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~蒼い蝶~

こちらは台本を小説に書いたものです。

朗読など、放送にてご利用の際には、作者名、掲載URLの表記をお願い致します。

その他のご利用はどうぞお問い合わせくださいませ。




修正を保存しないまま投稿してしまったようでした。

修正させていただいたものを再投稿させていただいております。

大変失礼いたしました。

どうか再度御覧くださいませ。

朗読などにおつかになる場合は作品URLと、作者名の明記をお願いいたします。

台本として書き始めました浪漫探偵シリーズの羽状剛編です。

彼を中心にして起きる様々な事件。登場人物が交差する物語をゆっくりとですが綴ってゆければと思います。

霧というモノは、まるで異世界への扉のようだ。

何時の間にか生業となってしまった、書くという行為。

何故、成り立っているのか、俺自身に思い当たる事は一つ。

君は台座に立ち、世を見詰め続ける幸福の王子。

そうして俺は、足しげく飛び立ち、見聞きする全てを伝える、一羽の燕。

こうしてまたしたためる。

君へ、最早たった一人の肉親である、妹の君へ。

だが美也子、君は満足しているのだろうか。

美しいものが好きな君に、俺の語る全ては、どのように映っているのだろうか。


美は、酷く儚く、愛は惨い。


君の持論であるが、俺はどうしても、そうは思えないよ。


研究材料の蝶を求めて、彼方此方へと旅をしていたが、ふと、幻のオオルリアゲハが棲むという森の噂を耳にする。当初の目的地には大分、回り道になるが、日本に棲む事の無いオオルリアゲハ。おおかた、また、アオスジアゲハの見間違いなのだろうな、とは思ってみても、そこはこの性分。

幻の蝶と聞いて此の目で是非、確かめたくなった。


伝承や、噂を遡って(さかのぼって)とうとうその森を突き止めたが、いよいよ森の場所の核心に迫ろうという時に、口々に踏み入ってはならないという言葉も同時に耳に入る。

俺の気性を知っている、妹の君であればもう気づいてはいるだろう。

俺は、何の躊躇ちゅうちょもなく、その森に足を踏み入れたのだ


ふぅ、すっかり迷ってしまった。まいったぞ……そろそろ暗くなってくる。霧まで出てきたではないか。戻るにも道が全くわからん…どうしたものだか……ふうむ……ふ、ふははっ、また美弥子にどやされるな。


『お兄様、向こう見ず過ぎますわ』って。ははは……


おっと、笑い事ではないぞ。

寝袋持参とはいえ、さっき聞こえた野犬の遠吠え。森とはいえ、こんなところに狼なぞ……うーむ……。

妄想、空想は一人歩き、気分はすっかり異国の森に踏み込んだ迷い後。


もっさりした赤ずきんならぬ、探検服に身を包んだ憂愁の好青年……。


あわや闇深い森で獣の餌食……。


「くわばらくわばら……おや? あれは…?」


辺りも暗くなりかけた森の中を、ゆっくりと揺らぎながら飛んでゆく、鮮やかな青い蝶。

俺は、捜し求めていたオオルリアゲハを、何とか捕らえようと、補虫網を握りしめ、其の後を追った。

あと少しというところで取り逃がし、気づいて辺りを見ると其処は……

つたの絡まる大きな古い洋館の門の前であった。


こんな所に…洋館が……? 


だが、助かった。


事情を話して、泊まらせて貰えぬものか。


しかし……本当に人が住んでいるのか…?


それは、異国情緒豊かな大きな鉄の門に護られた、白い屋敷。


見渡そうとも、呼び鈴の類が一つも見当たらない。


だがしかし、背に腹は変えられぬ。


俺は、其の高い門の鉄格子に足をかけ、なんとか人を呼べぬものかと、よじ登った。

茂るに任せた蔦の葉と、彼方此方あちこちに植えられた木々が、まるで館を護り、隠す様に視界をさまたげる。

一層濃くなった霧を、目を凝らして窺っていると、風が流れてむせ返すような金木犀の香りが、鼻腔をくすぐった。迂闊(うかつ)な俺は何とも鼻がむず痒く、大きくクシャミをぶちかましてしまった。

