ボルツ
ガラハット卿の気配はない、ネロに行くなと言われていたあの崖の様子を黙って見に行った、伯爵家が隠滅工作をしたのだろう、あるはずの死体は消えていた、無論ガラハットとシープの姿も無い、洞窟まで降りてみたかったが崖を降りる事は人間には出来そうにない、かといって飛び込む勇気も無かった。
「馬鹿なのか!?……」
ネロは呆れたのか半日口をきいてくれなかった、半泣きで謝ってようやく一言だけ 「絶対大丈夫だ、きっと戻ってくる」 自分に言い聞かせるように呟いた声は震えていた。
唐突に気づいた、ネロはシープが好きなんだ、不安なのは私だけじゃない、ネロはシープの願いに応えるために気持ちを仕舞い込んで私といるんだ。
シープがいつ戻ってもいいように二人で街と港を毎日巡回している、雑踏の風景も随分見慣れてしまった、病院は今日も人が多いが隔離施設ではない証拠に患者の出入りは自由だ、瘧も黒呪病も人からは移らないと皆知っている、聖教会の情報公開による効果だった。
しかし、この国に聖女は降臨していない、環境と治療だけでは助からない者もいた。
「もし、貴方は貴族様か?」
フェンスの撤去された中庭のベンチから声をかけられた。
「えっ、私!?」
「手紙を、代筆を頼めませんか?」
顔色が悪い大柄の男、兵士だろうか、皮膚に黒い腫瘍が出てしまっている、末期の黒呪病患者だ。
「何故私に?」
「貴族様な字も書けるのでしょう、生い先短い老兵の願いだ、頼むよ……貴方は優しそうだから」
老兵というには若い、ベンチに腰かけているのも辛そうだ、この時代の男の価値は強さが第一優先、文字の修学をしている者は少ない、女子や豪商や貴族以外の男は字を読めないのが普通だ。
「いいですよ」 気軽にOKすると、すかさず。
「おいっ!」 ネロの突っ込みが入る。
「これ位かまわないでしょ、シープならこうすると思う」
「むっ……」
男の横に腰を降ろすと紙とペンを受け取る。
「頼むよ、看護師さんたちは忙しそうで声が掛けづらくてな」
「お安い御用です、どうぞ」
( アンナ、私の事は忘れほしい、国からの報奨金を同封する、少ないがせめてもの詫びだ、好きに使ってくれ、俺は此方に好きな女が出来ちまった、帰らない事に決めた、すまない、君も誰か別な奴を愛して前に進め。
遠くから君の幸せを祈っている、我儘な俺を許してくれ )
別れの手紙だ。
「おじさん、これでいいの? 好きな人が出来たなんて嘘だよね」
「……いいんだ、彼女の人生はこれからも続く、邪魔はしたくない」
「おっさん、死ぬって決まった訳じゃないだろ、兵士なら最後まで戦えよ」
「戦力差があり過ぎる、武器無しじゃ限界があるさ、若いの、俺の名誉や尊厳なんて取るに足らない事だ、彼女を幸せにする事が重要だ、それこそが男の戦い、手段は選ばない、俺がヒーローになる必要なんてない」
「だけどな!」
納得出来ないネロは食い下がった。
「そうだね、諦めるには早い、何故なら貴方は助かるからね」
別な男の声、気配を感じなかった、視線を向けた先にいたのは少しガタイの良い冴えない中年オヤジ。
「あっ、オジキ!」
「やあネロ、久しぶりだね、大きくなったな」
「このオジサンが最強の暗殺者チェバン・ボルツ? そうは見えないけど……」
「何故オジキがニースに? あっ、任務中ですか⁉」
ネロは途中から声を潜めて顔を寄せた。
「任務? そうだな、重要な任務中だな、ネロこそ何故ここに居るんだい、こちらのお嬢さんは知り合いかな」
「えっ!」 女だとバレてる、ネロと顔を見合わせた。
「?」
冴えないオヤジは不思議そうに二人を見下ろすと 「話を聞こうか」 肩をポンッと叩いた。
最強の殺し屋が腰を降ろしたのは暖かい陽の光が注ぐ運河の畔、途中で買ったピザをランチ代わりに広げた、のどかな雰囲気に剣呑さは微塵もない。
「なるほど、サバリーニ領の騒ぎは君か、それで、そのリルフ擬体の……」
「シープ・レオーネです」
「そのシープさんはまだ戻らないのだね」
