8. いただきます
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冷たいシャワーを浴びてさっぱりし、制服に着替えた俺は、朝ごはんのためにリビングへと向かう。そこであるものを見つけて思わずびくっと後ずさった。
テーブルについてあらぬ方向をむいて大口を開けているモケ子である。朝っぱらから不気味なことこの上ない。ガラス玉で出来た目はうつろで、時折「うー、あー」と呻き声が聞える。なんだこのモケ公。
「おう、おはようじゃ剣斗」
「お、おはよう」
モケの横でトーストとベーコンエッグを食べている銀髪幼女に挨拶を返しつつ、俺はキッチンに立つ母さんに問い掛けた。
「一体どうしたの、そこの人体模型」
「さぁ、モケちゃん朝起きた時からあんな感じなんだけど……」
俺の視線がお銀さんへと向かう。彼女はなみなみと注がれたミルクを飲みほして、口の周りに白ひげを蓄えて言った。
「案ずるな。単に寝ぼけておるだけよ」
「寝ぼけてるだけかよ!」
思わずピシッと手の甲で何もない空中叩いちゃったよ!
何なんだこのモケ公。本当に幽霊か?
俺の疑問の眼差しの先で、夢うつつのモケ子がびくっと跳ねた。ああ、あるよね夢に身体が反応するの。
うーむ、と少し考えて、俺はモケ子の眼の前にトースターを持ってきた。ちょっと型の古い、飛びだすタイプの奴である。食パン二枚入れてタイマースタート。お銀さんもそれを見て俺の意図に気がついたらしく、にやにやしている。俺も同様だし、向こうでニュースを見ていた仁衛門もどこか笑いの空気を纏ってこっちを見ている。
一分ほどで香ばしい香りが辺りに漂いだし、パンが焼けた。
モケ子の鼻がヒクヒクと動く、その瞬間。
がっしょん!
『ひょわッ!?』
こんがり焼けたトーストが飛びだすと同時にモケ子も飛び上がり、俺たち一同は爆笑した。
『ななな、何事ですか!? よ、よもや敵襲!?』
敵襲て。お前は一体何と戦っているんだ。
両手で身構えキョロキョロと辺りを見回すモケ子。その背後のカーテンが風にふわりと揺れた。
『そこ――あがッ!?』
過敏に反応したモケ子が勢い良く振り向き、テーブルの脚に小指をぶつけた。
『ひぎぃ……!』
床の上でのたうち回って悶絶するモケ子。
「飛び起きたりのたうち回ったり忙しい奴だなこいつ」
「剣斗、お主……」
涙目になりながらも手を伸ばしてカーテンを捲ったのは、まぁ賞讃してやるべき根性と言えよう。しかし、当然カーテンの裏には何もない。根性の無駄遣いだな。
床に転がりつつ痛みで涙目のモケ子が俺を見上げながら頷いた。
『だ、大丈夫のようですね……つぅぅ……敵は見当たりません、ぁ、くぅぅぅぅ』
「敵なんぞ見当たってたまるか」
ここは我が家だ。朝っぱらから敵が見当たる我が家なんて御免被る。
足の小指を犠牲にして目を覚ましたモケ子に苦笑しながらも俺は冷蔵庫へと寄った。中からオレンジジュースを取り出して、自分の分のコップに注ぐ。
「おはよう、モケ子。昨日はよく眠れたか?」
『あー、剣斗さん。おはようございます。ええ、お陰さまでぐっすりです』
「……そりゃよかった」
実を言えば、昨晩モケ子と強制にらめっこを行う羽目になった俺は若干の寝不足である。モケ子に非はないが恨めしさを覚えてしまうな。イビキうるさかったし。そして俺にそれを強制させた銀色小娘は素知らぬ顔である。
まぁいい。
驚かせてしまったお詫びに、モケ子の分までオレンジジュースを用意してやろう。
コップに注がれた、橙色の液体を小首を傾げて、モケ子が不思議そうに尋ねて来た。
『これは一体なんでしょう?』
「まあいいから飲んでみろ」
