3.前代未聞の人事
その二刻後。
朝議の場は今日もひどく蒸し暑かった。
けっして狭くはない部屋、だがそこに紫袍をまとった上級官吏がずらりと立ち並んでいれば、皇帝の英龍ですら檀上からその光景を眺めるだけで息苦しさを感じるほどだ。中書省と枢密院、この二つに所属する文官同士が、中央を挟んで向かい合うように立つ構図はいったいいつからできたのだろう。隣に立つ龍崇に気取られない程度に、英龍は小さくため息をついた。また恒例の二府の争いが始まる、と。
ただ、今日の朝議の議題はこの場に嵐を呼ばないきわめて異質のものだった。
「議題は来年の人事に関してでございます」
中書省長官・中書令である柳公蘭が中央に歩み出て語り出したときから場の雰囲気が違っていた。中書省の官吏らは当然として、枢密院の官吏らまでもがおとなしく目を伏せたからだ。拝聴している、まさにそれを体現する彼らの行動が意味するところは、これから公蘭が語る内容を枢密院がすでに知り得ており、しかも受け入れているということだ。
普段であれば、この朝議の場でお互いが好き勝手に持論を述べ、それにもう一方が反発するのが常で、事前にすり合わせておくことなどめったにない。いや、英龍が皇帝に即位して以来、一度もない。
(何が始まろうとしているんだ……?)
龍崇がわずかに身じろぐ気配を英龍は隣で感じた。
どうやらこの異母弟も何も知らないらしい。
公蘭は檀上の皇族二人の心境を手に取るように理解している。そのことを英龍は遠目ながらも察した。公蘭の紅をひいた薄い唇が一度硬く閉じられ――次に開かれたときには、並の男よりも強い目力が階上にひたと向けられた。
「陛下が即位されて早十年、これまでの湖国の繁栄、栄華はひとえに陛下のお力の賜物でございます」
冒頭に語られたのは常とう文句であったが、公蘭の瞳の奥にはゆるぎない炎のごとき熱い意志が見えた。こういう時、この女と隣に立つ異母弟が血のつながりのある母子であることを英龍は思い知らされる。龍崇もよくこういう目をするからだ。自分自身の信念を貫くと決めた時、心を裏切らないと決めた時、瞳に燃え盛る炎は青く美しい。そういう龍崇を英龍は好んでいた。ただ、あの豪雨の翌日以来、その炎は影も形も見えないが。
「次の十年、より一層国力を高めるためにも、各組織の仕組みをあらためて見つめなおしたいと考えております」
それはどういう意味だ。
そう問いただしたいところだがそれはできなかった。
なぜなら公蘭の言うことには正しさしかないからだ。
これまでの十年、英龍は先代の流れを踏襲することで治世の安寧をはかってきた。無難といえば語弊があるかもしれないが、実質そうだったのである。
だが代替わりの時期というものは得てして争いや問題が起こりがちで、実際、貴青二年、八年前にはあの楊武襲撃事変が起こっている。国が大きいからこそ国政というものは慎重に改変しなくてはならない。様々な価値観を有する者同士を一つに束ね続けた先代のやり方は、それだけで十分すぎるほどの価値があるのだ。
だが先に述べた楊武襲撃事変しかり、すべての施策が良策なわけでもなく、公蘭の言う通り、治世が落ちついてきた今だからこそ改変に取り掛かるべき時にきていた。
そのことを朝議の場で言い出す勇気のある公蘭は、やはり中書令にふさわしい才女である。
(だがこの二府の対立構造のある我が国で何ができる?)
