0. 目覚める
†
『……う、む……』
彼女は、呻いた。
自らの呻き声を呼び水に、暗闇の底でずっと微睡んでいた意識が、すぅっと浮かび上がってくる。
例えるなら、それは目が覚めた直後の感覚に似ている。目が開いて周囲の風景を見ているにも関わらず、意識がはっきりしないため目に映っているものを理解できないのと同じ。
やがて意識が一つに纏まりだす。
自分という存在を認識し始める。
まだ回転速度の上がらない思考で、彼女は、自分という存在を認識しようと努めた。
私は……一体……。
途切れている最後の記憶――手繰り寄せたのは、少女のすすり泣く声だった。その傍には、血塗れの女性が、事切れて倒れている姿。
思い出した。
そう。
私は、……えっと……そう、あれだ。
鬼。
人を殺し、食らう、鬼。
そして。
あれ、なんだっけ?
あ、そうだ。なんか思い出してきた。
ある時人里を襲い、そこには名のある陰陽師がいて。
うっかり掴まってこんな山奥に封印されたのだ。
たしかそんな感じだ。多分。
混乱している上に遠い記憶は霞みがかかって細部まで思い出せず、最も肝心な部分が間違っている気もするが、多分そんな感じだったはずだ。
ええっと、どうしよう。
『……く、くくくく、くふふ、ふはーっはっはっはっ』
考えていても仕方ないので、取り敢えず彼女は辺りをはばからず、それっぽく笑ってみた。
『はぁーっはっはっは、――愚かなり不留部剣典! えーっと……そう、アレだ。この山奥に私を封じ込め、森羅万象の気を以て浄化するなどと御大層な事をほざいておきながらどうだ! 私はこうして今も在るではないか!』
彼女は両腕を広げた。だが、両腕があるはずの場所には何も見えない。
『えーっと、あれ?』
小首を傾げ、自分の掌をマジマジと見詰める。
そこには、掌が無かった。
いや、正確に言えば掌はあるのだが、透き通ってうっすらとしか見えない上に輪郭がぼやけていて自分でも一瞬見落としてしまうような状態なのである。
これはもしや……幽霊、と言う奴ではなかろうか。
魂までも失うことはなかったようだが、永すぎる封印の間に肉体を失ってしまうというのは……もしかしたら充分に在り得えちゃう?
そこで初めて、彼女は自分の置かれている状況を奇妙に思った。
『私は封印をされた、ハズ、です、よ?』
問い掛けたところで答えてくれる人なんていないのだが、多分、そこは間違いない。
封印されて――それからどれだけの月日が流れた?
体を失ってしまうほど、というなら一年や二年のはずがない。
数十年――いや、数百年もの永い時が必要となるのではないだろうか。
そうだとするならば、すぐに次の疑問が湧いて出て来た。
ならば、それほどの永い刻にも耐えてきた封印が、どうして今更解けるのだろう。
そう思って、彼女は辺りを見回す。
背後にあったのは、岩。彼女が封印されていた塚にして、封印の要であるそれが押しのけられ地面に転がっている。
その隣にあるのは、巨大な――形容のし難い何か、だった。
あえて言葉で説明するならば、正座し片腕を大きく持ち上げた人間の姿に似ている。だが、人間ではない。見上げるほどの大きさだし、正座した脚は鋼鉄でなんか回転しているし、腰のあたりから突きだした筒から煙を吐き出している。何よりその何かの肩のあたりに、人間が座っているのだから。
『な、な、な、』
それはガションガシャガシャとけたたましい音を立て、一本しかない、しかし黄色く巨大で太い腕を地面に突き立て、地面をほじくり返している。
彼女は混乱に拍車がかかる思考で考えた。
あれは、肩に乗った人間に支配されているように見える。
ということはあの男が操る式神、ということか?
そう言えば遥か彼方の天竺には、象なる巨大な生き物がいるというが――
ヴォン!
『ヒャうっ!?』
また別の騒音が起こって身構えれば、平べったい鋼鉄の棒を抱えた壮年の男が樹木の前に立っている。
なんだなんだと注目する彼女の眼の前で男は、騒音を発する鋼鉄棒を振りかざし、木に押し当てる。ヴィィィィィという低い音と木屑をまき散らし、あっという間に木は切り倒されてしまった。
どんな樵の名人でも、こうは行くまい。そしてその断面の滑らかさときたら、どうだ。
当の男はと言えば倒れた木に一瞥をくれると、そのまた次の樹木に取り掛かっている。
『これは一体なに、何ですか!?』
彼女は混乱し、取りも直さずその場から逃げだした。こうなれば自分の身が幽霊となって人目につきにくいことは幸いだと思うべきか。
そして僅かに数十歩ほどしか行っていないというのに、急に視界が開けた。
そんなバカな、と彼女は思う。彼女が封印された地は人里からずっと離れた山奥だったはずだ。
だが、塚からそう離れていないのに道らしきものが通っているのはどういうわけだ。
その向こう、切り立った崖の向こうに見えるのは……もしかして、人里……なのか? 幾つもの家屋らしきものが立ち並び、石造りの見上げるほど高い建物も数えきれないほど見える。
封印の塚を移動された? まさか。
平らに均された黒い道に出て、その淵にある白い板で作られた柵に手を突いてもっと遠くまで見ようと、霊体だけとなった身体を乗り出した時。
『んぁ!?』
馬に引かれているわけでもないのに坂道を猛然と駆け上る巨大な鋼鉄の箱、その地面を揺るがすほどの唸り声に驚いて飛び退こうとして、
『あ~~れ~~…………』
彼女は白い鉄板柵、その向こうへと転がり落ちてしまった。
だから彼女は、数十分の後、彼女が目を覚ました封印の塚の前で頭を抱えて「No! Oh my GOD!」と叫んだ男がいたことを知らない。