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4.皇帝と枢密使の語らい

 朝議を終え、英龍はすぐに楊玄徳を招集した。多忙を極めるはずの玄徳は、英龍の一声ですぐに昇龍殿内の英龍の執務室へとはせ参じた。


「本日はどのようなご用件でございましょうか」

「うむ。まあそこに座れ」


 英龍の勧めで、玄徳は「失礼いたします」と述べると、茶や菓子が並べられた机に向かい合って座った。腰を下ろしたとたん、軽く鼻を動かした玄徳が目を細めた。


「これは良い香りでございますね」


 入れたばかりの茶が机上でかぐわしい香りを発している。


「であろう? 今年の新茶だ」

「発酵させていない新しい茶ですね」

「うむ。なかなかに味もまろやかだぞ。飲んでみよ」


 玄徳は椀をとると、新緑を湯に溶かしたような茶を一口飲み相好を崩した。


「おお。これは誠に良いお茶ですね」


 茶がただの金銭を生むための物ではないことは、玄徳のような人物に与えてみるとよく分かる。英龍が飲むとどうしても商売や農民のことを考えてしまうが、玄徳は純粋に茶の出来を楽しむことができている。


「ほれ。菓子もどうだ」

「ありがとうございます」


 白や桃色、黄色の菓子は、どれも見るからに可愛らしく、成人の、しかも高位にある男が気軽に食するものではない。だがそんな菓子を玄徳は遠慮せず手に取った。もちろん、これらの菓子も国政を管理する一環として英龍に献上されただけのものであり、ふんだんにまぶした砂糖は贅沢の極みなのだが……英龍は贅沢というものにすでに辟易していた。


 だが玄徳は素直に美味しいと顔をほころばせ、いくつも口にしてはにっこりと笑った。つられて英龍の顔にも笑みが浮かんだ。玄徳のこういう上級官吏らしからぬ人の好さを英龍は好ましく思っている。それは他の皇族もだ。たとえば龍崇しかり、龍顕りゅうけんしかり。


「今日呼んだのはな」


 玄徳のふるまいは、英龍が話しにくいことを言い出しやすくする効果があった。


「あの人事について忌憚なく話をする必要があると思ったのだ」


 それでも声が硬くなったのは仕方ない。


「あれはそなたらしくない采配に思えたのだが」

「……ああ。なるほど。確かにそう思われても仕方がありませんね」


 指先についた砂糖を手巾で拭うと、玄徳はそれを懐にしまい、両の手を膝の上に載せ姿勢を正した。


「娘の婚約者の出世を後押しするようにも、または突き放すようにも、そのどちらにも見てとれますから。陛下が疑問に思われるのも当然かと存じます」


 いつものごとく聡い部下だ。

 内心、そう舌を巻きつつ、英龍は問いを続けた。


「そなたのその言い方だと、『そう見える』だけでそのどちらの意図もないということか」

「おっしゃるとおりでございます」


 玄徳が頭を垂れた。


「柳中書令の申し出を李副史が受諾した、それだけのことでございます」

「そうか」

「はい」

「ならよいが。……あとな」


 一つの疑問が解消されるとともにまた新たな疑問が沸いてくるのは、このところ会話に飢えていたせいかもしれないし、胸の内にあった疑問が表にでるきっかけをずっと待っていたのかもしれない。


「婚約者、ということは、まだ李副史は婚姻の儀を済ませておらぬのか」

「ええ。まだその時が来ておりませんので」


 そう言ったとき、玄徳の目がそっと伏せられたことに英龍は気づかなかった。答えを聞き、胸が騒ぎだした自分自身の変化のほうに気を取られてしまったからだ。


(楊珪己はまだあの男の物になっていないのか……)


 今日の朝議でみかけた李侑生は、怪我を負って以来の研ぎ澄まされたような横顔をいつものごとく英龍に向けていた。公蘭が人事交換の対象者としてその名を告げたときだけ、ほんの少し、その体を檀上の英龍の方へとむけて頭を垂れたが。


