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ほどける声

作者: タカイ
掲載日:2026/01/26

冬の朝、店のショーウィンドウにマフラーやコートが並ぶ、ガラス越しに映るオレンジ色の光が、寒さにかじかむ空気を少しだけやわらげて見せた。


 黒いマフラー。顎より少し長い黒髪。黒いニット帽。上下の紺色の作業着は、サイズが大きいのが誰の目にも明らかだ。白い息が黒と対比され、小柄な自分は、やけに寒そうに見える。


 佐々木茉莉は東京都下の集合住宅にいた。


 町全体がうっすらと白い息をはきだしている。太陽の光が届きにくく、アスファルトの隙間や植込みの影には、昨夜の霜が残っていた。


 所属する清掃会社の仕事で、茉莉の今日の業務が空き家の整理だ。


 住居やオフィスの撤去に伴う処理、いわゆるゴミ屋敷の片づけ。事故や事件、孤独死のような特殊清掃を行う清掃会社である。特殊清掃や遺品整理の資格を持つ従業員がいて、人数は六名だけ。穏やかな会社だった。


 現場は築六十年を超える、鉄筋コンクリート造の四階建ての集合住宅。外壁はところどころ塗装が剥げ、雨だれの跡が黒ずんで筋をつくっている。

 共用の階段はひんやりと湿気を含み、手すりは冬の冷気で素手だと痛い。踊り場には、古びた植木鉢や傘立てが置かれていた。


 その一室に、つい最近まで高齢の男性が一人で暮らしていたという。部屋の主は病院で亡くなり、親族とは連絡が取れないまま。結果、管理会社からの委託で、遺品整理と原状回復が一括で発注された。


 玄関を開けた瞬間、閉ざされていた空気がゆっくりと押し返ってきた。主のいない部屋は、かすかな埃の匂いを含んでいる。


 冷蔵庫には診察券とスーパーのチラシが貼られている。流しはわずかに濡れ、蛇口から水がぽつりと漏れていた。襖の奥、四畳半と六畳の畳は日に焼けて色が薄い。座卓には、テレビのリモコンと筆記用具が並んでいた。


 異臭も荒れもない。家具は少なく、古びてはいるが比較的整っていた。人が静かに姿を消したあとの空間だけが、妙に整然としている。


 外の空気をそのまま抱え込んでいるかのように冷え切った部屋で、暖房をつけられないまま作業をするのは、二年目を経験する茉莉もまだ慣れない。夏の冷房なしも同じだ。


 会社支給の紺色の上下の下にスウェットを着込み、カイロを仕込む。軍手はあるが、細かいものは脱いで作業しなければならない。冬は手が思うように動かないこともある。


 茉莉はマスクを正し、手元の手袋をはめ直した。


 遺品整理士の資格を持った先輩と分担しながら、奥の居室の片づけに取りかかった。


 遺品整理では、貴重品や書類関係は本来、親族の確認が必要で勝手に捨てられない。供養が必要なものは寺社関係に依頼して処理してもらうことになる。今回は縁者がいないため、よほどのものを除いて会社に委ねられていた。


 要るものと要らないもの。燃えるものと燃えないもの。リサイクルするもの。梱包し、仕分けが終われば清掃で終了となる。


 押し入れからは、長年閉じ込められていた埃がふわりと立つ。机の中には請求書の控え、薬の説明書、黄ばんだ年賀状の束。どれも無人となった生活の残滓だ。


 床にしゃがんで作業していると、隣室から女性の大きめの声と子どもの泣き声が聞こえてきた。かすかな味噌汁の匂いが漏れ、集合住宅特有の薄い壁が、他人の生活の一端をそのまま響かせる。


 そのすぐあと、子どもの笑い声が混ざった。茉莉は息をついた。


 ひときわ重さのある引き出しの奥に、手のひらに収まる小箱があった。角がつぶれ、元の形を留めていない。


 ICレコーダーだった。


 記録媒体としては時代遅れに属する機器。表面には細かな擦り傷が走り、使用されていた形跡がある。


 分別箱に入れようとして、茉莉の手が止まった。個人情報の可能性があるものは、責任者に確認しなければならない。それでもーー親指が電源ボタンを押していた。


 液晶画面がゆっくりと点灯する。充電はほとんど残っていない。

 

