2.願いのかけら
晃飛との約束どおり、自室に戻った珪己はあらためて自分自身に思いを馳せた。
ずっと住んでいた開陽の街を離れ、放浪の末に零央に、この晃飛の家にたどり着き……あらためて考えると、今ここにいることが珪己にはひどく不思議に思えた。実は夢でした、そんなおとぎ話のような結末が待っているほうがよほど自然だろう。
確かに珪己の境遇は元から常人とは異なっていた。父は武官を束ねる枢密院の長官、枢密使であるし、母はこの平和な時代に武官に殺害された哀れな人だ。そしてそのことがきっかけで、珪己は女の身で武芸を学び出した。そして今に至る。
いや、それだけであれば今ここに珪己がいる理由は説明できない。
やはり特別なきっかけ、転機となる日があったのだ。
それはこの初春のとある一日のことであり、だから珪己は自然と一人の青年のことを思い出していった。
道場での稽古中、突然現れたその青年は、まだ若いというのに上級官吏の証である紫の袍衣を身にまとっていた。そして腰には枢密院所属を意味する青玉の飾りをつけていた。
『枢密副史の李侑生です――』
そう名乗ったこの青年によって、珪己は宮城へ、皇族たちの元へと誘われたの。そして武官となる道を拓くに至った。そこにいたのが、今ここで共に暮らす袁仁威だ。だが彼との出会いは最悪だった、それに尽きる。
(そっか……まだ出会って半年もたっていないんだ……)
そのことにあらためて気づき、珪己はまた運命の不思議さを感じた。
(あの初春には本当に様々なことがあったなあ……)
皇帝の一人娘である菊花との出会い、騒動。そして王美人の自死――。
ただ楽しく充実していただけではない、今も思い出すだけで胸に痛みを覚える苦い過去。
(そして春が終わって……)
芯国の王子、イムルと出会い――。
皇帝・趙英龍との特別な一夜を過ごし――。
翌日に初めて人を殺し――。
そして今に至るのだった。
イムルと英龍のことをほぼ同時に思い出したことで、珪己はずいぶん長い間考えていなかったこと、恋や愛というものについて思い出した。思い出した、という表現はほぼ正しく、実際、珪己はこれまでそういった浮ついたことを考えるゆとりを失っていた。
恋や愛というと、ここでもまた侑生のことを一番に思い出した。
初めて珪己に口づけをしたのも、愛を告白したのも侑生だった。だがその人の誠意を珪己は一時期疑っていた。なのに侑生はそんな珪己のことを芯国の大使館まで救出しに来てくれた。そしてそれ以来、珪己は侑生に会っていない。本当は仁威に対するのと同じくらいに、この青年にも謝罪し感謝しなくてはいけないのに……。
(もしかしたら私がいなくなって心配しているかもしれない)
そう思ったところで珪己はかぶりを振った。
もしかしたら、ではない。
きっと心配している。
あの日、イムルが倒された後、珪己は侑生に抱きしめられている。体を包むその両腕は小さく震えていた。異なる日、宮城で「会いたかった」と言って抱きしめられた時も侑生の腕は震えていた……。
(震えるほどに会いたい気持ちってどういうものなんだろう?)
それすなわち恋とは限らないのかもしれないが、今珪己が父や道場仲間、侑生や英龍に会いたいと思う気持ちとは少し違う気がした。
みんなに会いたいとは思う。その気持ちは嘘ではない。だがそれは開陽の街に感じる感傷的な気持ちによく似ていた。彼らのことを想う気持ちは慣れ親しんだ記憶を綴った日記帳をめくるような、生じて当然の感情に思える……。
開陽を離れた直後は珪己もずいぶん堪えていた。普段前向きな性質であるにもかかわらず、みっともないほど鬱屈し、そのせいで共に行動する仁威に相当嫌な態度をとってしまった。だが今はそんな重しは心の中には見当たらない。探せば見つかるかもしれないが、わざわざ掘り起こそうとも思わない。
それよりも今を大事にしたい。
そう珪己は切に願っていた。
この街で、仁威と晃飛と共に過ごす日々に愛おしさを感じるようになっていた。
(もしもこの街で過ごす夜がこれで最後だとしたら)
なぜか急にそんな突飛な想像をしてしまい、すると珪己の胸がきゅっと縮んだ。
(そうなったらもうここに来ることはなくて)
(そしたらもう二人には二度と会えなくて)
自分勝手に膨らむ妄想は、その都度珪己の胸をきゅっきゅっと縮めた。
その夜、珪己は物悲しい気持ちをこらえながら眠りについたのであった。
そしてしばらくの間、珪己は毎夜をそんなふうに重い気持ちで迎えたのだった。
*
見るべきものが見えない日々はしばらく続いた。
だが自身が心身共に変化していることには、珪己も気づかざるを得なかった。
夏の終盤、長く続いた日照りで食欲が落ちていたのは事実だった。開陽の夏はもう少し涼しいし、自宅にいた頃は家人が手を変え品を変え食欲のわく料理を用意してくれたものだから、珪己は夏を苦しい季節だと思ったことはなかった。悲しいものだと捉えることはあっても、だ。
しかしここは零央だ。
三人だけの暮らしで、家の中に引きこもっているだけなので特段忙しくもないのだが、食べる量が減るのと連鎖して珪己の体力は次第に落ちていった。
それでも武芸の稽古には手を抜くことはなかった。仁威とは毎日必ず、そして手が空いているときは晃飛と、または三人で、様々な業の教えを請うた。そして夜は一人で型をなぞることで、体に十二分に業を染み込ませていった。
