序章
お待たせしました。放浪篇第二巻です!
「もう剣を握ることは難しいでしょう」
うつ伏せで眠る氾空也のそばで、そう医官の一人に告げられた瞬間。
氾空斗は思わず天を仰いだ。
蝋燭を数本灯しただけの暗くわびしい空間で眠る空也――その背には右上から左下に向かって真っ白なさらしが巻かれている。だがその白は半分ほどが赤に染まっている。昼間、芯国人によって斬られた怪我だ。
「ですからもう武官は……」
淡々と説明を続けようとした医官に、
「そんなことは分かってます……!」
かぶせるように叫んだ空斗は、眠る空也――義理の弟――を気づかいぐっと言葉を飲みこんだ。
ほの暗い部屋の中、蝋燭の炎の赤みが空也のむき出しの肌の上で鮮やかに揺れ動いている。そのさまは夕暮れ時の陽光を彷彿させた。だが神経が過敏になっている空斗には、それが弟の人生に下ろす幕、帳のように見えた。……弟の美しく華やかな人生に終焉を告げにきた悪しき者のように見えたのである。
それはまさに医官の言葉に同調するもので――空斗は耐えきれずに弟から目を背けた。だがどうにも胸にせり上げてくる激情までは堪えきれず、両の拳をきつく握りしめ絞り出すように言葉を発した。
「そんなことは……分かってます……」
漂い出した重苦しい空気に、医官らはみな押し黙り時の流れを待つことを選んだ。彼らは皆仕事をするためにここにいるのであって、患者やその家族に過度に同情してはならないことは誰もが心得ている。非情と言われようが、それが医官にとっての真理の一つだった。
長いようで短い時が過ぎていき、空斗がより一層辛そうに眉をひそめた、その時。
背後の戸が慎重に開かれる気配は、言葉を紡ぐ者のいない室内で誰もが察知した。
ずん、と重量感のある足の響きがためらいがちに歩を進め室内の奥へ奥へと侵入していく。体格とは不似合いな繊細な性質を持つその人物――。姿を見なくてもそれが誰かは空斗には分かった。
「弟さんの容態はどう……?」
囁くような声はその男――呉隼平らしい慈愛に満ちあふれていて、空斗はとうとう素直にならざるを得なかった。一人心を張り詰めたままでいることは当に限界にきていたから。……限界だったのだ、ただ一人でこのような辛く悲しい運命に耐えることが。
振り返った空斗の両目から涙が零れ落ちた。
「呉……枢密院事……」
白い頭巾をかぶった老医官が奥の方から厳かに現れた。
「患者の命に別状はございません」
老医官は年若い隼平に腰まで頭を下げると、空斗に代わって、また居並ぶすべての医官の代表として淡々と説明を始めた。
「意識は明日には戻ると思われます。ただ、肩の筋の損傷が激しく、回復後も武官を務めることはできかねるでしょう」
「……そう」
ぽつりと隼平がつぶやいた。それに小さく頭を下げてみせ、老医官は詳細を続けた。
「三十針ほど縫いました。ただ幸いだったのは、ここに運ばれてくる前の応急処置がよかったことでございます。出血は生命にかかわるほどの量ではございませんでした。患者はまだ若いですし、おそらく一か月もすれば『日常生活は』送れるようになるでしょう」
「そう」
「ですが今後は、武官のみならず、力を使うような仕事全般はできかねるでしょう」
武官は任務中に負った怪我の程度によって生涯を補償されることになっている。どの程度補償すべきか、その定量的な結論をこの老医官は枢密院に提出することを義務付けられている。であるから老医官は、緋袍をまとい腰に枢密院所属の証である青玉の飾りをつけたこの青年に対して、自ら懇切丁寧に説明しているのだ。
隼平はそれからも小さく相づちを打ちながら話を聞き続けた。やがて老医官がすべてを語り終え渇いた唇同士を閉じ合わせると、隼平は両手を胸の前で組み、老医官に対して頭を下げた。
「ありがとうございました」
今、この国、湖国では、年齢以上に官位がものをいう。特に文官は湖国において最も尊い職とされており、上級官吏である隼平は老医官など比べ物にならないくらい偉い。老医官は自らの腕にも経験にも自信があったが、年相応にこの世の常識を熟知していて、だから隼平の示した態度に度肝を抜かれた。両手を胸の前で組み頭を下げる――それは自分と同等以上の相手に対する所作でだからだ。そのようなふるまいを文官からされたことは彼の長い人生において一度もない。緋袍どころか、より低位の緑袍の文官からも。
「何をなされるんですか!」
だが隼平は容易には頭を上げなかった。老医官が何度か懇願し、それでようやく隼平は組んでいた手を下ろし頭を上げたが、その表情は悲痛そのものだった。それは弟のそばにずっと付き添う空斗と同質のものだった。
「ほんとうに……ありがとうございました」
隼平の心からの感謝の言葉は、それからもずっとこの老医官の心に居座り続けた。
*
医官らが退室すると、隼平は空斗の両の頬をその大きく温かな手で包み込んだ。
「君たちもほんとうにありがとう」
ごめんね、とは言わない。
ごめんと言えば、それは自分が間違ったことをしたと認めることになる。
だが隼平は間違ったことをしたとは思っていない。
そして二人は間違った選択の行きつく先の悪夢に堕ちたわけでもない。
二人は二人がすべきことをしただけで、その結果がこうだったというだけだ。
今、隼平ができること。それは空也に手厚い医療を受けさせ、二人の兄弟にお礼の気持ちを伝えることだった。そしてこの涙にくれる兄・空斗の痛みを共に分かち合うことだった。
「うううっ……」
だから空斗はようやく思う存分泣くことができたのであった。
「俺っ、俺ももう武官を辞めますっ! こんな思いをするくらいだったらもう二度と剣なんて……!」
だから空斗は本音を吐き出すことができた。
そして隼平は枢密院事として二人に『言うべきことを言わないこと』を選択した。
今回も必要なフリガナは一度しかつけませんのでご了承ください。
氾兄弟は少女篇五巻の後半から出てきた人たちです。イムルと対峙した彼らはこれからも何度も出てきますので、あの時のことを思い出していただけると嬉しいです。
また、本巻はかなり深刻な描写や残酷描写が予告なく出てきますのでお気をつけください。投稿時間は真夜中になるように調整はしておきますが…。