 思考より先に、指が再生ボタンを押した。


『……ごめんな……元気で……いてくれよ……』


 部屋の空気が止まったようだった。ざらついたノイズの隙間に、くぐもった男性の声が流れる。やや低い掠れ声。言葉は短く、間が長い。震えているのは感情なのか、録音環境のせいかはわからなかった。


 録音は十秒程度で切れた。だが、その余白が、言葉よりも雄弁に何かを語っている気がした。


 ふと、自分の父の声が胸の奥に触れかける。茉莉はレコーダーの電源を落とした。


「そっちの分別終わったら声かけてくれー」


 四十代の男性主任が、隣りの部屋から声をかける。


 茉莉は小さく頷き、レコーダーをいったん燃えない分別箱に入れた。次の作業に手を伸ばしかけて、また視線が戻る。迷いを押し込めるように、もう一度取り出し、先輩に確認してもらうために腰を上げた。

   


   *



 二四歳、一人暮らしの茉莉に、久しぶりに母からメッセージが届いた。


【お父さんのもの、あんたが片づけたんでしょう。まだ残ってるじゃない。もう一年経つんだから、全部処分しにきてよ】


 茉莉は、スマートフォンの画面をしばらく見つめた。


 父の浩司が亡くなったのは一年前。仕事中に急性心筋梗塞で倒れた。親戚づきあいの少ない佐々木家では、形式的な葬儀と最小限の火葬が終わると、遺品の整理は茉莉に一任された。