無言を貫く英龍に、公蘭は我が意の了承を得られたことを確信したようで、さらに言葉を継いでいった。
「まず手始めに、中書省と枢密院の人材を交換したく存じます」
「人材、交換?」
思わずといった感じで、龍崇がその言葉を繰り返した。無意識で半歩前に足が出ている。異母弟がこれほどまでに驚きを示すのは珍しいことで、それが逆に英龍を冷静にさせた。
「そなたらの考えた具体例を提示せよ」
そなたらとはつまり、中書省と枢密院のことだ。二府で合意済の案を上程しようとしていることは分かっているから、それを理解したうえでその先の話を聞こうとしている。
公蘭が胸の前で両手を組み頭を下げた。
「中書省吏部の侍郎と、枢密院の枢密副史、それぞれを配置交換したく」
「ほお」
大きなことを言い出したと思ったが、聞いてみれば案外無難なものだった。吏部侍郎と枢密副史。どちらも紫袍をまとう上級官吏であり花形であるが、国政の頂点にも位置していない、英龍からしてみれば小さな人事提案だ。
「また、吏部の苛尚書は高齢を理由に本年をもって退任とさせていただきたく存じます」
それに中書省側の最前列にいる恰幅のいい老人が頭を垂れた。よく見れば、彼一人だけがこの場で憔悴した顔をしていた。きっと今日の朝議において彼だけが納得がいっていないに違いない。そういう内面を隠すことができずにいる。それもそうだ、彼は長年吏部尚書という高位を独占してきた男なのだから。確かに高齢ではあるが、まさかあと半年もせずに退任に追いやられるとは思ってもいなかったのだろう。
「代わって、吏部には現礼部尚書の蘇を、礼部尚書には吏部侍郎の金を配したく存じます」
名を呼ばれ、蘇と金がそろって頭を垂れた。蘇礼部尚書は中庸であることを自負する、いい意味でも悪い意味でも改革には程遠い人物で、吏部の動きの悪さを実感してきた英龍にとってはその人事だけは悪手としか思えなかった。金吏部侍郎の方は文官の人事に深く関わってきた男だから、大所帯で畑違いの礼部であってもよく働いてくれるだろうが……。
「上級官吏につきましては以上でございます。中級以下についてはこちらにまとめてございます」
公蘭が紫の広い袖を振るって示した方には、巻物を一つ掲げ持つ官吏がいた。うやうやしく差し出された巻物は、英龍付きの侍従の一人に手渡された。
「よく吟味しておこう」
ただ素直に受け入れれば皇帝の威厳に関わる。だがおそらく何も異論を述べるべき隙を見つけることはかなわないだろう。新吏部尚書ですら、そこに公蘭らしい隠された意図があると考えるのが妥当だ。それを読み解き承認するまでに数日かかるかもしれないが。
と、終わりかけたこの場で龍崇が口を開いた。
「柳中書令。先に述べた吏部侍郎と枢密副史の名は述べておらぬがそれは誰だ」
龍崇の口出しには三つの意図が感じられた。
一つ、皇族として、上位の者として当然の疑問を公の場で明らかにするため。それはつまり、二人の名が語られていないことに作為がある可能性が皆無ではないからだ。二府の官吏の交換はこの国の歴史上はじめてのことで、ただ二人が異動するだけという小さなこととして片づけてはよろしくない。
一つ、母である公蘭に一部の隙も見せまいとする敵対心によるもの。二人が真に血のつながりのある母子だと知る者は英龍と枢密使・楊玄徳だけであるが、この朝議の場が二府の対立の場であるとともに、公蘭と龍崇の決戦の場でもあることは誰もが知っている。ならば、いや、だからこその問いかけだ。
一つ、英龍に渡される巻物の内容をより早く知るため。断絶状態が続く二人だから、龍崇はその巻物を気軽に読む立場ではなくなっている。このことはごく一部の者だけしか知り得ていないが。
公蘭の目が怪しく光った。
老いを背負うやや濁った瞳からは、見つめる者の生気を吸い取る妖気のような恐ろしさすら感じとれる。だがそのようなものは龍崇には通じない。それよりも小さく目を伏せた玄徳の所作の方が気になったようだ。
玄徳の隣が定位置の、隻眼となった枢密副史・李侑生が少し胸を張った。
(……まさか)
皇族二人が思い至ったのとほぼ同時に、公蘭の口から滑らかにその青年の名が告げられた。
*
龍崇が公蘭の母親であることは、「剣女列伝Side Story」の一番最初の話を読むと分かります。Side Storyは少女篇5巻執筆後に掲載したもので、放浪篇はSide Storyの内容を前提として執筆しています。もしも未読の方はぜひ読んでみてください。また、吏部の苛尚書については少女篇5巻の冒頭(李侑生の自白の次)に書かれていて、この時の玄徳と公蘭の会話がここに繋がっています。