 だがその間際、英龍は侑生と目が合った。


 枢密副史と皇帝である自分の目が合うということはめったになく、不意のことに英龍は侑生を軽く睨んでしまった。皇帝が新春の昇進人事の議題において、その相手を睨むということはあってはならないことなのだが……だが心が率直に表情に出てしまったのだ。恋しい少女と添い遂げる男、その事実一つで憎しみが沸くのは仕方のないことだろう。


(しかしあやつは……)


 英龍が心を潜ませようとした瞬間。

 侑生もまた英龍を睨み返してきたのだった。


 皇帝に対して、そのただ一つの瞳で。

 怒りに満ちた紅蓮の炎を宿して。


 しかしそれはほんの一瞬のことだった。


 顔を上げ横顔を向けるだけとなった侑生には、もうその怒りの残滓は見当たらなかった。


 人からこれほどまでの怒りを向けられたことは、英龍にはない。

 これほどまでに深く重い憤怒を向けられたことなどない……。


「……陛下?」

「あ、ああ。すまぬ。そうか、まだ婚儀は済ませておらなんだか」


 英龍は机の上の菓子を一つ口に含んでごまかした。やはり、思ったとおりの極上の甘露だった。


「そうだ。残りは持ち帰れ。娘御と茶を飲みかわす際にでも食してくれ」


 色とりどりの菓子は、きっとあの少女によく似合うことだろう。そして玄徳と同じように相好を崩していくつも口に入れるのだろう。口元に砂糖の粉をつけながら無垢に笑ってみせるのだろう。想像するだけで幸せな気持ちになり、続けて空虚な気持ちになった。その時自分はそばにいられない、その事実に気づいたからだ。


「また娘御の琵琶を聴きたいものだなあ……」


 甘味のしつこく残る舌先から、ぽろりと、想いがこぼれていた。


「陛下?」


 こちらを見る玄徳――その瞳はどこまでも澄んでいた。深く深く、その瞳に吸い込まれるようだった。


「楊枢密使。娘御は元気か?」


 ようやく、英龍はそれだけを言えた。

 玄徳が何かを言おうとしたところで、英龍が先に言葉を発した。


「いや。なんでもない」


 言いながら席を立ち窓辺に立った。そうすることで玄徳に顔を見られまいとして。この国では希少な硝子の窓には、悲し気な自分の顔がぼんやりと映っていて、自分自身と目が合うと、また悲しみが助長されるようであった。


「そういえば、芯国人の捜索の方はどうなっておる?」

「誠に申し訳ございません。まだ有益な手掛かりは得られておりません」

「そうか。異人であれほど人目を惹く容貌なのだから、すぐに見つかると思っておったがな」


 珪己を求めた芯国の男は自国に戻ったとの報告を受けていたが、国内に潜伏している可能性が高いことを報告されたのはまだ最近のことだ。これも異母弟への怒りが減じられてきた理由の一つである。


「おっしゃるとおりでございます。当人は我が国の言葉を使えるそうですから、きっと貿易商のふりをしていているのだろうと推測しているのですが、なかなか……」

「……この国は広いからなあ」


 思わず英龍が嘆息するほどこの国は広い。広すぎて、皇帝であっても全容を把握しきれていないほどだ。国中にある千の湖、それらを結ぶように張り巡らされた大小の川、それらもまた捜索を困難にさせている。船による交通網の発達が急すぎて、それらを管理する側が追い付いていないのだ。


「海南州や王家ゆかりの地にはいないのだよな」


 捜索人、イムルが幼少時に王家――初春に自死した王美人の生家――に預けられていたことは極一部の者だけが知っている。情報源はイムルとそこで同じ時を過ごした唯一の生き残りの青年、ちょう温忠おんちゅうだ。今は礼部の官吏補である温忠は、イムルの味方になるどころか、逆に楊珪己を奪還する際の立役者として働いた。それゆえ、枢密院は情報提供と引き換えに温忠の身の安全と将来を保障した。そのことは英龍にもひそかに報告されている。