 母の幸江は「仕事で慣れてるでしょ。任せた」と言い、弟の智哉は「適任じゃん」と丸投げされた。


 まだ残してあった段ボールが、実家の押し入れにしまわれたままだった。


 ーーあれは、本当に片づけたと言えるのか。


 そう思った瞬間、茉莉は実家へ向かうことを決めた。


 久しぶりに足を踏み入れた実家で、母はテレビの前から目を離さず、「そこ」とだけ言って、押し入れを顎で示した。


 茉莉は古びた廊下をゆっくりと進み、下段に押し込まれていた段ボール箱を二つ引き出す。埃っぽい蓋を開け、中を確かめた。


 一年前、確かに目を通したはずの荷物が、再び目の前に現れる。冊子、紙の束。その中に、古びた譜面ノートと、折りたたまれたプログラム用紙が埋もれていた。


 譜面ノートの表紙には『まり』の名前。


 小学三年、茉莉が音楽教室に通っていた頃のものだ。めくると、ノートの隅に子どもらしい筆跡があった。


『おとうさんにきいてもらううた』


 指先が止まる。


 片付けたときは、ただの古い思い出として分類しただけだったのだろう。紙の柔らかさやインクの染みに触れると、当時の空気がよみがえっていく。


 茉莉は幼い頃、歌うことが好きだった。テレビCMを真似て歌った歌。アニメの主題歌。音楽教室で新しく覚えた歌。


 口数の少ない父はよく聞いてくれた。褒めるわけでもなく、止めるわけでもなく、ただ静かに頷くだけだった。けれど、それは確かに「聴いている」という証だった。



   *



 あの出来事が起きたのは、小学四年の音楽会直前だった。


 クラスの中で歌が上手だった茉莉は、ソロパートを任され、毎日練習に励んでいた。同じクラスの男子が言った。


「お前のその声ってさ、わざと? 変な声」


 その一言。


 それだけで茉莉の中に確かな傷ができた。笑い声が広がり、何人かは同調し、何人かは黙った。


 冗談だったのだろう。だが、茉莉には笑えなかった。「よく通る声だね」「上手ね」と言われたことはあっても、変だと言われたのは初めてだった。


 その夜、夕食の席で母に話した。


「そもそも変な声なのは昔からでしょ。小さい頃から、ちょっと高すぎるのよ」


 母の言葉を受けて、弟は笑った。


 その瞬間、何かがはっきりと断ち切れた。自分がずっと信じていた「好き」が、急に手の届かないところへ行ってしまったようだった。


 本番。ピアノの前でソロパートに差しかかった時、茉莉は声が出なかった。


 何も聞こえない空白の数秒。先生が伴奏を止めず、合唱が再び重なり、音楽は成立してしまった。


「なんであんな大事なところで失敗するの。恥ずかしかったわよ。せっかく前に出してもらったのに」


 帰り道で、母はため息まじりに言った。


 父は黙っていた。しばらくして、母のいないところで、茉莉の背中に向かってぽつりとだけ言った。


「緊張したんだね」


 その一言が、逆に泣きたくなるほどつらかった。優しさが、胸の奥に染みすぎて、痛みに変わった。


 けれど、父のその一言だけが、自分を責めなかった。

          

 母の幸江の声は突き刺さり、父の浩司の声は消えていった。それでも今、思い出すのは父のほうだった。


 それから茉莉は歌わなくなった。声を出すことが怖くなった。人と話すことそのものが、恥をかく前提になった。


 人と話すたびに、頭のなかで確認がうずまいた。この声で話していいのか。この言い方で気味悪がられないか。


 言葉を選びすぎて、いつしか声が出なくなった。「変じゃない。かわいい声だよ」と言ってくれた、ごく親しい友達としか話せなくなり、それ以外の人には頷くしかできなかった。教室ではだんだんと静かな子として扱われるようになっていった。


 中学生になり、小学生の頃の同級生とは顔を合わせなくなって少しだけ安心した。でも、常に声を出すことに恐れがあった。

 入学して早々、自己紹介でなるべく低い声を出そうとして、担任から何度も聞き返された。それだけで、周りから笑われている気がした。


 家でも同じだった。母が何かを尋ねてきても、茉莉の声はほとんど聞き取れない。聞き返されるたびに気まずい空気が流れ、それが母の苛立ちに変わっていった。


「なに? 聞こえない。もっと大きな声、出せるでしょう」


 出したくないのではない。出せないのだ。


 幸江に『変な声』と面と向かって言われたことで、母の前では、喉がより一層ふさがった。


「ほんと、家の中が暗くなる」


 台所で食器を強く重ねる音が響いた。


 弟の智哉が幼い頃は、テレビアニメのキャラクターの決まり文句を真似て遊んだり、一緒にテーマソングを歌ったりした。しかし、茉莉が話せなくなり、幸江とぎこちなくなると、気まずさを避けるように、自分の部屋に引きこもりがちになった。


 夕食の時間。、母は無言で皿を並べ、弟はテレビのリモコンを握ったまま。父は毎日遅い帰宅で、無言でビールを飲み、さっさと寝てしまう。


 夜、布団をかぶり、小さな声で「ありがとう」の言葉を何度も練習したこともある。でも母を前にすると声は消えた。消えかけた声に、母の聞き返す声が重なり、また怯えた。


 父は何も言わない。たまに夕食が一緒になった時は、茉莉の皿にそっと好きなおかずを入れてくれる。母からきつく言われた時は、、頭を撫でてくれる。でも、その行動は声にはならなかった。


 いつしか家族の中で、茉莉は、「ただそこにいるだけの存在」になっていた。


 返事もまともにできず、心の中で何度も誤り、一人で泣いた。声だけでなく、気持ちもしまい込むようになった。


 幼い頃は、両親が不仲だった記憶はない。浩司は大人しく口数が少ない。幸江は物事をはっきりと言う性格。徐々に家族の会話が薄れていったのは、自分の引きこもってしまった心のせいかもしれない。


 最初こそ、茉莉に話しかけていた家族も、いつの間にか、娘なしで会話が成立するようになっていった。


 音楽会で歌えていたら。

 自分の声がまともなら。

 変な声と言われても、立ち向かえる強さを持っていたら。


 そんな茉莉だったなら、もっと家族らしい家族のままだったかもしれない。

 

