4.通告
浮上する意識に、珪己は自分がまだ生きていることを知った。
重く閉じられたまぶたをうっすらと開くと、蝋燭の淡い灯りがそばにあることを感知できた。もう少し目を開くと、寝台のそばに晃飛が座っていることも分かった。その目線は斜め下を向き、常にないほど悩ましげな顔をしている。
「晃、兄」
細い声を捉えた晃飛が、ゆるゆるとその視線を珪己に向けた。
「起きた?」
「うん。……あの、どうして?」
それに晃飛が困ったように笑った。
珪己は気づいていないが、この部屋で血に染まったものはすべて晃飛が片付けている。今珪己が寝ている寝台の敷布は当然のこと、掛布も、珪己が身に着けていた寝間着もだ。やるべきことをやる、ただその一心でかりそめの妹の衣をはぎ、体を拭き、韓の指示どおり布を幾層にも重ねたものを股にあてがい、清潔なものを着せた。血のついた布類はすべて韓に持ち帰ってもらった。洗って干せば仁威に見とがめられるし自ら廃棄することも難しいと思ったからだ。
それらの大仕事をようやく終え、まだ半刻もたっていない。
「少し起き上がれる? 薬を飲んだほうがいいね」
「は、はい」
自力で起き上がろうとした珪己を晃飛が押しとどめた。首の下に腕を入れ、少しだけ上体を起こしたところでもう一方の腕で支え直す。実際、介助がなければ起き上がる力も珪己には残っていなかった。腹の痛みはまだじくじくと居座っているし頭がひどく重い。精根使い果たしたかのように全身がだるい。
晃飛が空いた手で脇にある杯を取り上げ、それを珪己の口元にゆっくりと近づけた。ほの暗い部屋、椀の中で褐色の液体がゆらりと揺れた様は、まるで底なしの湖のように見えた。
小さく震えた珪己に気づき、晃飛が珪己を抱く手でなだめるように触れた。
「大丈夫。これを飲めば元気になるから」
「……」
「君はさっき生きたいって言ったよね。これはそのために必要な薬なんだよ」
諭され、覚悟を決めて一気に流し込むと、舌が苦みを感じる前に胃の腑へと薬湯は流れ落ちていった。
「……はあ」
杯から口を離すと、晃飛が軽く珪己の唇を親指でぬぐった。
「じゃあもう一度寝ようね」
言われるがままに横になる。
珪己が視線を動かすと、晃飛は無言でほほ笑んでみせた。
「晃兄」
「なあに」
「……ありがとう」
今この時ほど、この義理の兄に親しみを覚えたことはなかった。
「うん、どういたしまして」
そう言った晃飛がなんとなく泣きそうに見えて、珪己は心配になった。
「晃兄は……大丈夫なの?」
「俺?」
少し驚いたような顔になった後、晃飛が少し笑った。
「俺は平気だよ。平気じゃないのは君のほうだろう」
「ううん、私は平気。大丈夫」
気丈に笑ってみせた珪己だったが、血の気のない顔では痛々しいだけだ。晃飛にあれほど直せと口酸っぱく言われていた敬語も使えないほどに。
そうなのだ。こうして気楽に会話することができない状態で、この少女は気丈に日々を過ごしてきたのだ。男二人に囲まれて毎日を過ごして、神経がすり減らないほうがおかしい。
思い当たった事実は、今日、幾度も晃飛を傷つけるものの一つとして心にしまわれた。今後二度と忘れてはいけない事実として。
「あの……さ」
「なあに?」
「さっき君が言ったこと、覚えてる?」
「私が?」
逡巡し、珪己はこくりとうなずいた。
生きたい。
自分の道は自分で選ばせて。
そればかりを訴えたことを覚えている。
「じゃあ俺が言ったことも覚えてる?」
「うん……。嬉しかった。ありがとう」
「俺さ、仁兄のことが昔から好きなんだ」
「うん、知ってる」
「でもさ。俺、君と同じで、大切にしたいことは自分で決めたい性質なんだ」
訝しげな珪己の表情に気づき、晃飛が目元を和らげた。
「俺は君との約束を守るよ。たとえ仁兄を裏切ったとしても……ね」
そこで一呼吸置いて晃飛が続けた。
「仁兄が帰って来る前に話をしておく必要があって、だからこうして君が起きるのを待ってた」
無言で見つめる珪己と晃飛の視線がかち合った。
そのまま晃飛はまっすぐに珪己を見つめ、言った。
「君の体調がこのところおかしいのは、おなかに子供を宿しているからなんだってさ」
「え……?」
これ以上はないというほどに珪己の目が見開かれた。
だが言葉にならないようで、少し開いた口からは言葉が紡がれない。
「こ、ども?」
ようやくそれだけを言えた。
それに晃飛が深くうなずいた。
「そう、子供。君は今、妊娠している。さっき医師に診てもらったけど順調に育っているそうだよ。年が明けたら産まれるそうだ」
「こども……? 私に? こどもが……?」
珪己の表情からは驚き以外の感情は読み取れない。
だが念のため晃飛は尋ねた。
「君さ、恋人とか婚約者とかいるの?」
珪己が小さく首を振った。
「じゃあさ、誰かに無理やりされたとか、そういうことだったりする?」
それにはより大きく首を振った。
「でも誰との子供かは分かっている、そうなんだね?」
こくりとうなずいたのは素直な珪己らしい。
ここまで晃飛は相手の男の候補に仁威を挙げていない。それはあり得ないことだと、二人をよく知るからこそ訊く必要はなかった。行きずりの男と遊んだのか、それもまた愚問だ。珪己がそのような性分ではないことは十分に承知している。
「じゃあさ……このこと仁兄に言う? それともまだ言わないほうがいい?」
この問いには珪己は即答できなかった。
その様子に晃飛は薄く笑った。
「だよね。分かった。じゃあしばらくはこのことは俺たちだけの秘密だ。それでいい?」
それに不器用にうなずいた珪己の頭を、晃飛は軽くなでた。
立ち上がり部屋を出て行こうとする晃飛を、珪己はつい呼び止めていた。
「あの」
「なあに?」
振り向いた晃飛を直視できず、珪己は目を伏せた。
「軽蔑、する?」
「……いいや?」
「ほんとう?」
「君のことだ、きっとそうする必要があると思ったからした、そういうことだろ?」
「……うん」
「きっと仁兄もそう思うよ。君はそういうことを軽々しくするような子じゃないって、仁兄は知っているからね」
「そう……だよね」
それでも頬を伝い出した涙を、晃飛は手を伸ばしてぬぐった。
「なにも心配しなくていいよ。君は自分のことだけを考えていればいいんだ」
「晃兄……ありがとう」
「もう寝な。しばらくはゆっくり養生するんだよ」
珪己は涙に濡れた目で晃飛を見上げた。そこには狐のような目で優しくほほ笑む青年がいた。こんなふうに慈愛に満ちた笑みを浮かべる晃飛は見たことがないと思いつつ、安堵する気持ちにつられて、珪己は再び眠りの世界へとおちていった。
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