1.我慢の限界
夏の気配が緩やかに失せていく。
それに相反するのは仁威と珪己、二人の関係性だった。
二人の間に位置する次男坊、晃飛にとって、その変化は何とも言えない苦みを感じるものだった。つい先日自分を差し置いて親密になったと思ったら、ものの二日でまた別の変化を遂げてしまったのだから、さしもの晃飛にもついていけなかったのである。
二人の考えていることがまったく分からない。
何が二人の間に起こっているのかも分からない。
とはいえ、それを二人に直球で尋ねることもできかねていた。珪己はひどく深刻そうに思い悩んでいて、それは根が素直な少女の表情を見れば一目瞭然だったからだ。そしてそれは仁威もまた同様だった。普段は表に出すことのない感情、それを表情から読める時点でよほどのことなのだ。
だが当の二人は険悪な雰囲気に逆戻りしているわけではないようだった。お互いの名をぎこちなく呼び合い、会話を重ね。珪己が琵琶を奏で、それに仁威が耳をすませ。武芸の稽古をし。やっていることにはなんら異変はない。……なのだが、二人の間にはあからさまな遠慮と距離が生まれていた。
たとえば。
微笑み合ってもぎこちない。故意にお互いに触れないようにする。珪己がちらちらと仁威の様子をうかがう。仁威はそれに気づいているくせに無視をする。
何もかもが――おかしい。
一週間が晃飛の我慢の限界だった。
その日の夜、食事を終えた珪己は一人道場で木刀を振っていた。この習慣も異変が起こって以来始まったもので、熱の入り様はただの武芸好きの成す行動とは一線を画していた。この頃には夜の妓楼での仕事にはまた仁威が出向くようになっていたから、珪己の荒稽古のことを知るのは晃飛ただ一人だった。
今も半刻ほど黙々と稽古をしているが、こうして晃飛が観察していることにも珪己は気がついていない。それほどまでに集中しているのだ。いや、武芸者たるもの、本来は気づくべきなのだろうが。
ようやく珪己が木刀を振るう手を下ろしたところで、晃飛は声をかけた。
「妹に訊きたいことがあるんだけど」
汗ばんだ顔を向けた珪己がやや身構える仕草をとった。
「な、なんですか?」
その上目遣いな表情からして、晃飛に触れてほしくない何かを抱えているのは明白だ。荒い息を吐きながらも無意識で距離をとるその態度も。
「なんで君、そんなに稽古ばかりしているの?」
それに対する答えは自明の理であるから、珪己の警戒心は見るからに薄れた。
「これでも開陽にいた頃はもっと稽古してたんですよ?」
ほんの少し胸をそらすあたり、まだ成人になりきれていない証だ。そうは思っても、晃飛は今日はそれを指摘せず、代わりに軽やかに相づちを打ってみせた。
「へえ、そうだったんだ」
「そうですよ。腕がなまると嫌ですし、自分のことくらい自分で対処したいですしね」
「じゃあさ」
一歩近づき、晃飛はさらに尋ねた。
「じゃあなんで仁兄にあんな態度をとるようになっちゃったわけ?」
「え……?」
油断したところで核心を突かれ、珪己が小さく息を飲んだ。だがすぐに無理やり笑ってみせた。
「あんな態度ってなんですか」
「なんですかじゃないよ。ごまかそうとしてもだめだよ」
晃飛はさらに珪己に近づき、腕を組み、文字通り上から目線で言った。
「相談にのってあげるけど?」
「は?」
「だーかーら。なんか悩んでるんじゃないの? 君も仁兄もそんな顔してる。本当は言いたいことがあるのに言えない、そういう顔をしているじゃないか」
「そう……ですか?」
思わずといった感じで珪己が自分の頬に触れた。
その反対側の頬を、晃飛は思いきり引っ張ってやった。
「痛い、痛い!」
「あれ? ちゃんと痛いって言えるんだ」
本心から不思議そうに尋ねるあたり、晃飛も相当の鬼だ。成人男性が、武芸者が加減なしで力を込めているのだ。痛いに決まっている。
「当たり前じゃないですか。痛いんですから離してくださいよ!」
何度か頼んで、ようやく晃飛の手が離れた。
餅のように伸びていた頬は元に戻り、珪己は涙目で痛みの残る頬をさすった。その様子をじっと眺めていた晃飛がふと真顔になった。
「痛いって言えるんならさ、なんで思ったことは仁兄に言えないの?」
