駅員さんとの恋
二週間かけてやっと書きおわった。
「おはようございます」
そう言って笑いかけるのは、改札口で乗客たちを待ち受ける爽やかとは少し縁遠い感じのする男性駅員だ。
年は若く二十二。顔立ちは年齢以上に幼く、丸い。どことなくおっとりとした目はいつも眠そうに見える。改札を通る人たちから切符をもらったり、定期券を見せてもらうたびに、にこりと笑う様には愛らしさがある。
(あぁ、癒されるわぁ……)
木造の小さなおんぼろ駅舎の入口に立ち、その男をじっと見つめる少女がいた。
瀬戸内花梨、十五歳。新生活に忙殺されている女子高生だ。
中学まで共学だった花梨は女子校に通いはじめ、異性との関わりがほとんどなくなってしまった。あるとすれば、父、弟、男性教師くらいである。
高校に行ったら、恋愛ばりばりするぜ! なんておもっていた花梨だが、ふたを開けてみれば恋をするのも一苦労だった。受験に失敗して、女子校に通う以外に選択肢が残されていなかったのだ。もちろん花梨にとっては苦渋の選択だったわけだが。
花梨の通う女子校は辺鄙な山中にあり、周りには何もない。しかも通学は電車で往復二時間もかかるのだ。
山ノ上女子高等学校。通称、山女。その名前に花梨は苛立ちさえ覚えた。男子校や共学校が近くにあれば、まだ交流の機会もあったのかもしれない。だが近くにあるものといえば、山河と野性動物の住処しかなかった。校庭を猿がよく歩いていたりする。それを見るたびに花梨は、「猿と恋にでもおちるか……」とおもったりしている。
そんなある朝、だるい気持ちで駅に到着した花梨が目にしたのは、若い駅員だった。スラリとしたモデルのような体型をした若い駅員に花梨の目は釘付けになった。
最初は不馴れな感じで挨拶をしていた若い駅員も一月もすれば、何十年も前からそこにいるみたいに場に馴染んでいた。
小さな町の小さな駅の駅員はすぐに地域の人たちと仲良くなる。その若い駅員も例外ではない。
「毎日、山女まで通学、大変だね」
若い駅員が花梨にかけた初めての言葉は、花梨の心にある小さな蕾をそっと開かせた。
「べ、べつに大変じゃないし!」
あまりに突然声をかけられたので、なぜかツンデレ調になってしまった。花梨はそれを今でも恥ずかしくおもっている。
(べ、べつにツンデレじゃないし!)
と、寝る前にベッドの上でゴロゴロと悶えることもよくある。浮かぶのは若い駅員の笑顔だ。あのあまい表情を思い出すだけで顔がとろけそうにニヤついてしまう。恋。そうとしかおもえなかった。
花梨と若い駅員はそれから毎朝言葉をかわす仲になった。大げさかもしれないが、花梨にとってはそれが泥濘でのたうちまわる日々の潤いになっている。
(今日はなんて声をかけられるだろう……ぐへへ)なんて事もしばしばなのである。
若い駅員は、どうやら地元民で小さなころからここの駅員になりたかったそうだ。都会の大学へ行ってもその想いは変わらなかったらしい。地域密着型なこの駅が好きなのだ。
花梨にはこんな何もない所に舞い戻ってくる人間の神経が理解できなかったが、もはやこれは運命なのではないのか! と、一人で盛り上がっていた。それ以上に若い駅員の純粋に自分のやりたいことを追いかける姿に惹かれていた。
「今日、ジョニィが彼女らしき子を連れてたんですよ!」
夕方、帰ってきた花梨は改札にいる若い駅員と話していた。
「おっ、ジョニィにも春が来ましたかあ」
春の陽気のようにのんびりと言う声に花梨の鼓動が高鳴る。
ジョニィというのは山女高校の校庭をよく歩いている猿で、花梨のなかでは彼の名はジョニィになっている。雄か雌かは定かではないのだが。
「そうそうジョニィにも春が……」
そう言った花梨は凍りついた。
(『も』? 『も』ってことは自分もってこと? そんなわけない。全然女っ気なかったはずだ! 指輪とかもしてないし、いないよね?)
これまでの会話で、彼女なし、という結論に勝手に達していた花梨は動揺の色を隠せない。
そんな花梨を見て不思議そうに笑顔を見せる若い駅員は一流の詐欺師かなにかではないのか?
(あのー、もしかして彼女できました?)
