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1.開き直る愚息

 零央一の妓楼として名高い環屋には、今日も女将の不肖の息子が訪れていた。


 もう成人しているというのに二日に一回はやって来て、母親の部屋にひたすらこもるこの青年。以前はほぼ毎日来ていたから、その頃よりは随分ましだ。だが青年を見る周囲の目は以前よりも冷ややかになっている。ただ、それも無理はなかった。去り際に厨房からちゃっかり食糧を奪っていく習慣は以前から憎たらしいし、先日、店の女の初心な恋を弄んだことも記憶に新しい。


 しかし本人はそんな風評もどこ吹く風で、今日も母親から恒例の報告を受けていた。


「へえ。仁兄、結局は桔梗と仲良くなったんだ?」

「だから仲良くなったというほどのもんじゃないって」


 母親――芙蓉はずっと渋い顔をしている。息子と共に過ごすひと時といえば、一般的には心温まる大切な時間なのだろうが、芙蓉にとってはいささか違う。それはもちろん、幼少時に一度捨てた息子との距離間をつかみきれていないからであり、また、自分の元を訪れる息子が常に不埒なたくらみ顔をしているからでもあった。芙蓉とて人間であるから、そういう人物と対峙し続けていれば心が落ち着かないのも無理はない。


 たとえば今も息子――晃飛は用心棒を頼んでいる男のことを仁兄と言った。本人が呉隼平と名乗っているというのに、だ。これまでも晃飛は常にその男のことを仁兄と呼んでいるし、以前一度訪ねた息子の家では、自称・呉隼平の妹だという娘までもが居ついていた。しかも、息子含めて三人で義兄弟の契りを交わしたとも言っていたが……どこまでが本当なのかは定かではない。


 まず、隼平とあの娘が実の兄妹なわけがない。

 そう芙蓉は断じている。


 娘はあきらかにいいところのお嬢さんで、隼平はそうではない。故郷に住んでいた頃、芙蓉は隼平もとい『仁兄』と同じ土地で暮らしていたはずなのだが、残念ながら芙蓉の記憶には何一つ残っていない。晃飛は芙蓉が蒸発した後に武芸を始め、それが仁威と晃飛が知り合うきっかけとなったからだ。村の子供一人、覚えていなくても仕方がない。


 だから芙蓉は自称・呉隼平のことを『息子が恩義を感じている大事な人』であり『武芸に関する仕事をしていたわけありな男』という認識しか持ち合わせていなかった。娘に関しても、湯場で何度か会話をした程度だから、首都・開陽で贅沢三昧の暮らしを送っていたお嬢様であることくらいしか知らない。


(単純な推理をすれば、隼平が愛する女というのがあの娘なんだろけどね……)


 いったい晃飛が何をしようとしているのか。何を考えているのか。芙蓉にはさっぱり分からないでいる。


 だが晃飛にそれを追求したところで素直に答えるわけがない。陰で隼平や娘に問いただすことはいつでもできるが、それが晃飛の知るところとなったらきっと逆上するだろう。そういう息子なのだ。


 そういう褒められない性格は、悲しいかな、まだ晃飛と再会して間もない芙蓉にも把握できている。表面上は親しみやすそうな性格をしているくせに、自分の中には踏み込まれたくない確固たる領域を持っている、はなはだ面倒な男。繊細というか、頑固というか。複雑なようでいて単純な、芙蓉から見れば晃飛はまだまだ大人になりきれていない少年、子供みたいなものなのだ。


 そんな母の複雑な心境を悟ろうともしないのもまた晃飛らしい。こちらを向く瞳は先ほどからやけにきらめいている。それは大発見をした時の幼子の様子を彷彿させた。


「でも二人で言葉を交わすようになったんだろ?」

「まあね」


 そう答えつつも、いったい何がそんなに面白いのか芙蓉にはてんで分からない。


「それってあの仁兄相手にすごいことだよ」

「ああそうかい」


 芙蓉は頬杖をつくと、斜めに体を傾けた。これ以上晃飛と正面から向き合っていることに心底疲れてきたからだ。この茶番じみた日々はいつまで続くのだろう。だが強く拒否することもできない。なので、


「もう二度と桔梗に関わるんじゃないよ。ああいうもめごとはこりごりだからね」


 これで会話を終いにするつもりで、あらぬ方向に向かって強めに言ったのだが、


「ああいうって?」


 無邪気な物言いで返され、芙蓉は思わず晃飛を見返してしまった。自分の息子は実は白痴なのかもしれない、と内心怯えながら。食い入るように見つめられ、晃飛は意図を理解したのだろう、やがてくすっと笑った。


「やだなあ。分かってるって。もう何もしないよ」


 それでも視線をはずそうとしない芙蓉に、晃飛がその鋭利な目を細めた。細めることで、両の眼に抜き身の刃を備えたかのように、晃飛の雰囲気ががらりと変わった。何を護ろうとしているのかは不明だが、晃飛の変化からは己自身を防衛するために抜刀したかのような、そういう気配が感じられた。


 芙蓉はただの女であるから、闘いだとか武芸だとかにはとんと疎い。それでも、晃飛の豹変ぶりに対して、親として一つの例え話をしてみせるだけの余力をかき集めることはできた。


