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2.皇帝の異母弟

 西宮の方へ向けていた英龍の視界に、一人の女の姿が入った。女が現れたことで、殿内の複数の箇所から、隠れ潜んでいた武官らが姿を現した。自然なことのように現れた彼らは殿内を警護する近衛軍第四隊所属の者たちだ。普段、皇族のいる場ではその身を隠す彼らは、それ以外の者、特に部外者に対してはその存在をあらわにすることで武力を示す。


 まだ朝も早い時分に一人歩く女の外見は、いかにもその道の女だった。有り体にいえば妓女だ。西宮、つまり皇族の外戚の住む宮から出てきただけだって、なかなか良い衣を身に着けているし、身のこなしも悪くない。世間一般でいうところの美女でもある。


 英龍が一人でいるせいか、それとも英龍が身に着けている黄袍が昇りゆく朝日に溶けてみえるからか、女は皇帝に見られているとも気づかず、静かに玉門――華殿の出入り口である門――へと消えていった。


 女は幻のように消えた。だが女が身にまとう色欲の香りだけはその場に残ったようだった。だから英龍は不快に感じた。朝特有の清廉とした空気を味わうためにここに来たのに、その真逆の、今一番嗅ぎたくない香りを吸い込んだ気分になったからだ。


 英龍は大きくため息をついた。何から何まで自分の思い通りになるものはないな、と思いながら。


 英龍が東宮に戻ると、また背後に侍従らが付き従い始めた。相も変わらず黙したままの彼らに、英龍の中に刺のある感情が芽生えた。忠実なだけが特徴の人形のような彼ら。


「あの女は誰のところに通っているのだ?」


 突然の英龍の問いかけには確かに冷徹な意思が込められていた。それを機敏に察した侍従らが一斉に身を固くした。誰も答えないことに英龍はいら立ちを感じつつ再度尋ねた。


「早く答えるのだ」


 皇帝の意のままに動くこと、それが任である侍従らは、誰ともなく視線を交わし、そのうちの一人が思いきった声音で応じた。


「黒太子でございます」

「黒太子……すうか」


 母の異なる兄弟、龍崇りゅうすうの名が、英龍の口から久々に発せられた。ただ、その声にはやはり冷たさがあった。身内に対してそのような声調で名を呼ぶこと自体、元来気の優しい英龍にしては非常に珍しいことで、侍従らがより一層体を縮こませた。彼らはみな晩春の英龍の激昂を知っている。その場に居合わせたものも、そうでないものも、稀有な豪雨の翌日の朝に龍崇が天の雷にも引けを取らないほどの英龍の怒りを受けたことを知っていた。


 それは英龍の室内において龍崇と二人きりの時に行われたことで、室外に控える者たちにも、英龍の怒鳴る声が分厚い扉ごしに聴こえただけのことだった。だがそれが聴こえたこと自体が異常なのだ。しかも、ややあって室から出てきた龍崇の顔は蒼白で、足取りはおぼつかないほど憔悴していたという。


 それ以来英龍は時折いらだちを示すようになった。ただ眉間にしわを寄せたり、そのつり上がり気味の瞳を一層鋭く尖らせるだけのことだが、皇帝がその一動作をすることの重みを知る英龍がそれを都度して見せることが、このところ侍従らに不安を与えていた。


 加えて、龍崇が東宮を訪れることがなくなったことも侍従らの不安を助増していた。英龍もその日以来一度も西宮に足を向けていない。誰の目にもこの義兄弟の不仲は明らかであり、その原因は龍崇の方にあると見破られていた。


 その英龍が今、龍崇の名を口に出したのだ。

 しかも冷ややかな感情を言葉にのせて。

 早朝から侍従らが怯えるのも無理はない状況だった。


 英龍が沈黙を破った。


「よく来るのか」


 答えずに済むのであれば貝のように口をつぐんでいたい。きっと侍従らの誰もがそう心の中で願っていただろう。だが彼らの視線の先には皇帝の腰に下げられている長剣の鞘があり、それが鈍く光っているのが見えている。


 この宮城、この華殿において、武器を所持して闊歩できるのは武官と皇族だけと決まっていて、東宮内であれば、主人である皇帝ただ一人にしかゆるされていない。その武器が、長剣が一振りここにあることが、急に重みを増して侍従らに迫るようだった。


 圧にすかさず屈した一人が早口で応じた。


「週に三度、曜日は不定期ですが必ず」

「そうか。いつからだ」

「黒太子が華殿にお住まいになりだしてすぐのことでございます」


 異母弟の性的行動について、英龍はこれまであまり気に留めたことがなかった。龍崇が実家の妓楼の女を呼んでいるのは、実家に顔を立てているのか馴染みの女がいるからだろうと、そう思っていたからだ。それに、その一点について口を出す必要もないほど、龍崇はよくできた弟であり皇族であった。


 色事に関心を持つ龍崇のことを、多くの有力者は歓迎こそすれ、眉をひそめるものなど一人としていない。皇帝である英龍がその道に無関心を貫いているからだ。


 女に興味があるということは、将来子を持つ可能性が高いとみなされる。肉親を妻として送り込むことができれば皇族の外戚となれる。それに女に現を抜かす権力者は得てして女によって篭絡されるもので、隙を見せない清廉潔白を地で行く皇帝とは真逆の意味で、様々な意味で龍崇の行動は有力者たちに好まれている。


「……ふむ」


 その時、英龍の脳裏によぎったのは龍崇の婚儀のことだった。弟に対する積年の愛情と、我が身の嘆きの原因、それが結びついた結果だった。


(龍崇に好む女がいるのであれば側室に入れることくらいしてやるべきか)


 自分を不幸にした弟に同じ罪を、などと英龍は思わない。そこはやはり生来の皇族、根っからの皇帝なのだった。弟もまた皇帝が護るべき民の一人であり、民のすべてに可能なかぎりの幸福を与えてやりたいと心から望んでしまうのだ。たとえそれで己が幸福を失おうとも。


「その女の詳しいことを後で知らせよ」


 妓女といってもこれほどの長い年月をかけて会瀬を深めているのだ。そこは皇帝の有する権力で強引に側室に押し切ってやることもできるだろう。


(これがきっかけで崇とのき裂が修復できればいいのだが……)


 楊珪己を失ってからというもの、龍崇に対してあらん限りの怒りを感じている。だがこのままではよくないことも重々分かっている。ここは皇帝であり兄である自分から行動を起こすべきだということも。


 一つ、英龍が小さくため息をもらした。



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