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3.祈り

 晃飛は室の外で不安を抱えながら医師の処置が終わるのを待っていた。


 家に呼んだ医師は悪の道に染まる者を専門に診る男で、この道数十年、犯罪に関わる者を幾たびも救ってきた。口の堅さと腕の良さは、晃飛が知る限りこの零央一だろう。伝手は当然、屯所の荒くれ共の一人だ。


 そんな医師を急患だと言って無理やり連れ帰り、珪己のいる室を開け、晃飛は真正の驚きで声を失った。寝台の上、横たわる珪己の下半身の方に水たまりのごとき血の広がりができていたからだ。


 灯りのない部屋はただただ暗かった。風を通すために開け放ったままにしてあった窓の向こうにも、深い群青の夜空が広がっているだけだった。だが珪己の顔色が一層悪くなっているのは夜の訪れだけが理由ではなかった。実際、思わず触れた手の冷たさは生きている人間の者とは思えなかった……。


 同じように温もりのない手を握った幼少時を思い出し、それに付随して、封印していた感情が晃飛の胸に一気にせり上がった。


 それは死への恐怖だった。


 愛犬が死に、その同じ日に同い年の少年が重傷を負った。その少年はこれが原因で虚弱体質になり、七年後に風邪をこじらせあっけなく死んでしまった。


 この二つの死には共通点がある。


 それは死を引き起こした主要因が晃飛にあるということだ。


 実家を出てここ零央で一人暮らしを始めたのは、なにも金稼ぎに最適な土地を探し行き着いた末のことではない。過去の痛みを忘れて過ごせる場所を求めた結果がここ零央だったのだ。


 生まれ育った土地にはみじめで辛い思い出しか残されていない。だが仁威のそばにいても敬愛と悔恨という両極端な感情ですり減っていくだけであることは予想がついた。もとより、仁威は一人で生きることを選んで開陽に旅立ってしまっていた。だから故郷と開陽の中間に位置するこの街に住むことにしたのだ。


 そんなこの街に、今、なぜか。


 晃飛が逃げてきたものすべてが集合している。


 そしてたった今、この目の前の戸の向こうでは、三つ目の命が危機にさらされている……。


 晃飛はずっと壁に背をもたれている。そうしないと立っていられないからだ。だがそれすらも辛くなり、ずるずると背を滑らせ、しまいには廊下に尻をついていた。


 冷えた床が下半身から体温を奪っていく。顔が横に向いたことで視線が庭の方をとらえた。空に瞬く星々の光が目に染みた。


 あんなに空は美しい。星はまばゆい。そのことにふいに気づいた。先ほどまで無我夢中だったから、あの空の下を駆けずりまわっていたというのに、夜空の美しさにはまったく目がいっていなかった……。