「なんだかあんた、子犬みたいだね」

「はあ?」


 より一層細めた晃飛の瞳の奥に、夜空に輝く一等星のごとく強い感情が映った。武芸経験のある珪己がこの視線を受けたら、その瞬間身を固くし怯えただろう。何か失態をおかして晃飛の逆鱗に触れてしまったのか、と。だが芙蓉には通じなかった。いや、構わなかっただけか。親が最後の一線で子供に遠慮するなんて、芙蓉の有する哲学に相反するからだ。


「犬っころがなんとかして自分を護ろうとして、ぐるぐる唸ってるみたいだって言ってんだよ」


 常になく食いついてくる芙蓉に、ふわり、と晃飛の体が膨らみかかった。そのように見えた。実の母に対して闘気を纏いかけたのだ。だがそれは続く芙蓉の言葉で遮られた。


「次は体膨らましてキャンキャン吠えて。そんで最後には飛びかかってくるんだろ?」


 言われてみれば図星で、晃飛はあっさりと気を解くと不愉快げに唇をむっと突き出した。そうするとただのへそを曲げた子供のようになり、芙蓉は内心安堵した。なんとか息子が冷静さを取り戻したことに。確かに自分は不甲斐ない親だが、その親とこの程度の会話をするだけで気色ばみ尋常ではない空気を作るなど、もはや狂人の一歩手前ではないか。だがそれもどうやら無意識下のことであるようだから、まだ修復は可能なように芙蓉は思った。


「……こんなこと私が言ってもどうも感じないかもしれないけどさ」


 親として言わずにはいられない状況というものがある。


「あんたは十分立派な男だよ」

「なんだよそれ」


 自嘲的な笑いを浮かべ横目で芙蓉を見る晃飛には、様々な感情が入り混じっているように見えた。


「俺がどうしようもない奴だってこと、あんたの方がよく知ってるだろ」


 少しの照れ、謙遜、それに相反する自信と、戸惑いと。それから……。


 そんな青年にしてしまった一要因が己にあることを、芙蓉はあらためて自覚し、そして申し訳なく思った。


「あんたはもう立派な男だよ。だから子犬みたいな振る舞いなんてしなくていいんだ」


 過去をやり直すことはできないし、きっとやり直したとしても自分は同じ道を選んでしまっただろう。弱くて寂しい自分を満たすために夫と子供を捨てていただろう。そう思いながらも、芙蓉は言葉に力を込めていった。


「大丈夫さ。だからもっと自信を持ちなよ」

「どうしたんだよ急に」

「茶化すんじゃない」


 ふうっと芙蓉が息をついた。そして真っ向から晃飛を見つめた。


「いいかい。お前は自分と誰かを比較する必要もないし、他人と関わることで自分の価値を推し量ろうとする必要もないんだ」


 いつになく真面目に語り出した芙蓉に、晃飛の視線が宙をさまよい始めた。怒るべきか、ここから立ち去るべきか。それとも留まって話を聞くべきか。どういう行動をとるべきか迷っているようだった。


 だが次の行動を選択させる猶予を芙蓉は与えなかった。


「お前のやるせなさや不安はお前自身が解決するしかないんだ。それは誰かを踏み台にしなくてもできるはずのことなんだよ。私は駄目だったけどさ、お前にはそれができるよ、きっと。きっとできる。だからもっと信じな、自分のことを」


 私は駄目だった、そう言った時だけ芙蓉の言葉がかすかに震えた。それは悔恨の告白であり息子に対して初めて示した懺悔だった。


「……はっ」


 ようやく晃飛が示した反応は嘲るようなものだった。


「自分はできないくせに俺には理想を押し付けるって?」

「そうだよ。悪いか。私は自分のことはよく分かってるからね」

「開き直りって怖いねえ」


 ひゅうっと、晃飛が口笛を吹いてみせた。


「開き直らなくっちゃこの年まで生きていられないよ」


 習慣として言い返してはいるものの、芙蓉の表情は変わらなかった。


「どんな人間だって必ず失敗するし、道を誤る時はあるんだ。その道が間違いじゃなくても不幸にしかならない時だってある。そういうのを全部ひっくるめて、それでも耐えて生きていくにはさ、自分はこういう人間なんだって大っぴらにして堂々としているほかないだろう。じゃないと死ぬまで苦しむしかない」


 最後の一言はさり気ないものだったが、芙蓉にとっては最大の吐露だった。


 本当は……本当は芙蓉とて良心的な人間でいたかったのだ。生まれ育った土地で死ぬまで平穏に暮らしたかったのだ。夫と添い遂げ、子供達の成長をそばで見守りたかったのだ。そういうありきたりな人生を送りたかったのだ。


 だけどそれでは駄目だった。

 それこそが自分だったのだ……。


 自分を理解すること、それは人が生きる道において非常に重要だ。だが理解できた己自身が目をそむけたくなるような価値観を有していたら? それでも、そんな自分でも、人は受け入れるしかないのだと、そう芙蓉は考えている。自分自身を嫌い続ける人生ほど苦しいものはない。より良い自分に変わることができるなら当にしている。それができないから今ここにいるのだ。それができない自分もまた、自分なのだから。


 晃飛は芙蓉の視線を黙って受けていたが、やがて椅子から腰を浮かせた。


「じゃ、また来るよ」


 その背に芙蓉はようやくいつものように声を掛けることができた。


「しばらく来なくていいよ」



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