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3.ほどほどの街で

 大通りに入ったところで、二人の兄弟は出合い頭に一人の青年とぶつかりそうになった。


「うおっと。危ねえなあ、おい!」


 あわや衝突寸前で踏みとどまり事なきを得たが、その青年は謝るどころか足を止めもせずに一目散に駆けていってしまった。怒りが収まらず青年が去っていった方向をにらみつける弟、氾空也を、兄の氾空斗が肩に手をかけてなだめた。


「旅先でそんなふうにけんか腰になるのはよくないぞ」

「だって兄貴、あいつ全然前を見てないんだぜっ?」

「いいから落ち着け。それよりも今晩の宿を早く決めてしまおう」


 兄の言い分はもっともで、空也は留飲を下げると持ち前の切り替えの速さで兄の手をとった。


「じゃあさっそく行こうぜ」

「ああ」


 答える空斗は苦笑いを浮かべてはいるものの、内心、弟の朗らかな表情に満たされていた。


 この二人が首都・開陽で禁軍の武官であったことは以前にも述べている。彼らは警備団の同じ都(百人単位の集団)に所属し、共に街の守護にあたっていた。ただし、守護といっても、この時代の開陽は非常に安全だったから、任務のほとんどは巡回で占められていたのだが。つまり、長剣を腰にさして決められた区域を歩くだけの日々だったということだ。


 だがこの晩春、その平穏ともいえる日々に突然終止符が打たれた。


 枢密院事の呉隼平に指名され、枢密使の一人娘の警護をするよう言いつかったことがことの発端だった。その任は若い二人の生活に刺激となりこそすれ、難しいものではなかった。……はずだった。実際、隼平もそう言っていた。警護をする人員を念のため増やしておきたいだけで、基本的には枢密使の娘と世間話でもしていれば済むはずだから、と。


 だが結局、二人は枢密使の娘とは一度も対面することはなかった。同じ警護を担当する近衛軍第一隊隊長――元武官の二人にとって天上人のような存在――とも会うことはかなわなかった。代わりに二人がいきなり直面したのは思いもよらぬ闘いの場、芯国人との決闘だった――。


 通り沿いにある宿坊を検分しつつ歩く二人は黙っている。どの宿が自分達にふさわしいかを吟味しているのだ。懐には退職時に得た過分な金子が入っているからどの宿にも泊まることはできる。だが無駄に贅沢をするつもりはない。


 数歩前を歩く空也が背中を軽く掻いた。


「まだ痛むのか?」


 兄の問いかけに空也は振り返ることなく、背を掻いたその手をひらひらと振ってみせた。


「痛いっていうより痒いだね」


 二人が禁軍を辞めた理由……それは空也が芯国人に背を斬られたからだった。


 すぱっと、斜め一文字に斬られた背は、出血は多かったが、当時そばにいた女僧の的確な処置のおかげで命を及ぼすほどの傷とはならなかった。だが長い傷をふさぐために何十針も縫うはめになり、しかも右肩の筋の損傷は完治するまでに至らなかった。


『もう剣を握ることは難しいでしょう』


 うつ伏せで眠る空也のそばで、そう医官に告げられた瞬間。

 空斗は思わず天を仰いだ。


 空也が退官することが決まると、空斗もそれに追従した。お互い天涯孤独の身で、空也のいない開陽の街にも禁軍の武官という職にも、もはや魅力は感じられなかったのである。


 前を歩く空也がぴたりと足を止めた。


「なあ兄貴。腹減ってこねえ?」


 その目が向く先には食堂があった。


 まだ夕餉の時間には早いが店の中は活気づいているようで、出入りする客が戸を開けた瞬間、店内の騒がしい声や出汁のいい香りが二人の方にまで届いた。鼻をくすぐられ、蝶が蜜に吸い寄せられるように、二人はその店へと入っていった。


「へい、らっしゃい!」


 二人の前に水の入った椀を二つ出した親父が、若者二人の顔を見比べてにかっと笑った。


「おや、兄弟水入らずで旅行かい?」


 それに二人は破顔した。血のつながりがないからこそ、そんな些細な一言が嬉しくてたまらないのだ。


 そう、実は二人は兄弟といっても血のつながりはない。義兄弟だ。同じ都に組み込まれた武官同士、姓が同じで名前が似ていたから、そんな些細なことがきっかけで親睦を深め、ついには兄弟の契りを結んだというわけだ。