モケ子は初めて目にする飲み物をクンクンと匂いを嗅いで、用心深くペロリと一舐め。その瞬間、モケ子の目がぱちーんと輝いた。期待通りの反応である。
『ななな、こ、これは……!?』
感動が言葉にならないらしい。さすがオレゴン産果汁100%(濃縮還元)の威力だ。
ゴクンゴクゴクと勢い良くコップの中身を飲み干し、モケ子は感動と驚きに満ちた瞳をこちらに向けて一言呟いた。
『これは――奇跡?』
奇跡ちゃいます。
ていうか昨晩もやったじゃん、このネタ。
俺は二杯目をモケ子に注いでやりながら、その隣に座るお銀さんにもジュースいるかと問い掛けた。しかし、彼女は首を横に振って拒否する。
かわりに、
「儂はキツネジュースを所望する」
「……なんだそれ」
聞いたことねーよ。するとお銀さんは「やれやれ、近頃の若い者はこれだから」という顔をしくりさりやがった。
「薄揚げの乗ったうどんをキツネうどんというじゃろう。それのジュース版じゃと思えばよい」
「……なんだそれ」
大事なことなので二回訊きました。お銀さんの頭が大丈夫か確認する意味で。
どこかうっとりとした表情で、お銀さんは続けた。
「作り方はこうじゃ。まずは薄揚げを醤油と酒と砂糖で甘辛く煮付けてな。それを煮汁ごとミキサーで」
「あー、うん。わかった」
手遅れらしいということがよくわかった。何言ってんだ、この銀髪幼女。
「なんじゃその顔は!? 剣斗、さてはお主キツネジュースの美味さを知らぬな!? いいか、その昔ギリシャの神々が好んだという天上の飲み物に勝るとも劣らない味だと狐業界ではもっぱら評判の……!」
「いや、醤油味だろキツネジュースとやらは」
っていうか煮汁じゃん。
あと狐業界て何だ。
尚も高らかにキツネジュースとやらの美味しさ、そして健康に与える効果について語るお銀さんである。健康への効果ってあれか。塩分過多による高血圧症とか? 相変わらず、好物の薄揚げとなると見境がなくなるなこの人。
『け、剣斗さんおかわりを下さい。なにとぞ、なにとぞ……!』
「もう飲んだのかよ、お前」
下げたモケ子の頭より高く掲げられた、空のコップ。しょうがなく三杯目を注いでやると、モケ子は『ははぁ~、ありがたき幸せ~』とかなんとか。
なんだこの人体模型。
ふとテレビの方を見れは、ニュース番組で朝の占いを真剣に見ている仁衛門と、その横で怪しげな占い師の恰好をしているエリィがいる。アラビアンな衣装に口元を覆う薄いヴェール、手元には水晶玉という拘りようだ。
しかし毎朝熱心に見入っている二人だが、幽霊に今日のラッキーアイテムって効果があるんだろうか。
『ううむ、今日の拙者、らっきぃあいてむは盛り塩でござるか……』
盛り塩て。
幽霊にはスゲェ難易度高いなそれ。ていうかラッキーアイテムに盛り塩がラインナップされている占いとか、もう見ない方がよくね?
視線を転じれば、銀髪狐耳の少女と、新入りである人体模系彼女。
ちょうど入口から、もう一人の家族である姉さんが入ってくるところだった。仁衛門と同じく半透明な幽霊である姉さんに、おはようと挨拶する。
『…………』
姉さんは俺の方をちらりと見るが何も言わない。いつもの自分の席に着くと何も無い空間に向かって手を合わせた。
俺もまた何も言わなかった。無視されるのは、いつものことだ。
でもってここに、庭に居着いた幽霊たちと、出張で県外に行っている親父を加えて我が古部家の総勢ということになる。
見よ、この驚異の人外率。
母さん以外、まともな人間がいないじゃないか。
「なんかもう、変な奴ばっかりだなウチは」
そう呟くと、ベーコンエッグを持って来てくれた母さんがコツンと俺の後頭部を小突いた。
「あなたね、少なくともモケ子ちゃんはあなたの責任でしょうが」
さいでした。肩を竦めて俺も手を合わせる。
とりあえずは、いただきます、だ。