 浩司、幸江、智哉とも、会話らしい会話もろくにない家族がこの家に出来上がっていた。


 清掃会社に就職したのも、人と接することを避けられると思ったからだ。以前は工場で流れ作業の仕事をしていたが、話さない自分に白い目が向けられた。あからさまに嫌な態度をとられ、わざと聞こえるように悪口も言われた。


 次に選んだ清掃会社の人たちは、ほとんど話さない茉莉にも優しかった。丁寧に教え、気さくに接してくれた。十代の頃に比べれば、この会社に入ってからは、多少は言葉が出るようになっていた。



   *



 父の遺品整理をしている今、譜面ノートとプログラム用紙が、茉莉の中で記憶と繋がっていく。


 このノートは、父の手によって保管され、捨てられずにここにある。『おとうさんにきいてもらううた』が、誰にも見らないまま、大人になってから思い返す日が来るとは思わなかった。


 黄色く折り目がついた紙を慎重に開く。茉莉が初めてもらった発表会のプログラムだ。娘の名前が印刷された、その紙の下の余白に、小さな書き込みがあった。


『まりのこえはきれいだ』


 鉛筆の薄い字でかすれている。けれど、それが誰の筆跡か、すぐにわかった。まっすぐで、少しだけ右に傾いたその文字。


 誰かの評価でも演出でもない。浩司が、自分の子どもに言いたかった言葉だと、今ならわかる。


 黙って残した父。声を出すことが好きだった茉莉を、父は知っていた。だから、ノートもプログラムも、この家にひっそりとしまわれていた。誰にも捨てられないように。


 空き家のICレコーダーから故人の声を聞いたあと、父の遺品がまるで別物のように見えた。


 声にしなかった父の大きな愛情は、言葉にならないまま、形を残していた。


 茉莉は紙を撫でた。何年も閉まっていたままだった想いを、今、受けとることができたのだ。


 実家での滞在は一泊だけだった。食事も淡々と取り、テレビと食器の音だけが響く。家の中では、声を出す理由も、出す相手もなかった。


「姉ちゃん、今ちょっといい?」


 弟の智哉と顔を合わせたのは、父の葬儀以来、一年ぶりだった。


 茉莉は、顔だけ弟へ向けた。


「えっとさ。俺さ。今、自主制作のアニメーションやってんだけど。声、探しててさ」


 智哉は目を彷徨わせながら「やってくんない?」と言った。


「昔、私の声、ばかにしてたじゃん」


 自分でも意外なほど、冷静な声が出た。


「え?」


「アニメキャラみたいって」


「いや、それ……」


 弟は言い淀む。


「そんなつもりじゃなかったんだけど。俺、言い方悪かった。ごめん」


「散々からかって、今さらなに?」


 都合のいい理由に聞こえて、茉莉の中で反発が膨らむ。いつもならそこで終わる会話が、今日は止まらなかった。


「どうせ私の声は変だから。こんな変な声で産まれたくて産まれたんじゃない!」


 思いのまま荒げた声が、上ずって震える。こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろう。


 茉莉は智哉から顔を背け、イヤホンをつけた。息苦しい。にじむ涙を見られなくて深く俯き、弟が立ち去るのを待った。


 智哉は、明るく社交的で、いつも人の輪の中心にいた。母に可愛がられ、外でも家でも声が通った。


 自分とはまるで正反対だった。茉莉の声が出なくなり、幸江に怒られるたび、智哉は素知らぬ顔。父に助けを求めても、あの人はテレビを見ているふりをして、言葉を返さなかった。


