5.夜明け前のひととき
月がだいぶ下がってきている。
空を見上げ、仁威は月の位置から今の時刻を確認した。もうあと一刻ほどで夜が明けるな、と。
深海のような暗がりの中、輪郭が白くぼやけた下弦の月だけがおぼろな弱々しい光を放っている。星々は靄のような雲に隠れてほとんど見えない。外に立っているだけで涼しさを感じられるのはこの漆黒の気配の所以でもある。
仁威が先ほど出てきた建屋、妓楼は、一日でもっとも盛況な時間はとうに過ぎ、今はけだるげな空気だけを漂わせていた。店内で騒ぐだけ騒ぎ、飲むだけ飲み、男と女が交わり、床につかず帰宅する客まで見送ってしまえば、仁威の一日の仕事は終わったも同然となる。今、妓楼に残る客は、妓女と朝を迎える者ばかりで、強欲な男ですら力尽きて眠りにつくような、そんな遅い時間帯であった。
いや、唯人の多くは今を非常に早い時間だと捉えるだろう。実際、仁威の計算ではあと一刻で朝日が昇るはずで、その半刻ほど前になれば、東の方から空の色が変わり、山々の頂きに沿う光の曲線が明るく濃くなっていく様が見られるのだから。
なんとはなしに、仁威はもう一度月を見上げていた。あの月が真円の形を成していた夜のことを思い出しつつ。
月を見るたびに胸の奥を針のような細く鋭い何かで刺されたような気持ちになる。
それは珪己と接するたびに感じる痛みによく似ていた。
(珪己はまだ眠っているだろうな)
眠っているのであればこの月は見ていないはずだ。それは同じ痛みを共有していないということで、そう考えると不思議と仁威の心は安らいだ。
(明日も、あさっても……)
(あいつにこそ心地よい眠りを与えてやりたいものだ……)
そのために自分に何ができるか。
暇があればついこのことについて考える癖ができてしまった。
仁威が珪己のそばにいられる時間は無限ではない。今日または明日、突然旅立たねばならない転機が訪れる可能性もまた、皆無ではない。
仁威はこの街で初めての幸福を味わいながらも、警戒することをやめてはいなかった。芙蓉からはその後、気になる追加の情報は得られていないが、日々の出来事に神経を張り巡らしてしまうのは仁威の性分でもあった。
早く珪己を開陽に送り届けてやりたい。
それに適した時期がやってくるのを仁威はじりじりと待っている。
きっと珪己本人よりも仁威の方がその時を待ち望んでいるだろう。
しかし、それ以前に芯国人にこの居場所を知られたら……。
ふと、昼間の珪己の笑顔が思い出された。
『ふふふ』
つい少し前までは眉間にしわを寄せて雑巾を返せと詰め寄ってきていたのに、まるで花びらが一枚一枚開いていくかのように笑みを広げていった少女――。口元に手をやり、頬を赤らめ、両の瞳に自分の姿だけを映して――。
思い出すだけで胸の奥に広がっていく幸福感、その影響力の大きさを仁威は嫌いではない。それどころか好ましい。きっと神がいるとしたらこういうものを人に与えるために存在するのではないだろうか。ただの笑みがただの笑みではなくなり、ただの他人がただの他人ではなくなり……。自分一人では得ることのできない偉大な力には神秘さすらある。
(以前にどこかで似たようなことを考えた気がする……)
明け方近い時間だというのに、つい深い思索に入りかけた仁威の耳に、頭上で女がすすり泣く声が聞こえた。すべての考えを奥に押し込み顔を上げると、二階の欄干に顔を伏せて忍び泣いている妓女が見えた。
部屋の位置、そして女の姿かたち、身にまとう衣の淡い紫色から、女が桔梗であることはすぐに分かった。おそらく仁威がここに来た時には桔梗はすでにそこにいたのだろう。そして泣いていたのだろう。ただお互いがお互いに気づいていなかっただけで。
(今夜は確か)
どの妓女にどのような客がついているか、はては床につくかどうかや泊りの有無まで、仕事柄仁威は把握するようにしているから、桔梗の部屋に男が一人いるだろうことはすぐに思い出せた。桔梗を贔屓にしている上客、料亭を営む五十歳近い男だ。
(……そうか、久しぶりだったな)
抱いてほしい、そう言って仁威に迫ってきた桔梗を拒否した次の日から、桔梗は客と床にはいることを拒否していた。妓女がそれをしないとは本末転倒であるが、女将である芙蓉はそれをゆるしてきた。無理に桔梗一人を働かせなければならないほど店の財布はひっ迫していないし、この店は妓女同士大変仲が良かったから、皆が桔梗に同情し「しばらくはそういうのはしなくていいよ」と異口同音で労わっていたからだ。
そういうわけで、酒を飲む客の相手をしたり、歌や舞いを披露する程度の仕事にとどめていた桔梗であったが、さすがに上客の連日における要求は断り続けることができなかったらしい。今夜、いつも以上に念入りに身支度をした桔梗が男と部屋のある二階へと上がっていくのを、仁威は遠くから見かけている。その横顔はいつになく白かった。薄紫の粉で塗ったまぶたの下、桔梗の両の眼が自分の足元だけを食い入るように見つめていた。戦場に向かう男に引けを取らない覚悟を秘めた表情をして……。
桔梗の顔がわずかに動き、視線の先、階下の仁威の存在にようやく気がついた。
目が合い、数拍の間、二人は無言だった。
やがて桔梗のほうが苦笑いを浮かべて言った。
「こういう時はあなたの方から目を逸らすものじゃない?」
言われたことを仁威が咀嚼するまで、また沈黙が続いた。
「俺は何も悪いことはしていないが?」
わざわざ時間をかけたものの、仁威が導き出した結論は変わらなかった。
良からぬことは何もしていない。だから目を逸らす必要はない。この場から立ち去る理由もない。そういうことだ。
「それは俺ではなくお前のほうだろう?」
悪いことをしたのは自分ではない、お前だ、そう仁威は指摘している。男女逆であれば、先日仁威が桔梗にされたことは間違いなく有罪だからだ。何せ、ほとんど会話をしたこともない相手に強引に押し倒されたのは仁威の方なのである。
少し目を見開いた桔梗であったが、ややあって小さく吹き出すように笑った。目を細めてくすくすと笑いだす様は、先ほどまでの憂いを帯びた女と同一人物とは思えない。
「そうかもしれないわね。ふふふ」
しばらく一人で笑い続け、やがて桔梗がいたずらっぽい顔で丁寧に頭を下げてみせた。
「申し訳ないことをしました。ゆるしてくださいますか?」
本気で謝っているわけではないことくらい仁威にも十分伝わっているが、特段気負うこともなくうなずいてみせた。こうやって笑い話で済ませられれば助かるのは男の方であることくらい、世の常識として知っているからだ。
「もう気にするな」
では、と去ろうとしたところで、「あの」と桔梗が声を掛けてきた。