「はい、ですがきっと戻ります、強い人です」
ネロは強い人だと言葉にした、それが故意であったかは分からない、少し胸が痛い。
「まだ内緒だよ、この街の聖教会に聖女が来る、霧の祈祷を受ければどんな病気も消える、聖女が身を呈して病を痛みに代え引き受けてくれる、俺は聖女が到着するまでに病人を聖教会に集める哨戒任務中だ、ネロ、お前も手伝え」
「えっ、そんなことが戦士の任務⁉ 無理やりに遣らされているのでは! そうか、誰かを人質に取られて……オジキが仇敵のラインハウゼンに膝を付くなんておかしいと思っていたんだ! くそっ、汚い真似を!!」
鼻の頭が怒りで赤くなっている、正直に感情が顔に出る、根が正直で正義感が強い、人を騙す事は苦手だろう、暗殺者に向いているとは思えない。
「何を言っているんだいネロ、僕は聖女キリア・マキエの為に働いている、誰にも膝を付いてはいないし、ラインハウゼンに下った覚えもない、人を恨むのは簡単だ、それより信じて助ける事の方が何倍も難しい、これが本当の戦士の仕事だよ」
「!」
そう語るオヤジは冴えない中年には見えない、諭すように語る口調に棘も威圧も感じない、その優しさには辛酸を乗り越えた者の威厳と強さがある、暗殺者ではなく聖職者の様だった。
「具体的には何をすれば?」
「追われているのに手伝ってくれるのかい? いや木を隠すなら森の中、その変てこな貴族紛いよりもナース服の方が目立たないな、まず病院から患者を聖教会に荷車や馬舎を使って運ぶ、それに街を回って病人に声を掛けるんだ、明後日、ニースの聖教会に聖女様が降臨する、霧の祈祷を受ければ瘧だろうと黒呪病だろうと消える、大聖堂に集まれと広めるのさ、やってみるかい?」
「でもそんなことをしたらこの領を収める貴族が黙っちゃいないんじゃ……聖女の力が本当だとしても貴族は自分以外が力を持つことを嫌うから弾圧されるんじゃないか、騒ぎになって目立つのは困るんだ、フィーリーを狙っているのはラウド・ツェッペリ伯爵、簡単に諦めたとは思えない、シープと合流したら出来るだけ早くソーン・シティに向かいたいのだけれど」
「ソーン・シティか、いい判断だね、治外法権の街なら伯爵の権威も及ばないからね、でもここでも待ち伏せを受けたなら川を船で遡上するのは駄目だね、分かりやすすぎる、きっともう網が張られているよ」
「!」 確かに安易すぎたかもしれない、でも街道を行くのはもっと目立つし、サガル山脈の森は危険だ、どの選択が正しいのか分からない。
「じゃあ、どうすれば……」
「それも聖女に相談してみよう、キリア・マキエはソーン・シティの出身だからね、一緒に馬車で帰れるかもよ」
「聖女様が私の事なんて聞いてくれるでしょうか?」
「多分ね、キリアは涙脆いちょっと変わった女さ、会えば放っては置かれないだろうさ、ネロ、君も勉強になるよ、シープさんを待つ間に森に馴染んでおくといい」
「ああ、それとニース領の統治貴族はトマソ・デ・ロンシャン男爵、本人も祈祷に病人側で参加するから統治者の弾圧は無い、安心していいよ」
「分かりました、お手伝いします」
少し前のめりで私は応えた、母の作った病院というものを中から見てみたかったのが本音だ、祈祷で病気が消えるなんて魔法は信じていなかったけれどボルツという大人は宗教に溺れるタイプにも見えない、不思議な雰囲気を持つ男、ちょっとカッコいい。
「俺もやるよ」
暴力を最重要に考えているネロはチェバン・ボルツの話に肩透かしを食ったようで不承不承に病人の移送を手伝う事を承諾した。
「うん、いい判断だ」
ボルツは立ち上がると病院へと視線を移した、フィーリーとネロは運河の流れを見つめている、水中を歩ける、シープはそう言った、その姿が今にも水面から現れるのではと期待してしまう 「行くよ」 ボルツに声を掛けられてようやく踵を返す。
「シープ、どうか無事に帰ってきて……」
未だに冷たい水の中に居るに違いない妹の無を祈って蒼穹の空をフィーリーは見上げた。