 茉莉の中には、あの音楽会からずっと積もってきたものがあった。家の中で、誰かと何かを分かち合えない時間。沈黙が茉莉の中にしみ込んでいた。


 ーー届かないんだよ。


 誰にでもなくつぶやいた。声に出したつもりが、音とならずに胸の中に沈んだ。かすかに、喉の奥で響く音がだけが残る。


 スマートフォンに通知が届いた。


【ばかにしたわけじゃないよ。姉ちゃんの声がアルルに似てて。あのアニメのキャラが好きだったからさ。誤解させてごめん】

【しつこいけど、これだけ。姉ちゃんの声じゃなきゃダメなんだ。俺、今回、本気で作ってる。考えてみてほしい】


 幼い頃、三匹のモンスターが冒険するアニメーションが流行り、その一匹のキャラクターがアルルだった。

 弟に、何度もアルルのセリフを喋らされたことを思い出す。彼の嫌いなにんじんを、アルルの口調で「おいしくなあれ」と言ったら、食べるようになったこともあった。


 画面を見つめたまま、茉莉は息を吸い込んだ。さっきよりも、わずかに深く。



   *



 午後一時過ぎ。太陽はまだ高いのに、冬の光は頼りなく、影だけを長く伸ばしている。路地は人通りがまばらで、風が吹くたびに枯葉が転がり、かすかな音を立てる。


 冷たい風を押しやるように、マフラーを強く巻き、茉莉は初めての駅に降り立った。


 今日は、弟のアニメーションの録音をする。昨日は夜中に何度も目が覚めて、寝るのを半ば諦め、台本のセリフを布団の中でつぶやいた。


 駅から少し離れたレンタルスタジオがあるビルに到着し、智哉に連絡すると迎えに出てきた。


「ようこそ」


 上着を着ずに来た弟を見て眉を上げた茉莉だったが、「今日も寒いなあ」と普段通りの彼に、少しだけ笑って「うん」と返した。


 スタジオの一室。緊張した茉莉は椅子に座り、台本を念入りに確認する。部屋は暖房で暖かいのに、暖かさを感じない。体の表面だけが外の寒さから溶かされているようだった。


 目の前にはコンデンサーマイクと簡易防音の壁。智哉の用意した台本が、クリップボードに留められている。


「大丈夫、時間は気にしないで」


 そう言った監督は、パソコンの前で機材の最終確認をしていた。今日はふざけた軽さがない。


 台本を受け取ってから、茉莉は暗記するほど読み込んだ。

 普段から声を出していなかったせいで、少し掠れ気味の声になっている。それがまた、一層不安を駆り立てた。


 声を出す。


 それだけのことが、こんなにも怖い。


 喉が塞がれてしまうのではないか。笑われるのではないか。台詞の途中で、裏返えるのではないか。不安が渦を巻いたとき、智哉が振り返り、いつもの調子で笑った。


「姉ちゃんなら大丈夫」


 茉莉は台本に視線を戻す。深く呼吸をして、マイクの前に立つ。映像が流れはじめると、上半身全体に心臓の動きが波打った。


 最初の一言をーー声に出そうとして、息が漏れた。


 やり直す。息が漏れる。喉が詰まる。


 焦れば焦るほど混乱し、声の出し方がわからなくなった茉莉は過呼吸になってしまった。


「落ち着いた? 最初は誰でも緊張するからさ。気にすんなって」


 弟が気負いなく言い、スポーツドリンクを差し出した。


 呼吸が少し落ち着いても、茉莉は自分の状況を受け入れられなかった。一歩踏み出せるかもしれないと思っていた期待が、たちまち消える。


「ごめん」


 声を出そうと決めたのに、肝心な時に限ってこうなる。


 ーーこんな声なんていらない。

 ーーもういやだ。


 思い出したくない音楽会、学生生活、家族との関係。固く圧縮されていたものが、限界を超えて破裂した。


「もういやだよ。もういやだ」


 溢れ出した涙は、十年以上ため込んでいた辛く苦いものだった。喉の奥が焼けるように痛み、声にならない嗚咽がこぼれる。

 あらゆる感情がごちゃ混ぜになり全身を支配する。体の中にたまった黒い思いを押し出し、茉莉は声を上げた。


 茉莉の荒い呼吸が徐々に収まり、重たい静けさが戻った頃、智哉は、姉が座っている椅子の前に膝をついた。


「このストーリーを思いついた時、真っ先に浮かんだのが姉ちゃんの声だったんだ」


 弟の話を、茉莉はうつむいたまま聞いた。


「主人公が言葉に想いを乗せて未来を切り開いていく。ただの言葉じゃだめなんだ。心からの言葉が大事なんだよ」


 智哉の静かな声が、茉莉の胸に入ってくる。


「昔、俺がお母さんに怒られた時、姉ちゃんがアルルの真似して慰めてくれたろ? あれ、めっちゃ嬉しかった」


 幼い弟の部屋で、布団の中に二人で潜った夜がよみがえる。

   