 だが英龍が知ることとは、イムルと温忠、そして王美人の三人が幼馴染であることまでで、珪己がイムルに捕らえられたことや、救出するために李侑生や袁仁威が多大な尽力をしたことなどは一切知らない。


 なぜそれを玄徳が伝えていないのか。

 それは龍崇との約定のせいである。


 皇族で唯一、龍崇だけは先に述べたことまでを知っている。イムル本人が血の匂いをさせて龍崇に面会しに西宮まで現れたのだから誤魔化しようもないことで、そこに龍崇の望みである『李侑生と楊珪己を婚姻させること』が加わり、話は非常に複雑になっているのだ。


 英龍が知っていること、それはイムルに強引に言い寄られた珪己が涙していたこと、そしてその翌日にイムルが大使館から姿を消したことだけだ。しかし芯国と国交をひらいた今、イムルがしたことはもはや罪とはいえなかった。だから大々的な捜索ができないでいる。それが英龍の考える現状だった。


 ではなぜ英龍が枢密院にイムルの捜索を依頼しているのか。そこには公言できる理由はない。あのような野蛮な男をこの国に野放しにしておきたくないから、そんな個人的感情でしかない。だから英龍は玄徳に詳細を尋ねきることができないでいる。それが玄徳から事の真実を引き出せない最大の原因だった。


「はい。海南州のゆかりの地には常に武官を配置しておりますが、それらしい姿もなく」


 玄徳としても行方不明の娘を見つけたい気持ちは強く、これに乗じて、可能な限り捜索の手を広げているところだった。イムルを見つけることで娘に近づける可能性もある。どちらが先かは分からないが、今、玄徳も自身の官位を最大限私的に利用している状態にあった。


「国内の主要な都市にも伝令を送っておりますので、秋冬には情報が集まり出すのではないかと期待しております」

「そうか。秋冬、か。なかなか気の長い作業になりそうだな」


 その時、扉が軽く打ち鳴らされた。


「陛下。ご要望の書類が東宮から届きました」

「開けるがよい」

「では陛下、私はこれにて」


 皇帝の振舞った茶をきれいに干してみせた玄徳に、英龍は心からほほ笑むことができた。


「一寸待て。おい。これを包んで楊枢密使に持たせろ」


 英龍の命により、入室してきた侍従の一人が手際よく机上の菓子を一枚の薄布に包んで玄徳に手渡した。それを受け取った玄徳は少し眉を下げ、一度頭を下げ退出していった。


「それで、龍崇の相手は分かったのか」


 英龍の頭の切り替えが早いのは常日頃から多忙を極めるがゆえだ。早朝の思いつき――龍崇の婚姻――はさっそく結実しようとしている。


 だが。


「はい。こちらにすべての女人について記しております」


 侍従の発言に、書類を取りかけていた英龍の手が止まった。


「……なに? すべて? 龍崇の相手は一人ではないのか?」

「恐れながら陛下。黒太子は店のすべての女を呼んでおります。女人によって頻度のばらつきはありますが」


 平伏する侍従の手から書類を奪った英龍は、先ほどまでとは真逆の嫌悪に彩られた表情をしていた。自分自身が最近悟ったばかりの愛に忠実であろうとするがゆえに。実際、書類には二十数名の女の名前とその経歴、特徴が記されていた。書類を持つ英龍の手が、怒りによって震え始めた。


 英龍にとって、愛とは何よりも純粋なものでなくてはならなかった。


 もちろん肉欲についても理解しているが、親交の深い異母弟だけは自分と同じ愛を望む男でなくてはならなかった。


(汚らわしい……!)


 だが、やがて。

 英龍は力なくその書類をまとめ、そのまま侍従につき返した。


「あい分かった。この件は他言無用だ」


 異母弟に対して始終感じていた怒りを溶かし、代わりに哀しみとむなしさに支配されながら。

ここまでが本篇の前半です。

後半である第五章からは舞台はまた零央に戻ります。

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