黒い石
二人の姿が見えなくなって、陽一は店に一人残されたまま呟いた。
晶が邪魔だな……。
「はああ、舞ちゃん…」
陽一の心は舞でいっぱいだ。
晶がいなければ、きっと俺のことを気にかけてくれるのに。
いつまでも男一人で店にいるわけにはいかないので出ようとしたら見知った顔を見つけた。
どこかの店から出てきたのか、前をゆっくりと歩いている。
陽一は、公園で会った女の子に近寄った。
「ねえ、君」
「あら」
女の子は今日は花柄のスカートをはいて、涼しげな白のノースリーブのシャツを着ていた。
「アイスクリーム食べていたの?」
女の子はにっこりと笑った。
陽一は、口のはたにクリームでもついていたかな、と口をこすった。
「彼女と一緒にね。でも、さっき忙しいからって帰ったんだ」
いかにも自分には彼女がいるということを自慢げに言った。
「彼女? 名前なんて言うの?」
「舞ちゃん」
「へえ、かわいい名前ね」
「君は? 名前を教えてよ」
「私は、沙耶」
「沙耶ちゃん、わ、いい名前。俺は…」
「知ってるわ、陽一くん」
「なんで知ってんの?」
「いいじゃない。少し、歩こうか」
沙耶は、陽一の腕を取るとゆっくりと駅の方向へ歩き始めた。
「どうして彼女は帰っちゃったの? あなたと一緒にいたかったんじゃないのかしら」
「邪魔な奴がいるんだよ」
陽一は顔をしかめて言った。
「へえ」
沙耶は興味を示した。
「邪魔な奴って誰?」
「晶って言うんだけどさ、もう、すんごい生意気で」
「晶くん?」
「男じゃないよ、女子。口が悪くてさ」
陽一は、なんで二回しか会ったことのない女の子にべらべらとしゃべっているんだろうと気付いた。
「ごめん、俺、沙耶ちゃんに変なことばっかり愚痴っている」
「いいのよ」
沙耶はにこりと笑った。
「人の話を聞くのが好きなの。そうだわ、いいものあげる」
「いいもの? え、いいよ、そんなのいきなり」
「あなたにあげるつもりだったの」
そう言って取り出したのは、黒い石だった。
「な、何これ」
陽一はぎょっとする。
「貴重な黒水晶よ。持っているとお守りになるわ」
沙耶はそう言って陽一の手を取った。
とたんに体の自由を奪われた。
周りの動きも一瞬だが、止まったような気がする。
そして、石が手のひらにのめり込んでいく。
ありえねえ…。
陽一はうつろな頭でぼんやりと思った。
しかし、周りの人々は変わりなく動いている。
陽一は次第にめまいがし出した。
吐き気と戦いながら、その場に立ち尽くした。
苦しい! 誰か助けてくれ。
もがくように呟くと、
「おしまい」
と沙耶が言って、ぱっと手を離した。
「え?」
「じゃあね」
沙耶が手を振っていなくなる。
なんだか、息苦しい気がして首を押さえた。
唾を何度か呑み込んで見たが、息苦しさは変わらない。
「なんか、苦しいな」
そう言いながらも、陽一は歩きだした。
のどに違和感があったが、変な物を食べたわけじゃないし、変だなと思いながらも駅へと向かった。
石のことなど頭から消えていた。
改札を抜けて自転車で家に帰る途中、陽一は気分が悪くなり自転車を降りた。
吐きそうになり、口を押さえる。
苦しい。
苦しくてたまらない。
熱中症ってやつ? 俺、死ぬのか?
嫌だ。
せっかく舞ちゃんと出会えたのに、死ぬなんて嫌だ。
何とか足を動かそうとしたが、立っているのがやっとだ。
ついにその場で膝を突いて苦しさに喉を押さえた。
その時、自分の横に車が止まり誰かが飛び出してきた。
「陽一っ」
見上げると、陽一の祖父が膝をついて顔を覗き込んでいる。
「じいちゃん…」
「おい、大丈夫か?」
「死にそう…」
「そりゃまずい」
祖父は自転車を脇に寄せて、陽一をすぐに車に乗せた。
陽一はクーラーのきいた座席に座って大きく息を吸った。
「助かった…」
「まだ早いぞ」
祖父の車が走り出す。
「どこに行くの?」
「病院だ」
「病院? 行かないよ」
陽一の声は覇気がなく、ろれつも回っていない。
「行くんだよ」
病院に連れて行かれた陽一は熱中症と診断され、速やかに処置をしたおかげで軽く済んだ。
本当は実家に帰りたかったが、祖父の家の方が近かったので、今晩だけ泊めてもらうことになった。
自転車は後で祖父が運んでくれるという。
母方の父である祖父は、まだ七十代で足腰もしっかりしていた。
祖母に食事を用意してもらい、少し食べると横になった。
「ありがとう。じいちゃん」
飲み物を持った祖父が部屋に入ってきた。
冷房の入った部屋は快適だった。
相変わらず首元が苦しかったが、昼間に比べると楽になった。
祖父は枕元に麦茶を置いた。
陽一は起き上がり、麦茶を一口飲んだ。喉が潤う。
「倒れている姿を見た時は、死ぬほど驚いたぞ」
「俺も死ぬかと思った」
グラスを置いて、陽一はため息をついた。
祖父はスーパーで買い物をした帰りだったんだ、と言った。
「通行止めになっていたので遠回りをしたんだが、よかったよ。そうだ、お前が倒れていた場所にこれが落ちていたんだが」
祖父はポケットから黒いサングラスを取りだした。
「お前のじゃないのか?」
陽一はサングラスを手に取った。
何となく見覚えがある。
「これ…。どこにあったの?」
「お前のポケットから落ちるのを見たが」
「俺の?」
こんなものをもらった覚えはない。
その時、首がきゅっと締まるのを感じて顔をしかめた。
「どうした?」
「ちょっと、苦しくなって」
陽一はサングラスを畳に置くと横になった。
「もう、寝た方がいいな」
「うん…」
横になる陽一を見て、祖父は懐かしそうに目を細めた。
「昔を思い出すな。お前がうぐいす姫を探しまわって、何回かこの家に泊まったことがあったな」
「そうだっけ」
覚えていない。
確かに小さい頃、祖父の家によく泊まったことは覚えていた。
「俺は鶯を探してばかりいると思っていたんだが、お前の探しているのが女の子と聞いて、大したもんだと思っていたよ」
「……え?」
何だか眠くなってきた。
うとうとと目を閉じた陽一に、祖父が小さく言った。
「うぐいす姫がどうして鬼になったのか、もう、お前は聞いてこないんだな。俺が悪いんだ。最初に言い出したのは俺だから」
祖父は目から涙をこぼすとうなだれた。そして、顔を上げた時、あれ? と眉をひそめた。
「今、何か言ったっけ」
自分が何を言ったのか、瞬時に忘れてしまった。
「俺の頭もおかしいかもしれん…」
祖父はあたふたと部屋を出て行った。