「どんな声にも力はある。あの時の姉ちゃんは、俺にあったかい心をくれた。姉ちゃんの声は、姉ちゃんだけの特権だよ」


 茉莉の頬には、まだ涙が伝い続けている。


「一人でいい。たった一人だけでも心を震わせれば、それは意味あるものになる。姉ちゃんの声は、その声だからこそ意味がある」


 智哉のその言葉は、茉莉の奥深くを震わせた。


 弟と目を合わせる。 


 ーーこのままでいいの?

 ーーこんな声なのに。

 ーーアニメキャラみたいな変な声のままで。


「姉ちゃんは誰に届けたい?」


 智哉の目はあたたかかった。


 ーー誰に?

 ーー届ける?

 ーー誰に?


「わたしにできる?」


 泣いてかすれた声。


「やってみなきゃ分からん。でも、姉ちゃんならできるって信じてる」


 弟のおどけた表情に、張りつめていた気持ちが少し緩む。それでも、彼のゆるぎない想いだけは、確かに伝わった。


 誰にも伝わらないと思っていた声が、かつて誰かに届いていたのだとしたら。今度は、自分から声を差し出してみてもいいのだろうか。


「やってみる」


 監督は大きく口を開けて歯を見せた。



   *



 しばらく休憩し、茉莉の声が戻るのを待って録音が再開した。


 心臓の音と、自分の呼吸音がこだまし、首から手は固まっている。 


 ーーまた声が出なくなったら。

 ーーまたばかにされたら。

 ーー失敗したら、今度こそ立ち直れない。


 不安が押し寄せ、息が苦しくなっていく。


 ーーこのままでいいの?

 ーーずっと声を出さずに生きていきたいの?

 ーーうなづくだけでいいの?


 茉莉は大きく、深く、深呼吸を三回した。


 ーーこのままじゃいやだ。

 ーーやってみよう。

 ーーやってみなきゃわからない。


 唾を飲み込み、少しでも喉を潤わす。


『それは本当に?』


 第一声。


 声が出た。


 高く、少し幼く響く声が、録音ルームの壁に吸い込まれていく。


 ヘッドフォンをつけた茉莉は、目の前の映像と、耳からの音に全神経を向けた。


 ーーわたしみたいにばかにされている人へ。

 ーーわたしみたいにうつむいている人へ。

 ーーわたしみたいに泣いてる人へ。


 智哉が静かに頷く。その表情に父を重ねた。もう一行、もう一行と、台詞が続いていく。


 ーー音楽会の自分へ。

 ーーご飯を作ってくれたお母さんへ。

 ーーこのままでいいといってくれた智哉へ。

 ーーただ頷いてくれたお父さんへ。


 ーー届け。

 ーー届け!


