1.早朝の華殿
第四章では開陽が舞台です。
朝が近い。下弦の月は白くぼやけ、もうその姿はほとんど見えない。空を覆う雲の密度の濃さが原因で、それは日の出の時間が近づくにつれ如実に分かってきた。
太陽の恵みをあまり得ることのできない一日となりそうだな、と思った人物はこの国を統べる皇帝・趙英龍である。夏場の暑さから一日でも解放されれば民の労苦も少しは軽減されるかと、そんなことを思いながら窓の外の景色を見やっている。
夜、英龍は長く深い睡眠をとらない。数刻眠れば事足りてしまう。それは体質というよりも幼い頃からの習慣といった方が近かった。深く眠らずとも体を休める方法は、皇族として、また皇帝となる身において、早々に身に着けるべきものだったからだ。そのせいか、英龍は睡眠を任務の一つのようにとらえている節があった。食事もそうだ。体を動かし脳を活性化させるために必要な量を知っており、それを日々満たすように計画的に動いているというわけだ。
茶や酒、菓子などはひと時の安らぎにはなる。だがそれらであっても、英龍にとってはそんな単純なものではない。国内の経済を活発にし、また国外に輸出し収益を得るために、これらのし好品は重要な意味を持つからだ。
たとえばこの夏からは、国交を正式にひらいたばかりの芯国に対して、茘枝を干して乾燥させたものを大量に送る船を出したばかりである。用意周到、一年前から大量に乾果を用意させておいたのだ。売れ行きを見定めたら、次は高級品である茘枝酒の取引にも着手することになっている。そのための仕込みも乾果と同時期から開始させている。
机の上、束ねた書類の隣には茶の半分入った椀が置かれている。味を確かめただけで放置していたから、中身はすっかり冷え、茶色く変色してしまっている。
英龍はそれを一気に飲み干すと、朝の澄んだ空気を味わおうと自室を出た。
一歩室を出た瞬間から侍従が無言で付き従うのは常のことだ。ここ華殿に内包される三宮――東宮、西宮、後宮――において、朝夕問わず人が動く様が見られるのはこの東宮だけだろう。宮の主人である英龍がそういう人物だからだ。英龍にとって侍従とは空気のような存在だった。いてもいなくても気にしない、そういう存在だ。侍従らもよく心得たもので、英龍に対して行先や目的を尋ねる者は誰一人いない。ただ黙々と付き従い、命じられたことをこなすだけである。
普段、英龍は東宮内の内庭を散策する。だが今日は趣向を変えた。表の方から出てみたのだ。入り口に控えていた侍従が動揺を押し殺して胸の前で両手を組み頭を下げる様を、英龍は内心愉快に思いつつ通り過ぎた。
華殿の中央へとつながる大きな曲線を描く石橋に英龍は歩みを進めていった。内庭と違い、こちらからだとこの華殿の豪華絢爛さが一目瞭然である。見渡す端から端まで、どこもかしこも美しい。季節の折々の草花が専門の者の手によって丁寧かつ綿密に手入れされているからだ。
ただ、そこには人工的な美の香りがした。人が考え望む最大の美で彩るため、人の手によって手入れされた庭――つまるところはその程度の言葉で説明できてしまう人工物なのだ。ここよりも東宮の内庭のほうがよほど英龍の審美眼に合う。だがこの庭の造りは湖国を、趙家の繁栄を表すためのものであることを、英龍はよく知っている。だから本心は潜ませている。
こつこつと沓を鳴らしながら橋を渡っていく。それに続いて侍従らも沓を鳴らし付いてくる。背後で鳴る複数の沓の音が耳にうるさく感じ、すると英龍は急に一人になりたくなった。代わりに足を止め下を覗き込むと、広大な池のところどころで波紋が起こっているのが見えた。たまにそこからぴょこんと魚が顔を出すこともある。幼い頃、英龍はこの大池に船を浮かべて魚によく餌を与えていた。
さあっと、水面すれすれを白い鳥が二羽飛んでいった。視線で追従すると、二羽は仲睦まじく西宮の方の木々の茂みに消えていった。さえずる声を聴いてみたいと耳をすましてみたが、ただ背後の侍従らの衣のこすれる音が聴こえただけだった。
「しばらく余は一人の時を過ごしたい」
皇帝の言葉に、一拍おいて侍従らは頭を下げた。数歩後退し、それからゆっくりと東宮の入り口まで下がっていった。
彼らがそこから英龍の一挙一動を観察していることは、見なくても気配で察せた。英龍は現近衛軍将軍・郭駿来から幼少の頃より武芸の手ほどきを受けている。だから分かる。侍従らも武芸のたしなみはあるが、経験があるがゆえに、注視する際の気配が強すぎるのだ。まるで自分がそこにいることを知らしめる信号のように。
それでも、四方に他人がいなくなったことで英龍は一つ安堵できた。
皇帝であるから、独りの時以外は素の感情、表情を見せられない。
だがこんな朝はどうしても……。
姿を消した二羽の鳥をいつまでも目で追い求めてしまう。
(余も鳥になりたいものだ)
(そしてここから飛び出してしまえたら……)
詮無いことを考えてしまう自分は、たまのことだからゆるしている。本来は考えることすら禁忌だ。皇帝となるために生まれ、皇帝として死ぬべき英龍にとっては。
それでも。
(一人の男として生きられないのは、我ら祖先が神の血をひいているなどとうそぶってきた罰なのであろうか……)
神の末裔であるからこの国を統治しているのだと、十国時代以前から、趙家の支配する土地、国では信じられている。そう信じさせた方がたやすく民心を得られ管理できるから、だから祖先はその策をとってきたのだろう。
だがその結果、子孫である英龍は人として生きることができないでいる。人として、自らが心から望むことを叶えることができないでいる。
(余がただの男であったなら……)
こんなふうに昼も夜もなく働くことはないだろう。
顔も知らない万民のために心血を注ぐこともないだろう。
ただ自らの手のひらに収まるくらいの幸せを護るために生きていただろう。
もう豪華な物など何一ついらない。それを味わったことのある者にしか言えないおごりであることは重々承知しているが、それでも、それが今の英龍の正直な気持ちだった。
旨いものも美しいものもすでに飽きている。そのようなものにはもはや価値を感じない。万人が欲しいものが欲しいわけではない。万人が認めるものが英龍にとって価値があるわけではない。英龍が今欲しいもの、それはただ一つだった。その心が望むのはあの少女だけだった。今も――。
(余がしがない民であったなら、あの少女だけは手放さなかったのに……)
これほどまでに狂おしく求めるものなど、人の生涯においてそうそうないに違いない。なのに手放すことを決めた最大の理由は……。
(このような朝を共に迎えたかったものだ……)
この国のどこにこのようなささやかな望みすら叶えることができない者がいるだろう。
(……だが余は皇帝である)
あの少女はもう婚約者の下に嫁いだのだろうか。
これまで考えないようにしていた疑問が、ふと頭に浮かんだ。晩春、あの少女との夢のような一夜以来に。
(だがそのほうがいい)
嫁いでしまえば踏ん切りがつく。
(そうだ、枢密使である楊に贈り物くらいはすべきか)
この国の二府の一つ、枢密院の長官の一人娘が嫁ぐのだ。それくらいは『皇帝として』すべきだろう。楊珪己へ、ではない。楊枢密使へ、だ。李枢密副史――相手の男――へ、でもない。




