4.子供と大人
「恋の定義はね、いろいろあるんだよ」
「た、たとえば?」
いつの間にか珪己は包丁を置いている。
師に対するように真摯に教えを乞う姿は、晃飛の承認欲をいつもそっと満たしてくれる。
だから晃飛はつい珪己に対してしゃべりすぎてしまうのだ。
「たとえば……そうだね、相手のことをいいなって思うこととかさ」
「それってどれくらいですか?」
「特別いいなって思うことだよ」
「特、別」
まるでこれまで口にしたことがない食材を味わうかのように、珪己がその言葉を区切るように発した。
それに晃飛がうなずいた。
「うん。でも始まりはちょっといいなって程度だったりすることもあるよ。だけど逆に、絶対にこの人じゃないと駄目だ、この人以外とは添い遂げたくないって思うような、やばいくらいに強い気持ちから始まってしまうこともあるしね」
「なんだかいろいろあって難しいんですね……」
「そう言われるとそうかもね」
晃飛は胸の内でいくつかの感情を比べてみた。
偉い文官様に見初められたからと、家族を捨て家を出た母親。孤独な日々を慰めてくれた唯一の存在、真白。自分の命を救ってくれた透威――そして仁威。そしてこの純で愚かなかりそめの妹。晃飛が様々な感情を覚える彼らとは――。
物思う晃飛の思考は珪己によって中断された。
「他にはどんな定義があるんですか?」
「他にねえ」
うーんとうなりつつも、この方面について妹を指導できるのは自分だけだという想いから、晃飛は思いついたことを口にしていった。
「その人が通りかかっただけでうれしくなったりさ、見ているだけでも幸せな気持ちになるなんてのは典型的な恋心だよね。子供にありがちなやつだよ」
「仁威さんも……仁威さんも昔そんな恋をしていたりするんでしょうか」
「そうそう、そういうふうにさ、特定の相手の恋の遍歴についてやけに気になったりするのも一つの事象だよね」
「ええっ。たったそれだけのことで? でも私、晃兄のことだって気になりますよ?」
「だからさあ、俺は恋したことないんだって。それに仁兄の女嫌いは昔からだからね」
「そうなんですか?」
「いや、正確には女が嫌いっていうより誰かに恋をされるのが嫌なんだろうね」
「恋をされるのが嫌い……?」
その解釈は初耳で珪己はやや大きな声を上げてしまった。
「恋っていいものなんじゃないんですか? 確かに恋には辛くて悲しい面もあるはずですし、嫌いな人に好かれたら迷惑なこともあるとは思うけど……」
これまで書物などでかじってきたわずかな知識を基に珪己は続けた。
「でも恋をすること自体が嫌い……なんですよね」
「うん、そう」
「そんなことってあるんですか? 誰かに特別だって認めてもらってうれしくない人がいるとは思えないんですが」
「でもそういう人もいるんだよね。実際、仁兄はそうだもん。俺の住んでたところにも男を好きになる男はいてさ、仁兄もその対象になったことは幾度もあるけど、奴らの誰一人として恋を実らせることはできなかったからね。女だけじゃない、誰だって仁兄は嫌なんだと思う」
「へえ……」
初めて聞く話はどれも刺激が強く、珪己は圧倒されるほかなかった。
「ああそうだ。これは知ってる?」
言うや、晃飛が珪己の左手を再度取った。包丁で切ったばかりの指は、血は止まっているがそこに赤く太い線が残っている。
「俺にこうされてどう思う?」
「どう?」
握られた手、そしてやや高い位置で見下ろす晃飛の顔を交互に見て、珪己は素直に答えた。
「そうですねえ。手首を返して抜きざまにこの拳を晃兄の顔に寸止めするべきか、それとも話の流れで何か理由があるのか様子見すべきか、そういうことを思いますね」
あはは、と晃飛が笑った。
「じゃあさ、今こうしているのが俺じゃなくて仁兄だったらどう思う?」
「え? どうって」
想像し、途端に珪己は硬直してしまった。
ぽぽぽ、と面白いくらいに頬が熱くなっていった。
「は、離してください」
「本当に離していいの?」
晃飛が目を細めた。珪己はといえば、羞恥でいよいよもっていたたまれなくなった。
「もしこの手を離したら仁兄がどっかに行っちゃうとしても、それでも離していい?」