其の勢いでか風の悪戯か、一瞬出来た霧の切れ目に、先ほどの蝶の瑠璃色がゆらりと揺れ動き、そして、やがて其れは人の形を成し、独りの少女の姿となった。

一人の、儚げで美しい少女の姿に…。いや、本当にそんな風に見えたんだ。

蝶の羽のように蒼いリボンが、長い髪を飾っていた。

……美弥子…ああ、美弥子。君にどうすれば伝える事ができるだろう……

今ほど、自身の文章力の拙さを恨んだことはない。     

蝶の化身と見まごうばかりの、其の美少女を見つめ、俺の頭にはただ、ただ、綺麗という二文字しか浮かばなかった。

白い肌を包む透けた、蜻蛉かげろうの羽の如きワンピース。

うっとりと夢見るような其の視線も、華奢な肢体も、消え入るように儚く見えた。

それに引き換え美少女に見惚れて、門に張り付く俺は季節はずれのずんぐりとしたカブト虫……

カブト虫? ううむ、なんという表現能力だ、ほとほと自分で嫌になる……



美弥子…俺にはやはり童話が似合っている。君のように小説など、全く無理だとこれでわかったかね。



こちらに向けられた彼女の瞳は、大きく開かれ、怯えていた。

夢の如くに綺麗な少女は、まるで、悪魔に出会ったかの勢いで立ち去ってしまった。


「君っ、待ってくれたまえ君っ、っと…っとっとっと…うおっ、アイタッタタタタ……。

 やれやれ…俺としたことが、助けを求める千載一遇の機会であったものを……」


焦って門を乗り越えようなどとしたバチが当たったのか、俺は門より落ち、したたかに腰を打った。

立ち上がろうかとも思ったが、少しばかりふてくされて座り込み、腰をさすっていた。


すると足音が聞こえ、見ると、なんと何者かが、銃を抱えてこちらにやってくる。

些細な誤解で撃たれちゃかなわんと、「おぉい、おぉい」と大きく手を振って、「怪しいものではありません。此の霧で難儀をしている者です、何卒、お助けくだされ」と大声で叫んだ。


やってきたのは、これもまた、キネマから抜きでたような色男。異人のような端正な顔立ち。

すらりと背の高い優しげな美青年であった。

男は少しいぶかしそうに眉根をひそめて俺を見つめたが、俺は、今世紀最大の邪気の無い笑顔を、頬が引きつるほどに振りまいた。

効果覿面こうかてきめん

腰を痛めた俺を……実情はふてくされていただけなのだが……だが其の俺の手を掴んで立ち上がる手伝いをしてくれた。手首を掴んだ彼の細く長い指が、まるで白い蜘蛛が足を広げているように見えた。冷たい氷のような指先であったのを覚えている。


「これはまた……」と俺が呟くと「何か……?」と深く静かな声で応えた。


「何ともお美しい……」「…霧で、目が惑わされましたか」

「なるほど…霧の夢ですか…浪漫チックですな。いやはや、眼福眼福」今思うと、俺はその時、さぞかし間抜けヅラを晒していただろうな。一見美とは何の縁もなさげなこの俺だが、妹の君を筆頭に、友人知人を鑑みても、心底、美しい生き物と縁があるようだ。例え、その縁がどのような結果を産もうとも、俺は其の運命(さだめ)に感謝を惜しまない。


