悪寒
居酒屋は昨日よりももっと空いていた。
店主がジロリと佐野を見る。佐野は気にせず席に着くと、熱燗を注文した。ぐいっと呷って笑顔になる。
「うまいな」
店主に言って、突きだしを食べ始めた。陽一は、今日はここで夕食を食べるのだと悟った。
――お金あるんですか?
何気なく尋ねると、ピタリと箸が止まった。
「肉じゃがを頼む」
店主に頼んで、すぐに出てきた肉じゃがをほおばった。
――佐野さん、食べてる暇ないでしょ。女を探すんじゃないの?
佐野はガツガツと飢えたように食事をしていて答えない。嫌な予感がする。
肉じゃがに厚揚げ、卵焼き、おにぎりを食べた佐野は、最後に熱燗を一杯やってから陽一に囁いた。
――俺は一文なしだ。誰か店の人間を操って支払ってもらってくれ。
「はあっ?」
陽一は佐野の体を通して声を荒げた。店主が何事かと睨みつけてきた。
――冗談でしょ。今、お金なんか持ってないよ。
――だから、他人を操れ、と言っているんだ。
「嫌だよ」
陽一は答えると席を立った。店主が扉の前に立ちはだかった。
「お客さん、お勘定」
じっとりとねめつけられ、陽一はとっさに自分の学生かばんの中にある財布を瞬間移動で取り寄せた。ポケットに財布がある。陽一が取り出すと、
――あるならさっさと出してくれよ。
と、佐野が口を尖らせた。
――これは俺の小遣いなんだよ。
陽一は、唸ってから勘定を払い、外へ出た。しかし、陽一の心はかっかと燃えていた。
もう、嫌だ。この体から出てってやる。
――おい、何をするつもりだっ。
佐野が怒鳴った。
「うるさいな、もう、あんたの言うことなんか何も聞かない。俺に泥棒になれって言うのかっ」
佐野の体を使って大声でわめいていると、店の扉が開いて店主が出てきた。
「おい、あんた、もう二度とこの店には来ないでくれっ」
塩をまかれて二人は硬直した。
「なんてこった…」
佐野が呟いた。
――自業自得ですよ。
「ここしか手がかりはないんだぞ」
――自分が悪いんでしょ、お金もないのにご飯食べようとするからだ。
「腹が減っていたら頭が働かないんだよ」
――そんなの言いわけだろっ。
陽一が言い返した時、鼻を突く異様な臭いがして、顔をしかめた。
――なんだ、この臭い…。
酒の臭いだろうか? 佐野の大きな体がぶるるっと震えた。
「あいつだ…」
――え?
佐野が身構える。
これが敵の力か? やばい空気が漂っている。ハンターなど比じゃない。
陽一は、ごくりと喉を鳴らして振り向いた。
いつの間にか、黒い影が立っていた。それも佐野と同じくらい大きい。
陽一は、後ずさりした。
け、結界を張らないと、大変な事になる。佐野がわめいたいが、陽一は首を振った。
――で、できないよ。
「こんなところで戦ったら、この辺一帯がめちゃめちゃになってしまう」
佐野が言った。
男が一歩足を進めてきた。きつい臭いとパワー。
男を取り巻く空気は淀んでおり、怒りを帯びていた。
――あんた、この人に何をしたんです?
「何もしていないっ」
佐野が言葉を発すると、男が立ち止った。
「何もしていないだと?」
地を這うような声に寒さまで忘れてしまいそうだった。
男がさっと手を振り下ろすと、佐野の目の前の地面にひびが入った。陽一はぞっとして後ずさりする。
やばい。殺される。
その時、深紅の衣が舞って見上げると、赤猪子が空からふわりと舞い降りてきた。そして、黒い男に目をやる。
「嫌な臭いがすると思ってきてみたが、お主、何者ぞ」
男は、赤猪子を睨みつけていたが、ふんと鼻で笑った。
「姿は若いが、中身はしなびたばばあか。ふん、興味ない」
赤猪子の眉がぴくりと動く。
「殿下、こやつ、わしがやってよいか?」
「頼む、赤猪子どの」
佐野が懇願すると、赤猪子が真剣な面持ちで男を睨んだ。
「後悔するぞ」
「してみたいものだ」
男が平然と答えた。不気味に光る眼に陽一は不安でたまらない。
「赤猪子さん、逃げよう」
「何を云う」
冷静な赤猪子が怒っている。赤猪子は祝詞を唱え、付近一帯に結界を張った。びりびりと頬が引きつる。
赤猪子は袂から白い紙切れを出し、サッと振ると薙刀に変化した。男に向かって飛びかかる。男は切っ先を素早く避けて、風圧で赤猪子の体を弾き飛ばした。何とか踏ん張ったが、赤猪子が顔を上げると、目の前に男が迫っていた。
「赤猪子さんっ」
陽一はとっさに飛び上がり、男を背後から蹴り飛ばした。
男が地面に叩きつけられる。サッと顔を上げると、射殺すような目で陽一を見た。
「お前…」
許さん、と呟く声を聞くと同時に、赤猪子が佐野の腕をむんずとつかむと、瞬間移動した。
男の目が追いかけてくるような気がしたが、赤猪子の方が早かった。