「それはっ、それはだめです!」
珪己は自由な右手を晃飛の手の甲に添えていた。
ぎゅうっと、両の手で強く握りしめてきた珪己に、一拍おいて晃飛がふっと笑った。
「じゃあさ、もしもこの手を離さなければ君は死んでしまうとしたら……どうする?」
唐突かつ究極の問いに珪己は怯えた顔を見せた。だがそれは一瞬だった。より一層両の手に力を込め、決意を秘めた燃える瞳で晃飛を見返し言った。
「それでも絶対に離しません!」
珪己の見せた激情は予想以上のものだった。
(なんだ、もう答えは出ているじゃないか)
晃飛はそう心の中で嘆息しつつ、このところ感じる一抹の寂しさについ訊いていた。
「じゃあ同じことがさ、俺にもあったとしたらどうする?」
だが今回も即答だった。
「絶対に離しません!」
爛々と輝く瞳に見つめられ、晃飛は今度こそ深いため息をついた。
「……なるほどね、よく分かった」
「え? 何がですか?」
きょとんとする珪己はもういつもの姿だ。
「君はまだお子様で、すぐに恋を理解するのは難しそうだってこと」
「何ですかそれ」
不満げにぷうっと膨らませた珪己の頬を、晃飛はすかさず両手でぱんっと叩いた。
「い、痛いっ」
「年頃の女性はそんなふうな仕草をしないから。俺だったらそんなガキみたいな女は好きにはならないね」
それに珪己がつんと横を向いた。
「別にいいですよーだ。これが私ですから」
自分のすべてを肯定できるほど立派な人間ではないことを珪己は重々承知している。だが当の仁威が言ったのだ、お前はお前のままでいればいい、と。あの時の仁威の言葉には嘘偽りはなかった、そう思っている。
だがそんな珪己の顔を覗きこんできた晃飛は心底意外そうな表情をしていた。
「本当にいいの?」
「何が言いたいんですか」
むすっとしたのは大切な想い出にけちをつけられたような気持ちになったからだ。
「君って今いくつ?」
「十六ですけど?」
「仁兄は二十四なんだよ」
「それが?」
「しかもあの人、あの若さで近衛軍の第一隊隊長を拝命していたようなすごい人なんだよ? それがどういうことか分かってて言ってるの?」
「……分からないです」
「そういう人が、しかも女嫌いで恋愛嫌いな仁兄が奇跡的に好きになる人がいたら、それがどういう人なのか、ちょっと考えれば分かるでしょ」
「……分からないです」
むくれた珪己の唇からは、同じ言葉が漏れるだけだった。
「分からないってことは、やっぱり君はお子様だよ」
でも可愛い妹には教えてあげる、そう言って晃飛は珪己の頭をそっとなでた。
「面倒くさくない人。賢くて有益な人。つまり大人さ。お子様はおよびじゃないね」
はっとした珪己の表情は、明らかに動揺していた。
(そんなふうに好みの女じゃないって言われて傷つくなんてさ、やっぱり答えは出ているじゃないか)
それでも晃飛の口は勝手に開いていた。
「それに君はいつか開陽に戻らなくちゃいけないんでしょ?」
「そ、それは」
「君みたいなすごくいい家の女の子を恋愛対象にできる男なんてここにはいないよ。それは仁兄も同じだ。もしも君との間に何か間違いを起こせば大変なことになる、それくらいのことは分かっているはずだし、まず間違いなく仁兄は色恋で失敗するような男じゃないよ」
「それは……」
言いかけた珪己を、晃飛がすぐに制した。
「俺がなんで君にこんな話を持ち出したかってさ、つまりはこれを言いたかったからなんだよ。いいかい、君はここでは恋をすることはゆるされていないんだ。恋をするなら開陽に戻ってしかるべき時にしかるべき人と楽しむことだね」
茫然とする珪己、それを見下ろす晃飛、見つめ合う二人からはあれだけ豊富だった言葉は消え失せた。
やがて晃飛が珪己の握っていた包丁を取り上げた。そして残る野菜を刻みだした。刻みながら、まるで独り言のようにつぶやいた。
「……それに君が大人になる頃には仁兄はもういないよ。子供は一足飛びに大人にはなれないからね……」
強火でぐつぐつと煮えたぎる鍋の中では、憎らしいほどに色とりどりの野菜がゆらめいていた。
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