晃飛との約束は覚えている。だからこそ、いつまでも答えを見つけられないふがいない自分を正当化するかのように、珪己は稽古に励んだ。武芸においては努力が裏切られることはないということを、珪己は長年の経験から熟知していた。だからこそ稽古に己の心血を注いだのである。
*
その日、残暑とはいえ日差しの強い朝、珪己が廊下を拭いていると、仁威が黙って珪己の握る雑巾を奪った。膝をつき、力を込めて廊下を磨き出すその背は、開陽を、隊長職を離れて三月がたとうというのに、いまだ固く締まった筋肉で盛り上がっている。
突然のことに束の間放心してしまった珪己であったが、すぐさま雑巾を取り返そうと動いた。が、その手は空を切った。見事回避した仁威の俊敏さはさすが元武官だ。
「俺がやるからお前は少し休んでいろ」
そう言いながらも黙々と掃除を始める。
その背にすがるように珪己は身を乗り出した。
「私がやります。仁威さんは昨夜も帰宅が遅かったんですからもう少し休んでいてください」
それに仁威が手を止め顔を上げた。
「俺はなんら問題ない。問題があるのはお前の方だろう。このところずっと顔色が悪いぞ?」
真正面から表情を、体調を読み取るように直視され、珪己は思わず頬を赤らめた。それは珪己も十分自覚していたことだったからだ。台所や洗濯などのために水場に近づくたびに、鏡のような水面に映る自分の顔色が冴えないことにも気づいていた。だから最近は故意に水から目をそらしていたくらいだ。
だが見ないようにしていても、自分の体のことは自分が一番よく分かっていた。頬や目元の肉が以前よりも薄くなっていることも、触れれば分かる。何より体が重く、ちょっと動いただけで疲れを感じるようになっていた。
それでも珪己は頑固に抵抗した。
「これは私にやらせてください!」
これ以上は仁威に迷惑も負担もかけたくなかった。体調など自分の意志一つでどうとでもなる。我慢する、そう決めてしまえばいいだけのことだ。体というものは意外と丈夫にできているから、掃除もできないなどと主張するのは心根が弱い者の言い訳にしかならない。珪己は意固地なまでにそう思っていた。
だが仁威のほうもなかなか引こうとはしなかった。珪己が手を伸ばし、仁威がその手から逃れ、そんな膠着状態がしばらく続いた。何をむきになっているんだ、そうお互いに思いつつも、ここまできたら引くことなどできはしない。
雑巾を奪い合う、そんな些細でどうでもいい出来事を繰り返していることに、珪己はふとおかしくなった。真面目な顔をして何をやっているんだ、と。おかしくなったところで、こうも思った。今目が合ったらきっと二人して笑ってしまうんだろうな、と。
ちらりと見上げると、案の定、険しい顔をしていた仁威が一転して晴れやかな笑みを浮かべた。曇りのない笑顔は久しぶりに見るもので、それだけでここのところの息が詰まるような二人の溝が消えた。まるで気持ちを確かめあったあの一夜に戻ったかのように。
嬉しくなって、自然と珪己の笑みは深くなった。
それに呼応するかのように、仁威の目が柔らかく細められた。
「ふふふ」
「俺たちは何をやっているんだろうな」
「ですよね。ふふふ」
ふいに、珪己の胸にしみじみとした気持ちが沸いてきた。
ああ、なんて平和で幸せな時なんだろう――と。
それに引き換え、仁威との出会い自体は最悪だった。初め、珪己は男だと偽り武殿に潜入していたのだが、そこに仁威が現れ、因縁を付けられ、大衆の面前でいきなり真剣で立会わされたのだ。
(あれはほんと怖かったなあ……)
そんなふうに遠い過去として思い出せるほど昔の出来事ではないのだが、今となっては一昔前のことのように思えてしまう。
その後、二人は上司と部下という関係になった。そして二人の身には常に何かしらの出来事が起こった。そのせいだろう、仁威は常に険しい表情をしていたように思う。だが、寡黙ながらも、時折仁威は笑みを見せてくれた。
(そうそう。たまに笑うのは怖いからやめてほしいって言ったら、思いきり頭を叩かれたこともあったっけ)
あれは痛かった。
だが決して嫌な思い出ではない。
それからも様々なことがあったけれど、でもどれも大切な思い出ばかりで――。
そして今、仁威は目の前にいる。
あの頃から変わらず珪己の身を案じてくれている大切な人だ。
たとえもう上司でなくても。
珪己は自分のこの想いが間違っていないことを改めて確信した。あの夜、仁威に伝えた激情は間違っていない。あなたのことが大切なんです、そう告げた想いには嘘偽りは一つもなかった。
(このまま……)
(このままずっと……)
ふわふわとした頭にふいにその願いのかけらが浮かんだ。
(このまま……ずっと……)
血色の薄かった珪己の頬がやや色づいたことに気づき、仁威がおやという表情になった。
「もしかして熱があるのか?」
仁威の手が伸び、額に触れた瞬間、珪己が顎を引いた。きつくぎゅっと目をつむりながら。その様子に何やら物思いつつも、仁威は熱を測り終えると安堵のため息をついた。
「熱はないようだな」
「……あ、あの」
「うん?」
「やっぱり……掃除の続きお願いしていいですか?」
「ああ、もちろん」
珪己の頬がより一層濃く色づいていて、
「本当に大丈夫か?」
仁威がもう一度額に触れようとしたところで、うつむいたままの珪己が一歩下がった。
「……珪己?」
名を呼ぶ低い声音に耳をくすぐるような甘さを感じ――。
「わ、私、部屋に戻って寝てきます!」
珪己はくるりと振り返ると、脱兎のごとくこの場を去っていた。
*




