知性の毒
毒が薬になりまた薬が毒になるのとおなじく、知性とは素晴らしいものだが、決して安全ではない。よい方向に向かう力を得ることも、限りなくおぞましい所業の原動力にすることも、どちらもできる。
文明が築かれるということなく、我々ヒトが洞窟に住まい、野原を歩き回って獣を狩り魚を獲り、木の実を食べて暮らしていたなら、そういう人生が全てであったなら、そこに全く幸福がないなどということはあるだろうか?
勿論否だ。幸福は生きとし生けるものの世界のどこにでもあり、現代文明に素晴らしい幸福があるように、二本足の獣として生きる野っ原の原人にも確かに幸福はあった。
そして。我々が旧石器時代の暮らしに、現代人の立場から幸福を見いだせないのは、この世にあるありとあらゆる幸福を、数千年かけて築いた知性のふるいにかけて、幸福の価値の高い低いというものを勝手に定めて、食料を見つけた喜びも、好きな人相手に求愛が受け入れられた喜びも、それらをとるに足らないと選り分けて捨ててしまうからだ。
もちろん知性とは、使いようによっては素晴らしいものであるのも事実だ。最近になって流行の周回遅れをダラダラと鈍足で歩きながら、TVアニメ、『チ。-地球の運動について-』を観たが、知性でもって世界を、そのほんとうの姿を見出すことに、果てしない喜びがあることはもう否定しようがあるまいと思った。史実と創作は違うが、『チ。』の中で躍動する人物の心に、知性によってもたらされる法悦を、我々は人生の中で全く感じたことがないなどと言えるだろうか。
私は絶対に言えない。タマネギが日長を感じて肥大し始めること、その性質が品種によって違うことを知ったあの畑の朝。
メンデルの遺伝法則を種取りで思い知ったいつかの葱畑。それを感じる部分は偏っているにせよ、あの時私の心に満ち満ちていたものは、知性の明かりで世界の一端を始めて鮮明に眺めたその瞬間の、喜びそのものであったはずだ。
そして、知性こそは現代文明に不可欠で、生きていくにもまた、知性の出番は多いことを我々は知りつつ、知性が人々を分断し傷つけることもまた、我々は体験している。
例に出すのは明らかに卑近で顔をしかめるくらい醜悪なものがよいだろう。かけ算九九の練習を小学生の時にした方は多いはずだ。私はまこと残念なことだが算数・数学の力は全く劣等であった。授業でスイスイクリアしていく同級生に置き去りにされ、私はたっぷり2倍の時間をかけてようよう九九暗記のテストをクリアしたのだが、それを同級生に馬鹿にされ続けた恥ずかしさは今でも忘れられない。
今挙げた例はまだ可愛らしいかもしれない。が、しかし知性をめぐる問題の、根幹をなす重い問題である。
すなわち、あらゆる不自由を理解し助けましょうという風潮がこんなにも整った現代でさえ、知性の優劣による差別には全くブレーキをかけることができないのだ。
何かを知らないこと、理解できないことに、我々は全く無邪気に、コミカルに差別を返すのだ。人種ではタブーであっても、知性によるものとなると我々はそれが誰かを傷つけることをあっさり忘れてしまう。真剣味もないためそれを指摘されても直すということがない。
当然、身体的ハンディキャップと違い、知性とは後天的に磨き、伸ばすこともできる。ゆえに、努力の有無が知性の多寡になることもまた、あるかないかで言えばある。
だから話がややこしくなるのだ。
「私は厳しい言葉を彼/彼女に投げかけたが、それは出来ないことそのものでなく、その人間の努力をしない姿勢について言っているのだ」
と言われれば咎めるのはむずかしい、しかしいわゆる努力している人たちとは、努力が通貨ではないことを今一つ理解しきれていない。200円入れれば缶ジュースが最低1本は買えるであろう自販機と、数年間の努力の果てにやはり平均まで届かなかったという無残な成長の記録を、努力論は一緒くたに語ってしまう。死力を尽くして長い時間をかけたのに、大したものが得られないという結果。当事者ならば膝から崩れ落ちるような事実に、当事者でない我々は全く冷酷なのだ。
そんな、他人への態度を目にする時、あるいは私自身がそう振る舞う時、私はついありもしない仮定に惹かれてしまう。もしもこの世界から、知性の高低の尺度、あるいは、能力の多寡の尺度などというものが全くなかったら……。
それは数の上で決して少なくない、できない側に立つ人間にとっての福音だ。彼らは何かをできないことで咎められることも馬鹿にされることもなくなり、まったく自身の立場を、生きているという事実そのものですべて肯定できるだろう。罪さえ犯さなければ、全ての命は平等であることは、建前ではなくどんな場所にいても自明の、単なる事実となる。
逆に言えば、我々は知性を得るごとに他人を見下す尺度を次々内面化していくのだ。てにをはがうまく使えないだの、敬語が使えないだの、誰それの本を読んでも理解ができないだの……。きりがない。もちろんそれを、見下す方へ使うかどうかは我々次第ではある。素晴らしい知性を持ちながらなおも、様々な人間の欠陥を「まあそういうこともあらぁよ」とあっさり認めてしまえる人もいる。
それは私から見れば、一種の毒物への耐性のように見える。同じ毒物を同じ量とっても、その後の容態は個人によってしばしば差がある。私はアルコールという毒物にはまあまあ強く、酒を飲んで前後不覚になったという経験がまだない。
かと思えば、ビールをグラス2杯も飲むと酩酊して寝こける知人もいる。知性とはそれに似ているかもしれない。人生の過半をかけて多量に摂取した知性が、他人を見下す態度となって表出する例は実によくある。別に暇庭から例を出さずともよいだろう。身の回りの人間に心当たりがいくらでもあるはずだ。
知性の毒、それを私たちはリスクがあることを知っていても、便利だから、それがないと生きられないから、これから先も、命尽きるまでずっと摂取し続けるだろう。毒の害はこれからも多分、絶えず知性に劣る何者かを貶め続ける。
忘れてはならない。我々は知性の尺度でもって、数多の小さな幸福を数限りなくゴミ箱行きにして、しかも他人を貶めることにすら使い続けている。
それを避けられないならばせめて、後ろめたく思うべきではないのか。取るに足らぬと投げ捨てた幸福の価値も、笑い者にした人間の胸の内も、それらには確かに痛みがあった。我々は確かにこれまでの人生で、悪意もなく誰かを傷つけたのだと。
ほんの僅かで構わない。爪楊枝にそっと指の腹を押し当てる程度の痛みで構わないから、その事実のおぞましさを時々思い出すことだ。知性の毒に思いを馳せるとき、我々は無邪気に人を傷つける未来を、ひとつだけ防げるかもしれないのだから。
いかに時代が進もうと、出来ない人への差別はずっと無くならない。人種がどうとか宗教がどうとかは良く話題に登るのに、目の前にあるはずの最もありふれた差別には我々は鈍感だ。
鈍感なのは同時に、それに気を配るという行為が息苦しいゆえの意図的な無視であるかもしれない。
別にヒトの生態などどれほど幼稚で醜くとも構わない。だが、それによる害を抑えるどころか、知性でもって巧妙化してしまってはそれこそ死んだほうがマシな世の中になってしまうだろう。
私はくだらないことは承知の上で、どうせなら私という人間の生態をもう少し無害化してみたいと思うのだ。まあ実現はするまい。死ぬまでやってみるかと、心が折れぬように力を抜いて決心するために書いた程度のことだ。