「……立てますか?」再び聞こえるその声は、優しげだが何処かに不思議な威圧を感じさせ、僕を現実に、腰の痛みと共に引き戻した。


「っい、いやぁかたじけない。なぁに大した事はありません。お、重ねて失敬。僕は羽状剛うじょう たけし。何度も申しますが怪しい者ではありません。

実は研究の為に此の森にやってきたのですが、深まる霧ですっかり迷ってしまい、難儀をしていた次第です。

此方のお屋敷を見つけ、天の助けと家人にお声をかけようとして…とんだ無礼をいたしました」   


君も知っているように俺は生来、愛想だけは人に褒められる。もちろん此処でそれを使わぬ俺であるものか。いや、実際に俺は、自他ともに無害な生き物であるのだから。 

「それはお困りでしょう。二人暮らしで何もございませんが、すっかり霧にぬれていらっしゃる。着替えと、何か温かい飲み物でも」

ああ美也子、君の持論、【お兄様は天然の人たらし】説が、また証明されたのだ。

例え濃霧の中、招かれざる訪問者に銃を抱える青年であっても、俺の無害っぷりには、優しい言葉を掛けてしまうのだと云うことでまた、証明されよ。


「いやぁ、ありがたい。まったくもってありがたい。なぁに、風邪など引きませんが、少々気持ちも鬱々としていたところです。ご親切痛み入ります」


俺は何時も以上に、饒舌にしゃべり続けた。そうしていなければ、此の森の霧と、二人の美しい生き物の持つ怪しげな趣に、取り込まれてしまいそうであったからだ。俺自身の声と、意識だけが現実のモノのような気がしたのだ。俺を招き入れると、青年は再び門に鍵をかけた。


門を抜け、茨の垣根が両脇に並ぶモザイクタイルを踏み渡ると、大きな扉の前へと辿りつく。

其処は白い館。森の木漏れ日を受けて光る優雅な窓は、美しいフォルムのバルコニーへと続き、館を護る堅牢な壁が、ぐるりと其れを取り囲んでいる。

まるで其処だけが、海を超えていった友より送られた、絵葉書のように感じられた。館の佇まいはレンガ造りの壁に這う蔦の深緑と相まって、美しくも怪しい絵画の中に取り込まれてゆくのを俺は感じた。

何人の侵食も許す事無く、役目を果たすであろう扉さえも、一つの美を演出している。

建造物と自然の絶妙な旋律が、一つの世界を作り上げていた。

「ほぅ……」


素晴らしかったよ、美弥子。頬にひんやりと霧の湿気を感じながら、俺は思わず足を止め、見入ってしまった。


「何か」と、問われて俺は感じたままを彼に伝えた。


「いやぁ、何もかもがまるでお伽のようですな」

彼は、瞬きもせずに俺を見つめていた。

その青みがかって見える深い瞳の奥に、あの時何を秘めていたのだろうか。

俺は、それすらも流れるフィルムの様にしか見てはいなかった。

ああおれは、なんと云う……。


「どうぞ」と彼が重たげな扉を開ける。


そうして、俺は、此の妖しくも美しい生き物たちの棲まう洋館に、足を踏み入れたのだ。


其処は……


美しかったよ、美弥子。なにもかも。

館も、住人も。いや、森や、壁につたう蔓草つるくさまでもが。

館に入ると、曲線を描いて二階へと続く、此れも白い階段から、先ほどの夢の少女がゆっくりと降りてきたんだ。

だが、俺は一つ間違いを犯していた。

まるで、羽が地へと舞い落ちる様に、足音すら立てず、一つ一つ階段を降り、近ずく彼がゆっくりと俺に腕を伸ばし、その指先が触れようとしたその時、青年は銃を戸棚へとしまい、鍵音と同時に声を発した。

しげる」と。見とれる俺を現実に引き戻す程度の威圧を込めて。


「誰」薄く小さな唇が、羽ばたきのように動き送り出した声……


そのあたりで気づくべきだったのだ。だが後悔は先に立たず……


「あ、いや、此れは失礼しました。先ほどはどうも」俺は、自分の間抜けヅラを想像しながら愛想で誤魔化した。「先ほど?」心なしか青年の声音に、用心を感じ、俺は慌てて取り繕った。

「いやぁ、助けを請おうと門をよじの…いや、まぁその時に中庭が窺えて。 ははは、面目ない……美少女に目が眩みました…いやはや、なんとも」「見間違いでは…此処には私と滋の他誰も住んでは居りません」

間髪を入れずにそう言われ、やっと俺は……俺はさらに動揺した。彼らにとっての俺は、霧に迷い、森をさまよい疲れ助けを求める旅人なのだ。しかも柵を乗り越えようとした不審な行動のおまけ付きの。