頬は今も痛いが、それ以上に晃飛の言葉に珪己は胸を突かれた。
「痛いって言わなくちゃ相手には伝わらないんだよ。じゃないとずっと痛いままなんだよ?」
言葉を失ったままの珪己に、晃飛はやけに熱を込めて語っていった。
「自分のことを他人がいつでも察してくれると思ったら大間違いだよ。世の中そんなに甘いもんじゃないから。なんでも言ったもん勝ち、やったもん勝ちだよ。じゃないと、世界は自分が望むものからどんどんかけ離れていくものなんだって知らないの?」
晃飛の言葉はまっすぐで……まっすぐ過ぎて、さ迷える今の珪己には堪えた。
だが、ちらと晃飛を見れば、なにも意地悪で言っているわけではなさそうだった。自分の哲学、思想をひけらかしたいわけでもなくて、ただ純粋に自分のことを案じてくれているだけなのだろう。
珪己は背を伸ばし、それからあらためて晃飛を見つめ返した。
「晃兄、ありがとう。言いにくいこと言ってくれて」
目をしばたいた晃飛に――珪己は一瞬で覚悟を決め、頭を深く下げた。
「ど、どうしたの?」
晃飛が慌てる気配を頭上で感じながら、珪己はより深く頭を下げた。
「お願いします。私にもう少し時間をください!」
「やめろって。ほら、顔を上げなよ」
だが珪己は腰を曲げ顔を伏せたまま言いつのった。
「私にもまだ分かっていないんです。どうしたいのか、なぜこんなふうになってしまったのかが……」
珪己は仁威のことが大切だとすでに気づいている。
はっきりと気づいている。
それは仁威も同じはずだ。
そのことを二人は一度確かめ合っている。
なのになぜか、親しみそのままにお互いに接することができなくなってしまっている。
解決したいのであれば、あの夜のようにもう一度『大切だ』と告げ、抱きしめ合えれば済む話なのだろう。だがもはやそれを実行すべき状況ではない。もっと別の何かが二人の今の関係に干渉しているのは明らかだからだ。
その正体について珪己はこれまで考えないようにしていた。仁威の態度から、それには解明する価値はないと感じられていたからだ。いや、逆に今の状況を悪化させる可能性すら感じられていた。
だが――。
「きちんと考える時間をください。私にもう少し時間をください……!」
晃飛の言うとおりだ、と頭を下げ続ける珪己は痛切に思った。
自分の生きる道は自分で切り拓くもので、こんなふうに考えることなく流れに身を任せていては駄目なのだ。この零央での平和な時間は永遠には続かないのだから。時が止まることなど――決してない。
(それが分かっていながらなぜ動こうとしなかったのだろう)
希少な時間をこんなふうに曖昧な重い気持ちで消費して、きっと後から後悔するに決まっている。
だがそれでは八年前と同じだ。
後悔したくないから武芸を始めた、そうではないか。
なのに同じことを繰り返してどうする。
武芸だけのことではない、生き方すべてにおいて覚悟を決める必要があるのだ。
そのためには――自分こそがよく考える必要がある。
「お願いします!」
再度言いきり、しばらくしたところで、晃飛が大きくため息をついた気配がした。
「……分かったよ。妹がそこまで言うなら」
「本当ですか?」
ぴょこんと上げた顔は一転して晴れやかになっている。
それに晃飛は渋い顔を作ってみせた。
「だけどあんまりひどい状況が続いたら、またその頬を引っ張ってやるからね。いくら痛いって言っても離してやらないよ?」
「ええっ! それは勘弁してくださいよ」
想像しただけでまた涙目になった珪己に、ようやく晃飛が笑みをみせた。
「分かった。じゃあ引っ張るのはやめてあげる」
「……他の痛いこともだめですよ?」
「あれ? なんで分かったの」
「分かりますよ。晃兄ってそういうのを思いつくのは天才じゃないですか」
盛大に眉をひそめた珪己に、晃飛はその手を伸ばした。まだ赤身の残る頬に触れ、軽く親指と人差し指で挟む。そして残念そうに言った。
「こんなふうにひねってやろうと思っただけなんだけどなあ」
その手が強く払われたのは言うまでもない。
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