と、内心聞きたくてたまらない。でも、できない。
小心者の花梨は、敗者のように背中をまるめて帰路についた。
I'm a loser.
英語の小テストでそんな一文があったなと、花梨は頭の片隅でおもいだしていた。
「花梨、ちょっと卵買ってきて」
肌も汗ばむ六月下旬、午後三時。グレーのスウェット姿の花梨は休日ということもあり、リビングのソファーに寝転がってぼけーっとテレビを観ていた。外ではジリジリと日が照っている。そんな時だ、母に声をかけられたのは。
「自分で行きなよ~」
失恋寸前で落ち込んでいる花梨には買いものに行く気力すらない。
「暇してる子がなに言ってんの」
母が財布から千円札を一枚とりだし、寝そべっている花梨のお腹にちょんと置く。
「……すごい日差しなんだけど。シミになるよ皮膚ガンになっちゃうよ~」
「一日中家でぐーたらしてる子がよく言うよ」
「ちがうの。明日からの通学のために英気を養ってるんだよ」
「はいはい。じゃ、あんたは夕飯抜きね」
それまでだだっ子のようにごねていた花梨が、その一言を聞いたとたん、むくりと起きあがった。お腹からはらりと落ちた千円札を手に取る。
「行けばいいんでしょー」
この親子はいつもこうである。花梨もはじめから素直に行けばいいのだが、どうもサボリ癖がある。できるなら面倒くさいことは避けたいのだ。
はぁ、とため息をつき、千円札をポケットにつっこむ。玄関にむかう花梨のうしろから「レシートとお釣りは返してね」、とアイスでも買おうかとおもっていた花梨の考えを見透かしたかのように母の声がした。
ひんやり。
花梨の家から自転車で十五分のところにある小さなスーパーの店内は冷房がよく効いている。
(たまご♪ たまご♪)、と花梨は脳内でちょっとしたメロディーをつけながら、食品売り場でカゴをぷらぷらさせていた。陳列されている惣菜を見ていると、聞き慣れた声がした。
若い駅員の声だ。
声のするほうに顔を向けると、そこには美女と親しげに談笑する若い駅員の姿があった。花梨は見たくないものを見てしまい、とっさに顔をそむけた。
「花梨ちゃん?」
と、花梨に気づいた若い駅員が大きな声で呼びかけてくる。花梨はそのあまい声にあらがうように背をむけて肩を震わせた。
ポンと花梨の肩に手がおかれる。
「こんにちは、花梨ちゃん」
花梨がふりむくと、若い駅員が子犬でも見つめるかのような優しげな微笑みをたたえていた。
(最悪)
その顔にワンパンくれて余裕面を潰してやろうかとおもった花梨は拳に力をこめた。もちろん、そんなことができるわけはないのだが。
「こんにちは」
と、全力全開で笑顔をつくる花梨。
「おつかい? えらいねー」
子ども扱いである。こういうところがすこし気に入らない。花梨は以前から対等に見てもらえていないと感じることが多かったのだ。七歳しか違わないのに、というのが花梨の考えだが、若い駅員から見ると、花梨は子どもなのである。
「そっちこそ彼女さんと買いものですかー? いいですねー」
顔がひきつりそうになるのを必死にこらえて花梨は言い放った。
若い駅員が少し首をかしげる。そのかわいい仕草に花梨の頬がおもわずゆるみそうになった。
「あれ、妹だよ」
遠くからこちらを見ている美女と花梨の目があった。スラリとしたモデル体型はたしかに似ているが、顔が似ていない。若い駅員の眠そうなのほほん顔とは違い、キリッとした溌剌顔なのである。
「……似てませんね」
「アイツは父親似だから。僕は母似ね」
(ふーーーーーーーーん)
この二人は正真正銘の血のつながった兄妹なのだが、警戒モード中の花梨にはなかなか信じがたいことなのである。
「まあ、どっちでもいいですけど……」、と小さな声で花梨がゴニョゴニョ言っていると、美女が若い駅員の背中越しに花梨をのぞいていた。
美女があまりにもジッと見つめてくるものだから、花梨はどぎまぎしてしまった。
「ち、ちがうんです! か、彼氏さんに手を出してるとかそんなんじゃないんですっ!」
胸の前で両手をぶんぶんと振って必死に否定する花梨を見て美女がニヤリと笑みをうかべる。
「買いもの、つづけてて」
美女が若い駅員の背中を押しながら言うと、花梨は美女と二人きりになってしまった。美女が花梨をくまなく観察しつつニヤニヤしている。
「私の彼氏になにか用があったの?」
サァーっと血の気がひくのを感じた花梨はどうすればいいのかわからなかった。修羅場。その言葉しか思い浮かばず、肩が小さく震えはじめる。それに気づいた美女がプッと吹き出した。
「ごめん。嘘だから」
あはは、と楽しげに笑う美女がキョトンとした花梨の瞳に写っている。
(何がですか?)
