3.恋の道、武芸者の道
(……おかしい)
(なんだか私、おかしい)
自室に戻り寝台に突っ伏し、珪己はぐるぐると同じことばかりを考えていた。
体調が悪くなっていることだけではなく、実はもう一つ自覚していたことが珪己にはあった。
(おかしくなったのは……やっぱりあの日からだよね)
あの日とは、仁威と深く心を通わせた月食いの夜の翌日のことだ。
その夜は無我夢中だったから気にも留めなかったが、翌朝、清々しい空気に満ちた庭で仁威と接して以来、この元上司の一挙一動に妙に心の臓が跳ねるのだ。
そばにいると嬉しくなる。
なのにいたたまれなくなる。
見つめられるとうれしくなる。
なのに恥ずかしくなる。
言葉を交わすと心が弾む。
なのにどきまぎしてうまくしゃべれなくなる。
触れられるとうれしくなる。
なのに逃げ出したくなる。
ほほ笑まれると幸せな気持ちになるのはなぜだろうか。
なのに胸がしめつけられるのはなぜだろうか。
しかも、この元上司のことが急に美しく見え出している。
(いったい私、どうしちゃったの?)
いや、仁威の根本はなんら変わっていない。苦労が続いたせいで頬の線が鋭くなったものの、寡黙で不愛想な表情は知り合った頃から変わっていない。この街でも鍛練を欠かさず、また最近はよく食べよく寝ていることもあり、仁威は今も武芸者特有の剛な体を保っている。第三者から見れば仁威が特段変わったわけではないのだ。
変わったのは仁威ではなく、どう考えても珪己の方だった。
しかしどう考えても理由が分からない。
(なぜ変わってしまったんだろう)
だが変化によってたどり着く先は、未知の領域ながらも予想がついた。きっとここに自分が見るべきもの、知るべきものがあるのだろう、と。
それをうまくまとめるよりも先に看破してきたのは、珪己と仁威の二人をつぶさに観察してきた唯一の存在、晃飛だった。
仁威が夕暮れ時に環屋へとでかけ、二人で夕餉を作っている時のこと。
「君のそれって恋だよね?」
晃飛が何の脈絡もなく突然それを口にしてきた。
「ふえ?」
動揺は右手に伝わり、珪己の握っていた包丁の刃は、無警戒だった左手の人差し指の上を滑った。
「いたっ!」
「あーもう、ほら貸して」
珪己の左手を掬い上げ、晃飛が流れる血の一筋をぺろりとなめた。
しかもその指をそのまま――口に含んだ。
当然、珪己は引き抜こうとした。だが逆にがっちりと抑えられてしまった。与えられる生温かい感触は刺激が強すぎて、まるで金縛りにでもあったかのように、珪己はされるがままとなってしまった。
「うん、よし」
十分時間がたってから、晃飛はようやく指を口に含むのをやめた。左手は解放された。だが珪己の胸は今もばくばくとうるさいほどに鳴っている。
「ななな、何するんですか!」
言葉が出るまでにずいぶん時間がかかった。
そんな珪己を、しらっとした表情で晃飛が見やった。
「君、知らないの? 傷にはつばをつけるのが一番手っ取り早いし、家族なら誰だってこうするものなんだよ」
「……そうなんですか?」
珪己は己の無知さ加減をよく自覚している。ここに住み出してからほぼ毎日、類似の事象をこの青年に突きつけられ反省してきた。だが本当に晃飛の言うことが真実なのか、時たま測り兼ねることがある。今回のことも本当にそういったことなのか……いまいち確信がもてない。
それに晃飛が呆れた顔をした。
「そうなんだって。この家を出られるようになったら誰でもいいから訊いてみなよ。あ、でも良家の人に訊いてもだめだからね。そういう家の人たちは包丁を持たないし針仕事をすることもないから」
「刺しゅうくらいはします!」
「じゃあ針で指を刺した時、君はどうする?」
「……指を口に入れますね」
「ほらね。はい、じゃあ残りの野菜も早く切ってよ。もう鍋の水は煮立ってるんだから」
「は、はい」
とんとんと包丁で切りながら、はたと珪己は気づいた。
「じゃなくて! 晃兄!」
「なんだい、妹よ」
「さっきの話、一体何のことですか」
「さっきの話? ああ、恋してるでしょって話ね。事実でしょ? え、もしかしてまだ自覚してなかったの? そんなに分かりやすいのに?」
「いやいや」
とっさに否定しかけたが、晃飛の冷めた視線を受ければ、珪己は口を閉ざすしかなかった。
「あのさあ、ここ最近の君のおかしな言動を見ていたら分かるから。それで見抜けない馬鹿はいないから。というか普通、自分で気づくから」
言葉を重ねて断言され、珪己は思わずつぶやいていた。
「本当に……これは恋なんですかね」
「はあ?」
目を丸くした晃飛に、珪己は自然と尋ねていた。
「どうしてこれが恋だって分かるんですか? どこが? どうして?」
「君って……」
ふうっと、晃飛がため息をついた。
「お嬢様だということを抜きにしても相当に愚かで純な子だね」
それでも、けなされても教えを乞おうとする姿勢を崩さない珪己に、晃飛は鍋から離れると向き直った。
「正直に言うとね、俺も恋をしたことはないんだ」
「そうなんですか? じゃあなんで」
なぜ分かるのか、そう問い返そうとして、それは晃飛によって遮られた。
「人ってね、自分で体験したことしか理解できないわけじゃないんだよ。恋なんて、物心ついたときから至るところで見聞きできるものだし、ある意味一般常識みたいなものなんだよ。あっちの兄貴がこっちの姉貴に懸想しているとか、あっちの親父が店の女に本気になって修羅場になったとか。周囲から恋の話が途絶えたことなんて一度もないし」
今、晃飛は珪己の無知の理由を言外に突きつけている。
家と道場の往復ばかりで武芸一色の日々を過ごしてきたこと、女親を幼少時に失ったこと、女友達がいないこと。仕方ないといえばそれまでなのだが、選ぶ選ばないにかかわらず、これまで過ごしてきた環境に、珪己は色恋を学ぶことのできる機会をもてなかった。そこが珪己がその他大勢の人々と大きく異なる点だ。
だがそれも、一つを選び一つを失っただけのことだとも言えよう。
恋の道は、人の醜さや欲深さを知る道ともなる。複雑に入り混じる多数の道を歩み、生きる道を模索することとなる。多種多様な道を自由自在に歩む姿は、欲に忠実なようにも、または世を達観したようにも見えるだろう。
だが武芸の道は違う。選んだ唯一の道を歩むことになる。たとえば、ただ強くなりたいと剣をふるうだけの者なら、この街の屯所にたむろする十番隊の荒くれ共のように、己を過信し己の思うとおりに生きるだけのことだ。だがそこに剣をふるう意味を求めるような者であれば、僧のごとく過酷で清廉とした道とならざるを得ない。それは恋の道とは真逆だ。
最上の武芸者となることを晃飛が途中で放棄したのも、つまるところはそこにある。いつまでも迷うような者には高みを目指すことはできないのだ。
とはいえ恋に溺れる気もないのは晃飛らしい。晃飛は他人が恋を味わう様子から、十二分に人の性質を学び、自分には恋は不要と決めた、ただそれだけだった。




