2.帰りを待つ者
晃飛が帰り際に厨房に寄ると、調理担当の男が二人せわしなく働いていた。この時間帯は夜のための仕込みで忙しいのが常で、すべての窯に火が入り、また、すべての鍋からことことと煮える音が聴こえる。
それらすべてを無視し、晃飛は棚の上の方を開けると、奥に隠されていた砂糖の瓶を取り出した。先ほどの芙蓉との会話で腹の虫がおさまらず、高級な品に手をかけたというわけだ。去り際、男二人にじろりと睨まれたが、晃飛は気にすることなく出ていった。
裏の勝手口から出ようとしたところで、二人の男女が会話する声が聴こえた。反射的に戸のそばに背をつけた晃飛は、小さく隙間を開けてそちらの方を覗いていた。戸の向こう、十歩先ぐらいの位置にいるのは、ついさっき母との話題に出た仁威と桔梗だった。
二人は肩を並べ、向こうの空を仰ぎ見ながら何やら話をしている。手を伸ばせば触れられるくらいの、近くて遠い微妙な距離を保ちながら。だがそれも仁威を知る人間からしてみれば相当に近い距離で、それゆえ晃飛は二人の姿を見つけた途端、内心愉快にもなり不愉快にも思った。
(なんだよ、仁兄は妹のことだけ考えていればいいはずなのにさ)
(なんで他の女と油を売ってるんだよ)
(ていうか、なんでこんな時間にここにいるんだよ)
夕暮れ近い時間帯、普段ならば仁威はまだ家で珪己と共にいるはずで、勤務時間にもなっていないのにここにいることに、晃飛は次第に腹が立ってきた。
(妹は体調が良くないっていうのに何してるんだよ)
実は。
この頃の珪己の体調は悪化の一途をたどっていた。
暑気にあてられただけだから大丈夫です、そう言って無理やり笑ってみせている珪己だったが、食欲は全盛期の一割もなく、今日などは朝から白湯を少し口に含んだだけだった。
だったら自分だけでもさっさと帰宅すればいいのだが、そこは元から好奇心旺盛な性質、二人がどんな会話をしているのか立ち聞きしたいという誘惑には勝てなかった。こういう自分に嫌気がさすのはこのところ恒例だ。
「そうか。実家は砂南州のほうなのか」
どうやら身の上話をしているらしい。
「それがまたなぜこんなところに」
「こんなところって!」
桔梗は肩を震わせると、笑いを含んだ声で答えた。
「女が自分から身を売る理由なんてたった一つしかないわ。お金が必要だったからよ」
その言い分は当然で、そんなことを直球で尋ねた仁威に機嫌を損ねても仕方のない問いだった。だが仁威は素直に謝るどころかさらに質問を重ねていった。
「なぜ金が必要だったんだ?」
「よくある話よ。お金がなくて、長女の私が残された兄弟の食い扶持を稼ぐ必要があったってわけ」
そうは言うものの桔梗が醸し出す雰囲気は朗らかだ。まるでなんてことのない世間話をしているかのようでもある。
以前、晃飛が話しかけた時の桔梗は、もっと身も心も堅く閉ざしていた。妓女である自分を十二分に受け入れてはいたが、恋について語る時は怯えているようにすら見えた。例えるなら、恋を分不相応な宝玉のように思っているかのようで、まだ知らない世界への憧れと緊張とで、晃飛が相手だというのに言葉がうまく出せない時すらあったのだ。なのに今は違う。
仁威の方も、桔梗に迫られた翌日など相当に神経質になっていたのに、今は当の加害者である桔梗と二人で屈託なく話をしている。
「では売りで得た金は故郷に置いてきたのか?」
「そうよ。でもそれだけじゃ足りないから今もお金を貯めてるの」
「そうか。お前は偉いな」
さらりと端的な賛辞ではあったが、それに桔梗が活気づいたことは、覗き見る晃飛にも手に取るように伝わってきた。
「新年にはいつも一年かけて貯めたお金を持って帰郷するのよ。それとお土産をたくさん」
桔梗の語る言葉に一段と力がこもっていく。
「弟や妹が笑顔で出迎えてくれて、ありがとうって言ってくれたら、また次の一年も頑張れるの」
「その気持ちは俺にもよく分かる」
「ほんと?」
「ああ。大切な者と繋がっていること、助けになってやれること。労われること。そのどれもが金銭に変えられない尊いものだよな」
腕を組みしみじみと考えこむ仁威の背中はやや丸くなり、それもまた晃飛にとっては珍しい光景だった。
「……だがお前はいいな」
「え? どういうこと?」
「あ、いや」
思わず発してしまった言葉を聞きとがめられ、仁威は少し困ったように口元に手をやった。だが最終的には桔梗の無言の圧力に屈したようだった。
「お前には帰りを待っていてくれる者がいるんだろう? それが、な」
「それって」
桔梗が仁威に完全に向き直った。そうすると晃飛の方からは桔梗の横顔がしっかりと確認できた。まだ夜向きの化粧を施していない女の顔は、やや疲労の色は見えるものの瑞々しい生気を放っていた。そして今の桔梗は恋に臆病などではなかった。恋する相手に対して感じる当然の欲求、『相手のことをもっと知りたい』、これにとことん素直になっていた。
「隼平さんには待っていてくれる人がいないってこと?」
結局、仁威が思索の入った時間はごくわずかだった。腕組みをとくと、また先ほどまでのように少し視線を上げて空を眺め出した。
「そうだな……。俺にはそういう存在はない」
空には薄淡い雲が浮かんでいるが、そのどれもが夕闇の色に溶けるように霞んでいる。もうしばらくすれば闇に完全に同化し見えなくなるだろう。
「家族はいないの? 恋人も? 好きな人も?」
矢継ぎ早の質問に、ようやく仁威が桔梗の方を見た。
少し困ったような表情を浮かべながら。
「それらがいることと待ち人がいることは同じではないから……な」
真実困ったように、小さく笑いながら。
その表情を見た次の瞬間――晃飛の足は自然と後退していた。
一歩、二歩と後ずさりし、その場から逃げ出していた。
表玄関から飛び出した晃飛のことを店の番頭が胡乱気に見やったが気に留める余裕などない。出た瞬間、通りで遊んでいた子供たちにぶつかりそうになって慌てて避けつつ、それでも晃飛は全速力で駆けていった。
「危ないよ!」
きゃんきゃんと吠えるような子供たちの非難の声は、晃飛が駆ければ駆けるほど遠ざかっていき、やがては時の流れと共に余韻すら残さずかき消えた。
もう向かいの空の大部分は群青色に変化している。そこには白く小さな星が数個見えるだけだ。晃飛が走る方角だけに、沈みきった太陽が地の底から放つわずかな陽の色を確認できる。そのあたりにだけ千切れた雲が儚げに漂っているのが見える。先ほどまで仁威が眺めていたものと同じような、すぐにでも消えてしまいそうな雲が……。
そこにあるのに見えなくなるもの。
確かにあるのにそばにはいられないもの。
名残惜しそうに、だがそれが自然なことのように雲の消えゆくさまを眺めていた仁威――。
その姿を振りきるかのように、晃飛は西日に向かって止まることなく駆けていった。
通り過ぎる者たちの多くはそんな晃飛を気に留めることもなく、一日の終わりを締めくくるために、それぞれがそれぞれのやるべきことをし、帰るべきところへと帰っていったのであった。
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