2.なにかが違う二人
晃飛は帰宅するや、庭で新緑まぶしい作物に水をやっていた義妹、楊珪己を捕まえ、さっそく愚痴を吐き出した。
「ねえ、ひどくない? 日が昇るまであれやこれやと仕事させられてさ、もうくたくただよ」
太陽はすでに地上にすべての姿をさらし、早朝特有の貴重な白光でもって少女の体を瑞々しく輝かせていた。ただ、当の珪己はせっかくの爽やかな朝だというのにやけに渋い表情をしている。
「そんなにひどくないと思いますけど?」
発言もぞんざいである。
「ええっ。妹がそんなに非情な女の子だとは知らなかったよ」
わざとらしく身をよじってみた晃飛であったが、冷めた目で一瞥されただけだった。
「昨日詳しく聞きましたよ。そういうのを自業自得って言うんだって知ってました?」
それは妓女の一人、桔梗をけしかけて、袁仁威――今は呉隼平と名を偽っている――を襲わせた一件についてである。あの人は女ひでりだから少し迫ればきっところっといくよ、そう晃飛に言われ、妓女にしては初心な桔梗が意を決して行動に出たのが二日前の夜のことだった。
意中の男を自室に連れ込み、押し倒し、唇を奪い――。近衛軍第一隊隊長であったことを知らないにしても、そのような男を相手に、桔梗は最大級の戦果を得ることに成功したのである。
だが結局は仁威にあっさりと振られた。仁威にしても突然のことに驚いただけで、また、『女には冷たくしてはいけないのかもしれない』と一寸考えてしまい抵抗しきれなかっただけのことだったのだ。だが正気に戻れば心の通わない女、欲を抱かない女に触れられたくもなかったのである。そういう潔癖な心根を仁威は有している。
桔梗を無下にし、仁威はその場を去った。それは文字通り、あっさりと。
その後、桔梗が泣くやら怒るやらで、真夜中の環屋は一時騒然とした。しかもその翌日――つまりは昨日――など、当の桔梗が店から姿を消してしまい、騒動は最大級にまで拡大したのだった。
結局夕方には、泣きはらした顔を持て余し、桔梗は自ら戻ってきた。だがすぐに自室にこもってしまった。扉の向こうで聞き耳を立ててみれば、時折泣いている気配もしている。
そのため、芙蓉は仁威をしばらく店に出さないことに決めた。失恋の痛手で神経質になっている桔梗を刺激しないためだ。その代替要員として白羽の矢が立ったのがこの騒動を引き起こした張本人、晃飛だったというわけだ。
以上のことを、当事者である晃飛はすべて理解している。だがそれを知っているくせに平気な顔でしらを切った。
「いいや知らない」
すると途端に珪己の眉間がひそめられた。
「あっそうですか。じゃあ分かるまで毎晩働きに行けばいいんですよ」
女心を弄んだ罪は重い。
いや、男でも女でも、他人の心を利用するなどしてはならないことだ。
そう訥々と語り出した珪己に、晃飛が血相を変えた。
「おいおい! 俺は昼も普段通りの仕事があるんだよ。本当に大変なんだぞ?」
自分のこととなると一生懸命になるあたり、まったく反省していないと思われても仕方がない。だから珪己もまじめに返答するのが馬鹿らしくなったようだった。
「だったらもう寝たらどうですか。私、これから朝餉を作るので忙しいんですけど」
言われると、昨日の夕方以来何も食べていないことに晃飛は気がついた。
「だったら俺も一緒に食べようかな。なんだか腹が減ってきちゃった」
現金なほど明るい声に、
「……じゃあ用意するから少し休んでてくださいよ」
困ったように眉を下げた珪己の表情からようやく蔑みの色が消えた。純粋に晃飛を心配するかのように。
昨晩以来、晃飛は店で針のむしろのような視線を受け続けていたのもあり、こうして自分を心配してくれる存在がいることに途端に嬉しくなった。ここが庭だというのもいい。少年時代、晃飛は嫌なことがあると決まって庭に出て飼い犬を抱きしめていた。血の通う温かな体を腕の中に入れてじっとしていると、もやもやとした気持ちが不思議と溶けていくのだ。
だから晃飛は当然のことのように珪己のことを抱きしめようとした。
だがその前に、その広がりかけた腕を背後の人物に捕まれた。
そちらを見た珪己の顔が、分かりやすくぱっと輝いた。
「おはようございます!」
振り返り晃飛も言った。
「おはよう仁兄。俺まだ何もしていないからね」
それに無感情に答えたのは、もちろん袁仁威だ。
「見ていたから分かる」
相変わらずの威風堂々とした佇まいは、常人が朝一から示す態度ではない。だが仁威であれば話は別だ。本人が以前公言したとおりで、仁威は常に自らを律しているからだ。何事にも対応できるような状態を常に保っておくこと、それが武芸者にとって重要なことなのだ、と。
だが。
「……あれ?」
「なんだ」
「なんか……」
仁威を見て、あらためて珪己を見て。
晃飛は気づいた。
「二人、なんか違わない?」
そう言われ、一層明るい表情になったのは珪己で、照れたように視線を落としたのは仁威だった。
これが逆なら分かりやすい。血の繋がらない年頃の男女が昨晩二人きりでいたのだ。そんな状況になれば、あったとしてもおかしくないことが起こっても仕方がない。仁威が晃飛との『約束』を守らなかったのだと分かる。
だが逆ではない。
だから晃飛にも状況を理解できなかったのである。
しかしそこは根が素直な珪己が自ら説明してくれた。
「実は昨日、久しぶりに二人でいっぱいお話をしたんです。それが嬉しくって」
「ふーん……そう」
ちらりと横目で仁威を見ると、仁威は視線をあさっての方向にやって頭を掻いた。
「なんか、本当に『ただお話をした』だけみたいだね」
「そうですけど。何か?」
きょとんとする珪己は本心からそう思っているようだった。
いや、実際そうだったのである。