愛嬌には自信があっても、世事せじごとなど本当に俺には向いていない。感じたままを口にするのも悪い癖だと、君に常々言われていたのに。


「美少女? 何ソレ、気色が悪い」


はっきりと口にした声は、どう聴いても少年の声……


そう、先ほど心を奪われ、蝶の化身などと夢見た、目の前で眉根をしかめて俺を睨んでいるのは……


世にも稀な、怪しくも美しい少年だったのだ……


あの時俺が、いつも君の言うように、ほんの僅かでもデリカシーというものがあったのならば…。

気まずさに陳腐な言葉しか浮かばない我が身を呪ったものだ


「ぇ? あ、いやぁ…あれだ。今日は、霧が凄かったなぁ……。は、ははは……。

 あ、おい、君…! ああ…行ってしまった……」俺は、喜劇王のように肩を落とした。乱暴に扉を閉める音が館に響く。


「気まぐれで……すみません」青年は静かに振り返り、口端を少しだけ和らげて微笑んだ。

「え、い、いやぁ。ぼかぁ日頃からよく妹に朴念仁ぼくねんじんやら、とーへんぼくやら、言われとります。まったくもって残念な事に、デリカシーとやらが足りないそうです。きっと、何か彼の気に障ったのでしょう、重ね重ね申し訳ない」何か……

否、分かりきっているではないかと自分を怒鳴りつけたい衝動にかられ、猛烈に頬が赤らんで行くのを感じた。

「我侭に育ててしまって。失礼をお許しください」と再度言われても失礼なのは誰よりも俺自身。誰か俺を殺してくれと願いながらも、なんとかせねばと思う気持ちを抑えるため、俺は大きく深呼吸をした。

息を吸って吐くと云う、そんな儀式で俺の気はすっきりと落ち着いてしまうのだ。

「いえいえ、此方こそ…。おっと、まだ自己紹介がまだでしたな。羽状剛うじょうたけしと申します。

研究のため、此の森に入りました…が、すっかりと迷ってしまい此の有様です。いやあ本当に、助かりました」

「そうでしたか。二人だけで、何もお構いできませんが、どうぞごゆっくりなさってください。

申し遅れました。私は、栄青磁さかえ せいじ。こちらの差配全般さはいぜんぱんと、家庭教師のような事をしております」


「家庭教師……。なるほど……」


「どうかなさいましたか?」


「いやいや、失礼ですが、お若いのに落ち着いておられるなと」

「そうでしょうか……滋は……あれは気まぐれです。余り、御気になさらないでください」優しげな彼の声音と物言いに、俺はまた気を緩ませた。

「ほぅ~。いやはや古来より、気まぐれは美少年の特権ですかな。はっはっは……は……」



美弥子、デリカシーというものは、いったい何処に売っているのだろう……

美しい佇まいの森に洋館。住人である美しい二人の存在。この美しく耽美な世界。

なんだか俺が全てを打ち壊しているような気がしたものだ。


「時に、研究とは…?」


「あ、いやぁ…お恥ずかしい…。実は、蝶を追っていまして……」


「蝶……」


「はい、蝶です。 実は僕は、生来せいらい生き物というものが大好きでして。 大自然の神の御技みわざの成す所の素晴らしさを、追い求めているのですよ」


「神の御技…」


「生きとし生けるモノの色彩、生態。

 人知を超えているとは思いませんかっ。

 僕は其れをもっと、もっと、知りたいのです!」


「其れで蝶を?」

彼の素朴な質問にきを良くした俺の勢いが止まるはずもなく……


「実を申しますと、蝶は蝶でも普通の蝶とは違うのです。

オオルリアゲハという、此れはまた美しい青い蝶がおりまして、日本では生息していないはずの蝶なのです。

ですが、此の辺り……というか此の森で其れを見たという噂を聞いて、もう、矢もたても堪らずにやってきた次第なのです」


「ほう……そんな噂が……」


「森にはいり込んだは良いが、どうにもこうにも迷ってしまって……。

 ……ですが、俺は、いや僕は見つけたのですっ、オオルリアゲハ。あの、日本には居てはならぬ蝶をっ」


「居てはならぬ蝶……」


「しかし、此の辺りで見失ってしまった…。いや、蝶がこちらに導いてくれたのかな?