わけがわからなくなっている花梨は今にも泣き出しそうに目をうるうるとさせている。
「妹だから」
(いもうと……妹?)
「……妹?」
「うん。妹」
にこりと笑う愛らしい様は若い駅員にそっくりだ。花梨はその笑顔に一瞬見とれてしまった。
「笑うとすごく似てますね」
「あー、よく言われるよ。私、琴子。よろしくね」
花梨はさしだされた琴子の手をとった。きゅっと力の入った握手。
「花梨です」
「花梨ちゃん、兄さんのこと、好きなんでしょ?」
はた目から見るとよくわかることだが、花梨はとてもわかりやすい恋する乙女なのだ。
「あの人、けっこうモテるんだよね。どこがいいのかな? ね、どこがいいの?」
初対面の人間に心の内を読まれた花梨は動悸が止まらない。しかも、意中の相手の妹なのだ、返答に困る。
何も言えずに硬直している花梨を見て、琴子が花梨の頭を優しく撫でる。
「わかりやすい子だなぁ。兄さんには言ったりしないから安心して」
そんなにバレやすいのかとおもい、花梨は耳を熱くした。
「う~ん、でもねぇ……」
と、笑顔だった琴子の顔が曇る。
「はっきりしといた方がいいから言うけど、その恋、実らないよ」
やっぱり彼女がいるのか。一度落ちこんだ事とはいえ、再確認すると辛いものがある。花梨は目を伏せて肩を落とした。
「兄さんね、もう結婚してるの」
……けっこん……ケッコン……結婚。
花梨の頭の中で結婚という言葉がうねると、もう無理だった。我慢していた涙がポロポロと落ちていく。周りの買いもの客が心配そうに花梨を見ている。
琴子は花梨をそっと抱き寄せた。声を押し殺して泣く花梨の体はちいさく小刻みに震えている。
瀬戸内花梨、十五歳。正真正銘、失恋である。
(暑すぎるんですけど…)
あれから約一年が過ぎた七月下旬。
駅へとむかう花梨の背にはベースの入ったベージュのギグバッグがある。
失恋を機に何かに打ち込むことにした花梨は、バンドをしている琴子のすすめもあって軽音楽部に入部していた。琴子とは今ではかなり仲良くなり、ちょっとした師弟関係になっている。
「おはようございます」
改札口に立っている若い駅員に元気よく挨拶をする花梨。失恋したことを忘れたわけではないが、いつまでも引きずるわけにはいかないのだ。
「今日も練習かあ。夏休みになってから毎日行ってない?」
「一年の子が無駄に熱いんですよね。ちょっとは休ませてよって感じなんですけど」
「先輩だからね」
「そそ、先輩はツラいです」
二人が笑いあっていると、若い駅員がシャツの胸ポケットから一枚の写真を取りだした。その手の薬指には結婚指輪がはめられている。以前は無くすといけないからという理由で、はずして大事にしまっていたのだが、色々と事情を知る琴子に注意されて常にはめるようになったのだ。
「生まれたよ」
写真にはコロンと寝ころがった赤ちゃんが写っている。すごく眠そうな目が若い駅員にそっくりだ。
「かわいい~。似てますねー」
と、花梨は写真の赤ちゃんと若い駅員を見比べて微笑んだ。
「僕としては奥さんに似てほしかったんだけどね」
「のろけですか?」
「いやいや~」
若い駅員が照れていると、山女高校行きの電車がホームに入ってきた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
こういう関係もありだな、と小さな幸せを噛みしめながら、花梨は電車に乗りこんだ。
(それにしても、赤ちゃん、ホントに似てたな。あと二十年もすればあの人みたいになるのかな? 私は三十六か……ぐへへ……いやいや、それまで独身なんかーい!)
ドアのそばに立ち、車窓から凛とした表情で景色をしっかりと眺める花梨の頭の中はこんなものである。
電車に揺られる花梨の顔を夏の力強い光が照らしていた。