 何もかもが後にならないと気づけないなんて……。


 晃飛は頭を思いきりかきむしった。


「俺は馬鹿だ……」


 自分自身が変わらないというのに、現実も未来も都合のいいように変貌するわけがないのだ。


 たとえ住む場所を変え人付き合いを断ったとしても、変わらぬ自分には変わらぬ人生を歩むことしかゆるされないのだ。


 そうやって自分を甘やかしてきた結果が――これだ。


 昼間、仁威と立ち合ったことで生まれ変われる気がしていた。

 その予兆に晃飛はひどく満足していた。


 だがそれでは遅かったのだ。


「真白……透威……」


 気づけば晃飛は天に住まう二つの魂の名を呼んでいた。


「俺、お前たちのことをちゃんと悼んであげることができていなかった……。俺、お前たちのことをまるで嫌な物のように思うようになっていた……」


 過去の思い出が瞼の裏に鮮明に現れていく。


 斬撃に倒れた真白と透威。

 その隣でただ怯え震えていただけの自分。


 そんな自分を見つめながら息絶えた真白。

 碁石のように丸くて黒い真白の瞳――。


 血を流しながらもほほ笑んでみせた透威。

『大丈夫か?』とほほ笑んでみせた同い年の少年――。


 するともう晃飛は嘘をつけなくなった。その時の自分の素直な感情には、もう嘘はつけなかった。


「本当は俺、お前のことがすごく好きだったんだ。いつも一緒にいてくれてうれしかったんだ。だから俺を助けてくれたことも……」


 ぐっと喉が鳴った。


「本当はすごく感謝してたんだ……」


 追憶の光景は行っては戻るを繰り返しながら再現されていく。


 暴れる酔っ払いの男。

 その手に持つ剣が放っていた鈍い光。

 その輝きに臆した自分。


 見える追憶の光景は、またももっとも悲惨な瞬間にまでたどり着く。


 振りかぶられた剣。

 斬られた真白。

 斬られた透威。


 護られていただけの自分。


 すべては痛みを増幅せんとばかりにゆっくりと再現されていく。


「お前たちが斬られて、死んでしまって、本当に辛くて……悲しかったんだ……」


 頭を抱える両手はいつしか組まれていた。


「真白、透威……。お願いだ、あいつをお前らのところに連れていかないでくれ。あいつのことを救ってくれ……!」


 組んだ両手を額にこすりつけながら、晃飛は一心不乱に祈っていた。


「あいつまで死んでしまったら俺は……!」


 どれだけ長い時間がたったのだろう。

 かたりと戸が開かれる音がし、晃飛ははっとして顔を上げた。


かんさん!」


 韓と呼ばれた白髪の老人の手には血が付着した手巾があり、紅梅を刺繍したかのような鮮血が散らばっていた。厳しい顔をする韓が、ほうとため息をついて告げた。


「命に別条はないだろうよ」

「……そっか」


 それを聞いただけで晃飛は脱力してしまった。


「そっか……。よかった……」


(ありがとう真白。ありがとう透威。本当に……ありがとう)


 床の上でくたっと姿勢を崩した晃飛を、見下ろす韓が小さく睨んだ。


「まったく、梁先生はもっと女子を大切に扱わんと困るな」

「うん……そうだよね」


 素直にしょげる晃飛は珍しい。だが韓は責めることをやめなかった。


「女はな、お腹にやや子がいるときは体調が急変することがあるんだ。きっとあの女子も昨日から下のほうに出血があったはずだぞ。旦那ならな、女房にはめいっぱい優しくしてやらないとだめだろうよ」

「…………え?」


 感激と歓喜、それに反省の念に浸っていた晃飛は、耳に入ってきた言葉を理解するのに時間がかかってしまった。


 意味が分かったとたん、立ち上がり韓の肩を掴んでいた。


「適当なことを言わないでくれる? 一体なんのこと?!」


 常にない真剣みを帯びた晃飛に迫られ、韓がやや動揺した。


「おいおい、梁先生。まさか知らなかったのか?」

「だからなんのことかって訊いてるだろ!」

「おい、力を入れすぎだ」


 肩に食い込む指の圧力に眉をしかめる韓に気づき、晃飛はあわてて手を離した。


「おお、老人になんてことをしやがるんだ」

「ごめんよ、あんまり驚いたものだから」

「何言ってるんだ。やることやればガキができる、そんなの当たり前のことだろう」


 周知の事実に、より一層晃飛の顔が強張った。

 だがなんとか震える声で尋ねた。


「子供は、子供は無事……?」

「ああ無事だ。あれだけ血が出たわりにはしっかりと息づいているよ。母体が丈夫なんだろうな。さすがは梁先生の女房か?」

「……いつ。いつ生まれるの?」

「そうだな。早くても新年になってからだろう。冬の間には生まれる。って、なんだその顔は。父親になるのがそんなに不安か?」


 茶化されている、そう頭で分かっていても晃飛はうまく笑えなかった。


「大丈夫だ。どんなまぬけな男だってな、赤ん坊が生まれれば父親になるんだよ。子供が梁先生を父親にしてくれる。そういうもんなんだよ」


 晃飛は唇をいったん引き締め、それから決意を持って開いた。


「韓さん、このことは誰にも言わないでくれないか。頼む」


 頭を下げた晃飛には韓の表情は見えない。

 だが願いは了承された。


「いつもどおりたんまり謝礼をもらえれば、わしは梁先生の家庭のことは誰にも言ったりはせんよ」


 金で解決できることの素晴らしさを晃飛は身を持って知った。



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