 まぁ、蝶には蝶の道があるというから、また巡り合えると僕は信じてるんですよ」


「蝶が……お好きですか?」


「大好きですな。似合わぬとはよく言われますが」


「……お見せしたいものがございます。どうぞこちらに」


栄という青年の案内に付いて行った俺だが、正直迷って歩き回った後だ……身体は疲れきっていた。

本当なら、早々(そうそう)に風呂でも浴びて、横にさせていただきたい所だった。

君も不思議に思うだろう。

普段の俺なら、図々しくそう願ったものだ。

だが、なぜか不思議な予感がしたのだ。

このまま付いてゆけば、捜し求めていた何かに出会えるのではと。

得てして、俺はこういう勘は良く当たる。

栄は、廊下の隅にあった小部屋の入り口の鍵を開けた。鍵は銀色の鎖に掛けられていて、同じ物が他にも数本掛かっていた。

重い扉を抜けるとその部屋は、大した家具もない。

だが其処は大部分を薄曇りの硝子で造られた……おそらく其れは温室……暗い部屋の中、ぼんやりとガス灯のような光が揺らいでいる。


「こちらです。どうか、お静かになさってください」


「これは…温室ですな。一体何が……」


そう言いかけてから俺は、部屋の中に入って息を呑んだ。

其処には、まるでメーテルリンクの青い鳥のように美しく舞い飛ぶ、オオルリアゲハの群れがあったではないか。


「如何でしょう」


「如何って…こ、これは…なんて…」


「なんて美しい…でしょう?」


「う、ううむ」


うなる事しかできなかった。

其の見事な青い蝶の群れは、俺の周りに纏わり付くように飛んでいた。

半信半疑で追い求めていた蝶を、いや、蝶の群れを目の当たりにして、俺は…圧倒されてしまっていた。あんぐりと口を開けて立ち尽くしている俺の周りに一つ一つと瑠璃色に輝く蝶が近づくと、俺の身体の其処此処に群がり羽を休めた。嗚呼、何という至福……!!


「貴方を歓迎しているようだ。不思議な方だ、蝶に愛されている」

栄氏に声をかけられシャボンの泡が弾けるように俺は我に返った。

己を取り戻し、いや取り繕うように俺はなんとか声を出した。


「失礼ですが此れほどの数を、いったいどうやって……」


「私が育てました」


「なんと……!」

何ということだ! 何ということだ!美也子よ、我が妹よ!

日本での生息はないと言われながら、完全装備に身を包み、あまつさえ怪しい霧の中遭難寸前になるまで夢幻と追ってきた蝶を、其の蝶を、俺の浪漫を……此の青年は育てたというのだ!


美也子。

俺はその時本当に思ったものだ。

夢を追い続けて危険を顧みなかった愚かな俺は、きっと本当はあの霧の森の中で今まさに命の灯を消そうとしているのだと。

憐れにも其の脳裏で此の美しい羊羹や美しい二人を産み出し、追い求めた輝く蝶を身に纏うなどという前代未聞の一世一代の幻を見ているのだと……

俺の妄想の美しい青年の耳心地の良い深い声がベルベットのように俺の頬を撫でる。


「御覧なさい、此のさなぎを。そら、もう直ぐ羽化します。此の蝶は、蛹すら美しい……」


小さな蟲箱の小枝にとまった蛹から、這い出し今まさに其の羽を広げようとしている蝶を見つめる青年の、端正な横顔。美しい彼が美しい生き物をうっとりと見つめる瞳はまるで硝子玉のように輝いている。

だが其の奥深くは冷たい空洞のように感じた。

魂さえも其処には無い、空っぽの瞳。伽藍堂だ美也子、伽藍堂なんだ。


それは、いつぞや教会で見た絵の中のイエス……いや、裏切り者のユダの眼差しにも見えた。


少しずつ正気を取り戻したのか、甘い痺れた感覚の中で俺は思ったものだ。


本当に……踏み入れてはならぬ所に迷い込んだのではと……


此の館に、救いを求めて訪れたのではなく、あの、森に置き去りにされた異国の憐れな幼い兄弟のように俺は……



……誘い込まれたのではないか……と。






       

       


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