1.早朝
こちら第一章は、前巻の翌朝のシーンから始まります。
東の方、連なる屋根や山々が、朝焼けによって暖かな色に染まり始めている。だが逆の方はいまだ暗い。どこかで一羽の鶏がけたたましく鳴いた。
この街、その名を零央という。首都・開陽が平原の中に造られた人工的な都市であるのに対して、零央は自然と共生する希少な街だった。
北と西の方角を高山で取り囲まれ、見渡せば澄んだ空の向こうに雲よりも高い頂が連なる様が見える。それらの山々、下腹には深い森が広がっているが、半分より上の方には木々の類はまったく見当たらない。それはこのあたり、湖国の中域に広がる山岳地帯の特徴的な風景であった。天空に群れる鋭く尖った岩の連なりは、まるで天に突き刺す針のようでもある。
もう一月もしないうちにあの山々は雪化粧をまといだすだろう。すると風光明媚な光景はより一層荘厳なものに様変わりする。高山から麓へと駆け下りてくる空気に冷気が含まれるようになると、夏も終わりだ。
涼風が幾多の湖の上を走り街中にまでたどり着き、水を多く含んだ冷気を肌で感じると、零央の街の人々は秋の訪れを知ることになる。木々の葉が赤や黄に色づくよりも先に。
零央の人々はその季節風を『神のため息』と呼んでいた。
*
家の並ぶ通り一帯には人の姿は見られない。ただ一人、梁晃飛という名の若者が疲れ切った様子で歩いているだけだ。肩を落とし、足取りも見るからに重い。その足元を白い猫が音もなく駆けていった。
まだ夏の匂いが色濃く残る零央では、日が昇りかける時間帯でも空気中に太陽の熱がしみ込んでいるかのようだった。つまりは暑いということだ。きつく照らす太陽は神の意志を正確に告げるようでもある。つまりは今はまだ夏なのである。
まだ蝋燭も油も湯水のように使える時代ではないから、この国のほとんどの街で、人々は太陽と共に活動をしていた。その点が楊珪己が暮らしていた首都・開陽とは違っていた。開陽では夜も街の至るところに灯りがともされ、連日宴のように賑わっている。さすがに夜ともなると牛馬や駱駝の往来は激減するが、それを補うほどの人間で通りや店が埋め尽くされるのだ。対する零央は静かなもので、夜は自宅で過ごすものと相場は決まっている。
さて、ではなぜ晃飛が明け方にこうして外を歩いているかというと、何もこれから勤め先に向かうためではない。その逆で、先ほどまで働いていたからだ。
昨夜、晃飛は実母である芙蓉の経営する妓楼――環屋――の用心棒を強制的にやらされた。ここ零央の街は開陽に比べれば夜はそれなりに物騒で、客の質もそれなりに悪いから、一晩中あれやこれやと駆り出されたのだった。どのような街にも夜特有の仕事というものは存在する。
「いい気味だよ」
そう嘲るように笑ったのは実の母だ。
「でも隼平は目力一つでたいていのことは片付けてくれていたから、あんたみたいにいちいち喧嘩されるんじゃたまったもんじゃないけどね」
昨晩だけで晃飛は店の食器を十は割っている。それに客とひと悶着を起こした回数は片手では数えきれないほどだ。その間は当然客の入りも悪くなる。そういったことを芙蓉は批判したのだ。
「じゃあ仁兄にやらせればいいだろ」
ぼそりとつぶやいた晃飛を、芙蓉がぎろりと睨んだ。
「全部あんたのせいじゃないか」
そう指摘されれば口達者な晃飛とて黙るしかない。
そして残る二日、毎夜店に働きに来るよう、芙蓉は晃飛に命じたのであった。
*
街の中央、晃飛が居を構える一帯には、このような朝早い時間から活動しなくてはならないような職務に就いている者はほとんどいない。その逆もしかりだ。それなりに贅沢に暮らし、それなりにゆとりのある生活を送ることが許された者の住まう地区だからだ。
昨夜の妓楼での勤労は特殊な事情によるものだったが、ここで一つ断っておくとすると、このような界隈に住むこと自体、晃飛のような一青年にとっては分不相応なのである。田舎から単身引っ越してきた、武芸の腕にそれなりに自信があるだけの貧しい青年にとっては。
ではなぜ晃飛が今の住まいを手に入れることができたのかというと、たまたま売りに出されていた古びた道場に、人が住み生活できる建屋が併設されていたからで、しかもそれを求める者が当時晃飛しかいなかったからである。
昔、初代皇帝の時代の後半あたりまでは、武芸の道場に剣客が居候することも珍しくなかった。それは剣を使う者がいまだ多くいたがゆえのことだ。しかし今、三代皇帝の時代ではそのような存在はほぼ皆無である。剣を使う者のほとんどは安定した食い扶持を確保しており、風来坊のような生活を送ることはないからだ。
とはいえ、そこそこの広さで利便性のある地域で格安で。しかも住居付き庭付きとくれば、武芸の腕だけで飯を食う者たちの一部にとっては、晃飛の購入した道場は相当にお得な物件であった。ただ、そういった者は零央では父や祖父の代からその道で生きており、自分専用の道場を必要としていなかった。そこに偶然、一年ほど前にこの街に移り住んでいた晃飛が飛びついたというわけだ。
いや、その実、偶然ではない。そのような土地柄、事情であることを調べ、後継ぎもいない老剣士が営んでいたこの道場が売りに出されるのを虎視眈々と狙っていたのだ。
ただ、晃飛が思った以上にその機会は早かった。そのため、道場を購入するために晃飛は借金を拵えるはめになった。返済のため、週に数回は軍の屯所で新人武官に稽古をつける仕事を請け負ってもいる。が、それ以外のことには晃飛は総じて満足していた。
朝、太陽と共に起きて十分な食事を摂り。
夕暮れ近くまで誰に支配されることもなく働き。
夜は一人静かな時を過ごし。
そんな零央の民らしい、つつましくも贅沢な暮らしが晃飛の肌には合っていた。
今はその生活に二人の義兄妹が加わったが、迷惑どころか、より一層充実した日々を送ることができている。
と、言えば聞こえはいいが、そう思っていた自分に晃飛は疑いを持ちたくなっている。まだ若いとはいえ、めったにしない徹夜がだいぶ堪えているのだ。疲れすぎて頭がくらくらしている。朝日の昇る時間に帰宅するなど何年ぶりだろうか。あの二人を自宅に住まわせていなければ、こんなことにはなっていなかった……。