フレアの決意
「貴族の結婚は、婚姻届を教会に受理されて初めて正式なものと認められるわ」
そう言いながら、フレアは執務机の引き出しから婚姻届を取り出した。
それは昨日の結婚式で記入されるはずだったもの。
しかし今の段階で書類には何も書かれていない。
「つまり、私とサミュエル様はまだ婚約者のままということよ。彼はそんなこともわかっていなかったようだけれど」
当然だが、婚約を破棄するのと離婚するとでは大きく違う。
もちろん婚約破棄も褒められたことではないが、実際にないわけではない。それに、婚約の段階なら当事者とそれぞれの家の当主が認めさえすれば可能だ。
ところが離婚ともなると手続きが一気に煩雑になる。
まずは当事者同士で離婚届を記入し、さらにはそれを教会へと提出する。その上で教会に認められて初めて離婚が正式なものとなるのだ。
そしてすべての手続きが終わるまでにはそれなりの時間もかかる。
「たしかにそうではありますが、あの方が婚約破棄を承諾するでしょうか?」
不安そうに言ったルキウスに、フレアは思案顔をしながら答える。
「そうね。サミュエル様は結婚したと思ってあんな態度に出ているのでしょうから、簡単にはいかないかもしれないわ」
今までもサミュエルはリリアンを優先してはいたが、昨日ほど露骨に態度には出していなかった。
結婚してしまえば簡単には別れられないし、今までどんな扱いを受けてもフレアが受け入れてきたから取り繕う気もなくなったのかもしれない。
「それでも、サミュエル様側が有責である限り、拒むことはできないはずよ」
フレアとの婚約期間中から今まで、サミュエルがリリアンへ費やしてきた費用。侯爵邸の使用人たちの態度。さらには、サミュエルがフレアとの約束を放ってリリアンの元へといつどれだけ行ったのかがわかる資料があればことが足りる。
極めつけは結婚式をすっぽかしたことだ。
ある意味、参列者は証人のようなもの。
フレアはサミュエルの体調不良という理由で結婚式を中止にしたが、それが建前だということくらい皆がわかっている。
それほど、サミュエルのリリアン贔屓は社交界で有名だったのだから。
(私も散々噂されたものね)
ある者は心配そうに、またある者は憐れみつつも蔑みながら。
「これが役に立つ日が来るとは思っていなかったのだけど」
フレアは婚姻届の横に置いた日記帳の表紙を優しく撫でた。
小さい頃からフレアは日記を書くのを習慣にしている。
楽しいことはさらに楽しい思い出となったし、苦しいことや悲しいことは書くことでその辛さを手放せるから。
だから、サミュエルとのことも細かく書いていた。
いつどれだけサミュエルがリリアンを優先したのか、日記を見ればすぐにわかるだろう。
「すでに私の結婚は醜聞にまみれているわ。いまさら噂がもう一つ増えたとしても、たいして変わらないもの」
むしろ、悪い噂が増えたとしても家族はフレアの決断を喜ぶに違いない。
彼らはフレアの気持ちを尊重して明確には反対しなかったが、最後まで手放しの祝福はしていなかったのだから。
「そうと決まれば行動は早いに越したことはないわね」
幸いというべきか、サミュエルは今日もミュラー邸から帰ってきていない。
リリアンが引き留めているからなのか、フレアへの当てつけなのかはわからないけれど。
「荷物の多くはまだこちらに届いていないでしょう? リックベルト家には早く連絡をする必要があるわね」
本来なら結婚式の前にウォルス邸へとフレアの荷物を運び入れる予定だった。
多くの荷物を動かすこともあってサミュエルの立ち会いが必要だったが、予定していた日はことごとくリリアンからの呼び出しで潰され、結局今日に至るまで実行されていない。
「伯爵ご夫妻はお喜びになるでしょう」
ルキウスが静かにそう言った。
「そうね、今までの私は親不孝だったわ」
いつもフレアの幸せを願ってくれる両親は、娘を蔑ろにするサミュエルに対して良くは思っていなかったのだから。それでも、彼らはフレアの気持ちを大切にしてくれたのだ。
今まで、誰よりもフレア自身が自分を大事にできていなかった。
そのことを痛感する。
「結婚式が中止になったのも、荷物が予定通りに動かせなかったことも、私にとってこの結婚が良いことではないからなのかもしれないわね」
まるで神様のお導きのようだ。
どことなく晴れやかな気持ちでフレアはそう思った。
「もうサミュエル様に振り回されることはないわ」
それはフレアの決意だった。
すべてが自分の思い通りになるのだと、そう思っているサミュエルはこれからその傲慢さの報いを受けるに違いない。
そしてサミュエルの陰に隠れながら、フレアを嘲笑っていたリリアンも。
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