第二話 味方はいらない
騒然となった夜会から抜け出した私は、迷うことなく自室の荘厳な扉の前まで戻ってきた。
予定より早く帰ってきた私に気づいて、メイドたちが一斉に動き出す。
けれど、その顔には隠しもしない「面倒、やりたくない」といった色が浮かんでいた。
(あぁ……結局、侮られていたのね)
今なら分かる。
緩慢な動きに、覇気のない足取り。
主人が帰ってきたというのに、目の前の扉を開けようとする者すらいない。
きっと、まだ何も用意ができていないのだろう。
主人の意思よりも、自分たちの都合を優先する。
誰も何も言わず、ただ私だけが不愉快で無駄な時間を過ごすことになる、いつもの嫌がらせだった。
三ヶ月もの間、私はそれを何とも思わず受け入れていた。
興味のない人間たちへそういった不満を抱くことすらなかったのだから、今さら彼女たちばかりを責めるのも少し違うのかもしれない。
(でも、「なんか嫌」と思ってしまったものは仕方ないわよねぇ)
「そこのお前と、お前。ここに」
私が声をかけると、場の空気が止まった。
誰もが「姫が言葉を発する」なんて想像していなかったのだろう。
一斉に動きを止めて、天敵を見つけた野ウサギの群れのように目を見開いている。
おずおずと、指名した二人のメイドが前に出て首を垂れた。
(顔は、しっかり覚えているわ)
私に小さな嫌がらせを繰り返してきた二人だ。
似合わない色のドレスを着せたり、わざと化粧を中途半端に終わらせて笑ったり。
よくもまぁ、一国の姫を相手にそんなくだらない遊びを思いついたものだ。
何も考えていなかったから、腹も立たなかった。
けれど、忘れていたわけではないらしい。
誰が何をしたのか。
誰が笑っていたのか。
誰がそれを見ていたのか。
思い返せば、不思議なくらいに覚えている。
(これは僥倖だわ)
何も考えていなかったからこそ、そこに余計な感情が混じっていない。この記憶は、純然たる事実のみ。
嫌いだから悪く見えたわけでも、腹が立ったから大袈裟に覚えているわけでもない。
ただ、起きたことだけが残っている。
(今世の性格、便利ねぇ)
私は微笑み、背後に控えていた近衛へ視線を向けた。
彼の腰に下がっている、装飾だけは立派なサーベルを指先で示す。
「その剣で、この二人の首を刎ねよ」
「……は?」
「その後、お前も自ら首を刎ねよ」
「は?」
あまりに愚鈍な声に、喉の奥から笑いが込み上げてきた。
(心当たりはあるでしょう?)
口には出さず、ただ微笑む。
それだけで三人の顔が真っ青になり、膝から崩れ落ちた。
他のメイドや従僕たちも、息を殺して私を見ている。
誰も何も言わない。
(結局、誰も私のやってほしいことをしてくれないのね)
困ったものだ。
「後のことは心配しないで。飛び散った血は私が掃除しておくし、誰にも迷惑をかけないようにするわ」
「お、お慈悲を……」
震える声に、押し殺した嗚咽が重なる。
「嫌よ」
即答すると、三人の震えがぴたりと止まった。
(あら、嘘泣きだったのね)
呆れるより先に楽しくなってしまい、今度こそ声を出して笑った。
けれど、問題が一つあった。
私は首を刎ねたい。
しかし、私の魔力は治癒と防御に特化していて、攻撃魔法は不得手だ。
水と氷なら扱えるけれど、剣のように綺麗に首を落とせる魔法なんて使えない。
「困ったわね……どうして分かってもらえないのかしら?」
どうしたものかと考えていると、
「君は、何をしているんだ!」
鋭い声が廊下に響いた。
夫だ。
彼が現れた途端、私の後ろにいた者たちは一斉に廊下の端へ下がった。
真紅の絨毯の上で、夫と私だけが向かい合う。
先ほどまで泣いていた三人が、助かったとばかりに勢いよく顔を上げた。
(本当に野ウサギみたい)
思わず笑ってしまって――ふと、思いついた。
(あぁ、そうだわ)
手を軽く振る。
三人の体が、音もなく凍りついた。
人の体の大半は水でできている。ならば、それを凍らせるのも同じことだ。
「水を凍らせるのは、こんなにも簡単なのね。なら血管だけ凍らせたら、どうなるのかしら?興味深いわ」
夫も、その後ろに控えている臣下たちも、誰一人として口を開かなかった。
「な、なんてことを……」
「あら」
ようやく出てきた言葉に、少しだけ腹が立った。
「私の受けた仕打ちにも、そうやって同情してくだされば良かったのに」
その一言に、夫の目が何かに苛まれたように揺れた。
「誰も、何も、してくれなかったのだもの。わたし、少しだけ怒ってるの」
この国へ嫁いできてから、私はずっと黙っていた。
『微笑み姫』
そんなあだ名をつけられて平民の笑い話にされ、週に一度は貴婦人たちから「血にしか価値がない」と囁かれた。あの頃の私は、それを聞いても微笑んでいた。その血にすら価値を見出せない者たちの囀りに、何も思わなかったからだ。
でも、今は違う。きちんと対処しなければ、私のしたいことができなくなる事に気がつけたから。
(次に同じことを言ったら……その首、刎ねてやるわ)
そう考えると、不思議と次の夜会が楽しみになってきた。
パチンと指を鳴らす。
氷が溶け、三人が床へ崩れ落ちた。
咽び泣きながら息を吹き返す。
心配して駆け寄る者は、一人もいなかった。
(人望がないのねぇ)
それは少し可哀想だと思った。
「今夜は初夜ですわねぇ?」
夫を見る。
なぜか、その場にいた全員がまた黙った。
夫はしばらく私を見つめていたが、やがて静かに顎を引いた。
「……長い夜になりそうだ」
「ふふっ、眠らせませんわ」
私はいつものように微笑んで、夫の手を取った。
夫の手のひらを、指先でくすぐるようになぞると、びくりと肩を揺らした夫が、動揺を悟らせまいと軽く咳払いをする。
分厚い前髪の向こう側にちらりと覗いた瞳が金色にきらめき、耳たぶの先が朱に染まったのも見て取れたので、少し溜飲を下げた。
今度こそ、目の前の荘厳な扉が恭しく開かれる。
(やればできるじゃない)
中へ入る途中、床に転がっていた三人の頭を踏んでいくことも忘れなかった。
意外にも、夫はそんな私を叱らなかった。
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