 収録が終わり、監督は小さく拍手をした。


 息を吐き出した茉莉の体は軽かった。


「ありがと」


 それは、どこかに閉じ込めていた自分の声だった。


 遠くの家の軒先に吊るされた小さな明かりや、誰かの笑い声が風に乗って届くと、心がわずかにほぐれていく。


 まだ春は遠く、寒さと不安は続いている。


 しかし、その小さな明かりが見えない未来に、かすかな道筋を示しているようだった。



   *



 録音から数日後、智哉は完成した自主制作のアニメーションをネットに公開した。二十分の短編作品。


《WISHーきみの声が、願いを叶える》


 声の内面が真実か嘘かわかる主人公。その能力によって翻弄され人間不信になるが、言葉の持つ優しさや厳しさを知り、成長していくストーリーだ。


 主人公の声を、茉莉が担当した。


 智哉は公開前、「あんまり期待しないで」と笑っていたが、初日の再生回数は一万を超えた。Xや掲示板にもスレッドが立ち、コメントがつき始める。


〈声、ちょっと浮いてない?〉

〈棒読みっぽい。素人か?〉

〈わざと? なんか耳につく声〉


 茉莉は、スマートフォンの画面を見つめて硬直した。


 何度も見ようか悩み、思い切って開いた結果がこれだ。

 胸の奥が締め付けられ、心臓の音が耳の奥で鳴る。血の気が引くような感覚。喉がまた塞がっていく。


 まるであの音楽会の舞台に、またひとりで立たされているようだ。


 ーーやっぱり私の声はダメなんだ。

 ーー声を出したから、こうなったんだ。

 ーー変わろうなんて無理だった。


 どんなに頑張っても、結局は否定される。喉を震わせた結果がこれなら、いっそもう声は出さない。


 茉莉はスマートフォンを遠ざけ、布団の中で泣いた。誰にも見られない、聞かれない部屋で、声を殺した。


 父に褒められた声。弟に頼られた声。初めて勇気を出した声。


 それが、たった数行の文字で打ち砕かれていく。音楽会で歌えなくなったあの時の、何倍も悲しかった。


 翌朝目を覚まし、スマートフォンのホーム画面を見る。電源を切り、黒い画面のまま鞄に入れ、灰色の街並みを抜けて仕事へ向かった。


「会社から案内が届いてるから、みんな確認するようにな」


 上司の言葉にしぶしぶスマートフォンの電源を入れると、智哉からメッセージが届いていた。


 茉莉は見て見ぬふりをした。


 仕事の間中、スマートフォンが気になって仕方ない。それでも見ない。見れない。


 帰宅途中、冷えて並んだ家々の窓は閉ざされ、カーテンの隙間から漏れる明かりが、わずかに人の気配を知らせる。住宅街の道を歩く足音は、自分一人だけ。その温もりの外にいる茉莉の白い息だけが、彼女の存在を露わにしていた。


 自宅に着くと、靴も脱がず玄関にしゃがみ込んだ。真っ暗な中、唯一の安全地帯で息を吐く。


 暗がりに目が慣れた頃、スマートフォンを鞄から取り出し見つめる。


 内容を見た後の後悔が先に立ち、弟のメッセージや掲示板を見ることをためらわせた。


『やってみなきゃわからん。でも、姉ちゃんならできるって信じてる』


 智哉の声が胸の奥で響く。


 ーーやってみようと決めたのは自分だ。

 ーーわたしはやってみたんだ。


 スマートフォンの電源ボタンを長押しした。起動するのが待ち切れず、何度も画面を指で叩く。


 いつもの画面が表示され、弟のメッセージをすぐに開いた。


【コメント、気にするなって言っても無理か。けど、ちょっと下の方まで見てみて】


 半信半疑で、公開された作品のスレッドを下へスクロールしていく。


〈最初は変かなあって思ったけど、最後のモノローグで泣いた〉

〈この声の人、すごく優しくて温かい。プロじゃなくてこの完成度ってすごい〉

〈感情がこもってて、心に残る。私は好きです〉

〈この声じゃなきゃ、このキャラは成立しない気がする〉


 ぽろっと、何かが零れ落ちた。


 涙だった。押し込めてきた希望だった。


 読み進めるうちに涙が頬を伝い、スマートフォンの画面を濡らし、にじんで見えなくなる。


 否定された。


 でも、それを上回るくらいの肯定があった。


 届いたのだ。


 どこかの誰かに、自分の声が、想いが。


 受け入れてくれる人がいたのだ。


 ーーありがとう。

 ーーみんなありがとう。

 

