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6.希望の放つ輝き

「なんだ?」


 足を止め振り返った仁威は、「まだ何か用があるのか」と言わんばかりだ。だが、


「隼平、さん……」


 欄干を握りしめ身を乗り出す桔梗の顔からは一切の笑みが消えていた。


 先ほどまでの軽やかな笑みを消し、ただ真っすぐ仁威の方を見つめている。何かを伝えようとしている、そんな表情だった。だがその思いをなかなか形にできないようで、やや伏せられた長いまつげが小さく震えているのが、階下の仁威にも確認できた。小さく開いた唇も同じように震え、言葉を発しようとしてうまく発せられないようだった。


「あ、の」


 地上と二階と、二人の距離は決して近くはない。だが仁威には桔梗が時折唾を飲み込む音が聴こえるようだった。よく耳をすませば、桔梗の部屋、奥の方から男の低いいびきも聴こえる。


「あ、あの」


 何度か唾を飲み心を落ち着かせようとする様を、仁威は見上げつつ待った。こうして見ると、同い年くらいのはずの桔梗が自分よりも幼く見えた。伝えたいことを伝えられず、戸惑い、だけどどうにかして伝えようと必死になって。言葉がついてこず、気持ちだけが急いて前のめりになっている様も、成人した女が、妓女がするふるまいではないだろう。


 見上げていると、この妓女に対して人間としての好意を感じつつある自分に仁威は気づいた。直接的にはまだ片手で数えられるほどしか関わっていないが、人間的な側面を一つ一つ観察することで、自然と好意が芽生えてきたのだ。


 桔梗には自分に近しいところが多分にある。年は離れているが、楊珪己に似ている部分もいくつかある。それは誰もが同じ人間、同じ国、今は同じ街に暮らす者同士だからだろうが、仁威にとって、異性にそのような感情を抱くことは非常に珍しいことだった。だから仁威はやや戸惑いを覚えた。


 だがそんな自分が嫌いではないな、とも思った。女だというだけでこの世にいる人間の半分をずっと毛嫌いしていた自分。それは心の安寧を得るための一種の選択、決断であったのだが、こうして大人になり、そういう自分を仁威は心から認められなくなっていた。


 簡単に言えば無礼、この一言に尽きる。女という性だからといってすべての女が自分の敵ではないことは、以前から理屈では分かっていた。それは楊珪己しかり、桔梗しかり。芙蓉もそうだし、あの李清照だってその一人だ。


(これからは男とか女とか、そういうことではなく……一人の人間として他人と接するようになりたいものだ)


 そう素直に思えるようになったきっかけ、それはやはり楊珪己だった。


 この少女と関わり、指導し、助け、放っておけなくなり……そしていつの間にか、何を懸けてでも護りたくなったのだ。そして珪己を大切に想うことは、女という存在を大切に想っていいのだと気づくきっかけとなった。


 誰かを護ると決めたことで、強くもなり弱くもなる自分がいる。

 誰かを想うことで、喜びに満ちる自分と、その反対に苦しくなる自分もいる。


 自分が進みたい方向へと進めなくなることがあるのも辛い。たとえばそれは武官としての生を全うするはずだった自分自身についてであり、またたとえばそれは罪を償うためだけに生きていたはずの自分自身についてだった。固い決意で定めたことが、今、珪己の存在によってあっけなく崩れてしまっている。


 だがその『誰か』がいることで生じる変化を、仁威は憎みきれないでいた。それどころか、今このような時は嬉しくも感じる。まだ自分は変われるのだ、そう思えることが。それが神や哲学、絶対的な観点からしても正しい方向であると確信がもてることが。


 八年前のあの夏以降、罪を雪ぐという一点に注力したことで、感情や気を乱す元となる女には余計に距離を置くようにしていたが……。


(これもすべてあいつのおかげだな)


 顔が自然とほころんでいた。

 それに気がついた桔梗が、思わずといった感じで声をあげた。


「わあ」


 丸く開いた口元を手で隠して。


「……なんだ」


 むっとしつつも、心当たりはあるので仁威はすぐに仏頂面になった。その表情の変化が不思議と桔梗の緊張をやわらげたようで、欄干に頬杖をついて愉快気な目つきで仁威を見下ろしてきた。


「なんだか分かったかも」


 何のことかと聞き返すのも馬鹿らしく、仁威は余計にむっつりとした表情になった。


「私ね、隼平さんにお願いがあるの」


 おそらくさっきまでずっと喉の奥につかえていたはずの言葉が、形のいい桔梗の唇からすっと出てきた。


「隼平さんがその気になったらでいいから、一度でいいから私のこと抱いてくれる?」


 そう言った桔梗の目元は柔らかく細められていた。

 まるでそう言えたこと自体に幸福を感じているかのように。

 抱かれることのない未来を受け入れたかのように。


 一瞬、仁威の口が開かれようとした。否定の言葉を発しようとして。だが柔和な笑みを浮かべる桔梗を見上げ、仁威は口を閉ざし、それからゆっくりと開いた。


「その気になったらな」


 その気になることなど決してないと思いつつ。


 そうなる以前に自分はこの街を出なくてはならないだろう。それよりも、今、仁威が抱きたいと思う女は一人しかいない。だから他の女に興味はない。もてない。抱きたくなるほどの感情を覚えるに至った理由を遡れば、他の女にたどり着くことなど絶対にない。他の女とどうこうなるくらいならば自分は孤独の道を選ぶ。もとよりそのつもりで今もこの街でかりそめの生活をしているのだから。


(一人しか――?)

(一人しか選べない――?)


 ふいに。


(もしかしたら俺は今生において一人しか選べないのか――?)


 その事実が突然仁威の目の前に迫ってきた。


(だったら……)

(だったらやはりこの感情は……)


 この激しくうねる熱い感情は。


(珪己へのこの感情は……)


 唯一無二の感情は。


 昼間、久方ぶりに珪己と共有した心地よいひと時のことが急速に思い出されていく。いつまでも浸っていたくなるような、温もりに満ちた尊いひと時のことを。それは今日、胸の中で幾度も反すうした甘い記憶だった。


 花のような笑み。

 まっすぐにこちらを見つめる瞳。

 色づいた頬。

 何もかもが甘い。


(だが……)

(だが俺は……)


 芋づる式に現れては消えるさまざまな光景、それに紐づく一つの想い。それらがまるで天啓のように仁威の内面に響き渡ったのとほぼ同時に。


「うれしいっ……」


 両手を口元にあて、驚きながら、喜びながら、桔梗の両の目から涙が零れ落ちた。


「きっとよ。きっとね!」


 可能性は皆無、そう思いながら発した仁威の一言が、桔梗にとっての強い希望、夢に変わった瞬間を目の当たりにし。


(俺は……!)


 強烈な輝きを放つ希望を目にしたからこそ、その真逆の絶望を想像できてしまい……そこに仁威は己の、そして珪己の未来を予想してしまったのだった。自分と関わることで絶望という名の最終地点に連行されるだろう少女の姿を……。

次話から第四章です。

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