「そうだよ。ここのおすすめってなんだい?」

「そりゃあやっぱり肉麺だね。零央名物と言やあ肉麺、肉麺と言えばこの店さ」


 そう言い切る親父は真実自分の店が一番だと思っているようで、その潔い態度に二人は思わず視線を交わした。だがどちらの目にもこの状況を面白がっている色しかない。


「じゃあその肉麺を二つくれ」

「まいどありい!」


 意気揚々と厨房に去っていった親父は、やがてすぐに両手にどんぶりを持って現れた。まだ水を数口含んだだけであった二人はその速さに素直に感嘆した。


「うわっ。早え!」

「開陽の屋台並だな」

「おや、お客さん方は開陽から来たのかい?」


 机の上に置かれたどんぶりは見るからに重そうだ。たっぷりの太麺、その上に盛られた肉の山、その上に散らばるネギ、並々と入った汁。


「ああ、そうだよ。でも屋台の麺よりもこっちのほうがうまそうだ」


 ぺろりと舌なめずりをして、空也がさっそくどんぶりを持ち上げて汁をすすった。


「お、うめえ! 兄貴、これすげえうめえや」


 空斗は弟に笑みを返し、自分はまず麺をすすった。この旅をはじめて何がよかったかというと、弟の無邪気な笑みをたくさん見られることだ。背中に大怪我を負って以来、弟は開陽ではほとんど笑わなくなっていたから。だが旅に出ると空也の調子は少しずつ戻っていき、食欲も以前と同等になりつつある。


「お客さん方はいつまでここにいるんだい?」


 ちょうど暇を持て余していたからか、旅人と会話することが好きなのか、親父は二人のそばにいつまでもいる。だがそれは二人にとっても好都合で、その土地の様々な情報を仕入れておきたいから親父の会話に乗ることにした。


「いつまでってのは決めてないんだけどね」

「へえ」

「実は二人で住む場所を探してるんだ。ここっていい場所かな?」


 二人はこれからの第二の人生を過ごすための土地を探していた。零央に来たのは開陽からもっとも近い都市の一つだからだ。もちろん開陽の北東や南東にも都市はあるが、その先には大海しかなく、陸の続く西に進む方が国内全体を回りやすくなるというわけだ。ちなみにここが良くなければ次は南かさらに西に行くことになっている。北は寒く食料も乏しいので、傷が癒えきっていない空也には不向きだとは思っている。


「いい場所かどうかは住む人間次第だね」


 親父の解答は二人にある種の信頼感を与えた。


「じゃあここはどういう人間だったら住みやすいんだ?」


 空斗の問いに親父がよどみなく答えた。


「昔から住んでいる奴だろ。それにほどほどがいい奴かな」

「ほどほど?」

「一番になりたいような奴が住む場所じゃあないってことよ。だがここならほどほどには暮らせる。だがそれが結局は一番じゃないかって俺なんかは思うがね。贅沢はできなくてもさ、毎日お天道様を見て、夜には布団で気持ちよく眠れれば最高じゃないか。あ、だがお客さん方のような若いもんには分からないかも知れんがね」


 親父が少し照れたように頭を掻いた。しゃべりすぎた自分に羞恥を感じたらしい。だがそれを聞く二人の面持ちは神妙なものになっていた。


「いいや、分かる」

「うん……やっぱそういうのがいいよね」


 二人の少し伏せた目が、気配が、長年生きてきた親父の感性をまさぐった。


(きっとこいつらはいろいろ苦労してきたんだな……)


 そう思ったら急に二人の若者がいじらしく思えてきて、親父は二人の頭をぐりぐりっとなでた。


「よし、今日は俺のおごりだ!」

「ええっ」

「いいのか?」


 驚きに顔を上げた二人の表情にようやく若々しさが広がり、それに嬉しくなった親父は腕組みをしてにんまりと笑った。


「男に二言はねえ。ただし」

「ただし?」


 やや表情を硬くした二人に、親父は満面の笑み浮かべてみせた。


「ただしこの街に住むことになったらまた食べに来てくれよ。ほどほどの街にだって最高のもんはあるってことを思いだすためによ」

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