 その夜、弟と電話で話した。


「ごめんね」


「なんで姉ちゃんが謝るの? 俺は全然平気だよ」


 監督はスマートフォン越しに笑っていた。悔しさもあったはずなのに、負ける気配は感じられなかった。


「最初は叩かれるの当たり前。初めて作ったやつなんて、再生十回でボロクソ。へこんだし」


 返答に詰まる茉莉に、弟は続ける。


「炎上しても俺はやる。全部受け止めて、それ以上のものを作る。姉ちゃんの声がなきゃ、この作品は完成しなかった。俺、胸張って言える」


 智哉の声は力強く、茉莉の心に染みていく。


「批判があるってことは、それだけ見られてるってことだし。何かが届いたから、誰かが何か言いたくなったんだよ。何も残らない作品には、感想すらつかないからさ」


 バイタリティの塊のような弟の言葉が、茉莉の中に火を灯した。


「やってよかった」


 心からそう思える自分がここにいた。


「姉ちゃんの声、俺が一番好きだよ。昔からずっとな」


 茉莉があの日、声を失ったあの瞬間から、ようやく心に音が戻ってきた。


 もう一度、出してみよう。


 誰かのためにも、自分のためにも。


 誰にも届かないと思っていた声は、確かに届いたのだから。



   *



 空気に冷たさが残る朝、アスファルトの隙間から小さな草の芽が出ている。陽射しはまだ弱いが、冬の間の重たげだった気配が少し軽くなり、空もどこか澄み渡って見えた。


 仕事の作業服に身を包んだ茉莉は、軽く深呼吸をする。思ったより肩に力は入っていない。


「おはようございます」


 澄んだ自分の声に、自分で驚いた。


 いつもなら、ほぼ声を出さずに深くお辞儀をする挨拶だったが、今は違う。自分の声が、冬の終わりの空気を震わせてはっきりと響いている。


「佐々木さん、おはよう。まだまだ寒いね」


 主任が穏やかに笑う。


「はい。寒いです」


 茉莉はうなずきながら、軽く微笑んだ。


 作業内容を聞き、依頼の部屋の片づけを進めていく。最近、遺品整理士の資格を取る勉強を始めた茉莉は、目の前の遺品と照らし合わせ、確認しながら手を動かした。


 思い切って、五十代のベテラン女性に教えを乞うと、現場ならではの事情や段取りを教えてもらえた。学びが、そのまま自信に変わっていく。


「茉莉ちゃん、主任の手伝いしてあげて。最近忙しいから、その可愛い声を聞いたら、きっとパワー出るわ」


 ベテランの、予想外の言葉に視線を泳がせながら、茉莉は小さく笑って立ち上がる。


 誰かに何かを伝えるという行為に、こんなにも温かさがあったのかと、目を細めた。


「これ、お願いします」


「わかった。佐々木さんはよく通る声だね。聞き取りやすくていいよ」


 主任の言葉に、過去の記憶が重なる。


『声が通る』ーーかつて『変な声』と揶揄されたことが、別の意味で返ってくる。伝えるための声として。


 誰かに声を届けることを恐れず、ほんの少しでも相手と繋がろうとする。その一歩を、今日の自分は踏み出せている。


 昼休憩が終わり、午後の作業が始まる。みんなが立ち上がった。


「わたし、奥の押し入れからします」


 その声は柔らかく、けれど芯があった。まだ冷たさの残る空気をゆっくりと溶かしていく。



   *



 子どもたちが、寒さに頬を赤くさせながらも、公園でブランコやボール遊びをしている。笑い声が冬の静けさを破っていた。


 冬の終わりを告げる風が、固く凍っていた団地の隙間をほどいていく。差し込む日差しも、どこか柔らかく長くなりかすかに春の匂いが混じっていた。


 ほんのり桜色のカーディガンを着ている茉莉は、一人、スタジオにいた。


 地域FMラジオのボランティア朗読会の募集を見つけ、応募するための仮ナレーションを録音するのだ。春から始まる活動に合わせ、初めて着た色の服に落ち着かないものの、茉莉の心は弾んでいた。


 マイクの前で肩を回し、大きく深く深呼吸を三回する。


 鞄には新しく買ったICレコーダー。


 父に語りかけるように、ひとつひとつの言葉に自分の温度を乗せていく。



 ーーお父さん、聞こえてますか。

 ーーわたしは、この声で生きていくよ。


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