。そんな自分に薄ら寒い思いがする。なんて偉そうなのだろう。自分は神でもなんでもないのに。


(……俺はどこかおかしいのかもしれない)


 頭と心が一致しないことはこれまでも多々あったが、このところは多すぎる。


 ぽつり、と仁威がつぶやいた。


「お前は悪くない。何もな」


 その反応もまた予想通りで、赦されたことによる感激の気持ちは晃飛の中には沸いてこなかった。仁威ならそう言うだろうと思っていたからだ。しかも、もしも続けるならこうだ。


『これはお前ではなく俺の問題だ』

『俺の人生は俺が決めることだ』

『だからお前が背負うべきことではないんだ』

『お前には関係ないんだ――』


 人生の解釈は人それぞれでいいはずなのに、仁威のそういうところがどうしても憎らしく思える。いや、そうではない。そんなことを言いたいわけではないのだ。自分をもっと労わってほしいのだ。もっと自分のことを受け入れてほしいのだ。良いことでも悪いことでも、仁威の人生に、仁威にとっての重要なことに深く関われる存在になりたいのだ。なのに……。


(……俺は結局変われないのかな)


 仁威に悟られない程度に、晃飛はそっと息をついた。


 仁威に怒りを向けられずに済んだことにはやはり安心した。分かっていても安堵した。なのに罪が消された瞬間、本来の自己愛的な自分が容易に表にでてくるのだからむなしくなる。赦しを乞うだけの罪びとであるはずなのに、卑しくもそれでは満足できないのだから。俺は自分の人生を選びたい性質なんだ、そうあの少女に言った数刻後には、仁威からの同様の発言を受け入れられないなんて。


(やってられないなあ……)


 何を、どうしても。

 自分という人間はこのまま変わることはないのだろうか。


(だったら俺は一生、仁兄にもあの子にも謝りきることはできないってことか……)


 昨日も今も、自分のやることなすことが不服だらけなのは、晃飛自身に納得感がないからだ。何をしても罪をすすぐほどの大業を成せたとは思えない。それどころか、言動の端々に己の自我が必ずあらわれてしまう。抑えられない。そして抑える術がいまだに分からない。


 何が正しいのかが分からない。


 いや、正しいことが定まったとして、それと心が求めることのどちらを選ぶべきかが分からない。だから苦しいのだ。


「仁兄は、さ」


 今も考えるよりも先に言葉が出てしまう。


「もうあの子のことあきらめたんだね」

「……」


 この答えも聞かずとも分かる。昨日剣を持つ仁威から放たれた気には濁りや惑いは見られなかった。心を決めた者にしか放つことのできない、純で確固たる意志が気の隅々にまで行き渡っていた。


 自分という殻をぶち壊したい、そう強く願って仁威と立ち合ったからこそ、晃飛には仁威の心が手に取るように理解できた。……できてしまった。


 仁威は珪己への恋を認めるまでにも散々苦しんできた。なのにようやく自覚したばかりだというのに、仁威はすでにその先へと進んでしまっている。そういったところはこの男らしい。


 仁威にとって、やはり自分とは二の次の存在なのだ。これは確かに唯一無二の恋だと認めても、その恋を捨てる覚悟と強さまでをも仁威は有しているのだ。まるきり自分とは違う、そう晃飛は思った。だから強く惹かれるのだが……それはなんとも悲しい強さではないか。


 仁威は音もなく去っていった。一人残された晃飛は鍋の中、ふつふつと煮える雑炊を見つめながら、これから始まる兄と妹の苦難の道を憂うことしかできなかった。


 晃飛は大きくため息をついた。制御しきれない己自身についても苦慮しながら、誰もいないからこそようやく心からのため息をつくことができたのだった。



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