第9話 咲いた星花
耳を劈くような風の音が、嘘のように消えていた。
嵐が去ったのだ。
私は強張っていた指の力を、ゆっくりと緩めた。感覚のなくなった手が、泥だらけの支柱から離れていく。
膝が笑っている。いや、全身の筋肉が悲鳴を上げて、立っていることさえ不思議なくらいだ。
「……終わった、のか」
背後から、掠れた低い声が聞こえた。
振り返ると、エリオット侯爵が大きく息を吐き出しているところだった。
あの完璧な身なりだった彼が、今は頭から爪先まで泥まみれだ。髪は濡れて額に張り付き、頬には泥跳ねがついている。
けれど、その瞳だけが、昇り始めた朝日を受けて鋭く輝いていた。
「エリオット様……」
声をかけようとして、喉が焼けるように痛むのに気づく。
一晩中、風に負けじと叫び続けたせいだ。
「花は……花は、どうなったんでしょうか」
私の問いに、彼が顎で前方をしゃくった。
ゆっくりと、夜の闇が薄れていく。
雲の切れ間から差し込んだ黄金色の光が、広場をサーッと照らし出した。
そこには、倒れかけた防水シートの壁があった。
あちこちに穴が開き、泥水が溜まっている。
恐る恐る、壁の向こう側を覗き込む。
「……あ」
息を飲んだ。
青かった。
視界いっぱいに、鮮烈な青色が広がっていた。
五百株の星花が、朝露を宝石のように纏い、一斉に蕾を開き始めていたのだ。
嵐のストレスが引き金になったのか、それともたっぷりと吸った雨水のおかげか。
花弁の一枚一枚が、内側から発光しているかのように力強く開いていく。
それは、私が今まで見たどの星花よりも深く、美しい青だった。
「信じられねえ……」
へたり込んでいたカイルが、よろよろと立ち上がり、目を丸くした。
「おい、見ろよルチア。あんなボロボロの壁の下で、茎一本折れてねえぞ。……本当に守りきりやがった」
カイルの声が震えている。
懐疑的だった彼の目にも、涙が光っているのが見えた。
守れた。
本当に、守れたんだ。
張り詰めていた緊張の糸が、プツンと切れた。
途端に、世界がぐらりと回る。
「あっ……」
足の力が抜け、地面が迫ってくる。
受け身を取る余裕もない。泥の中に顔から突っ込む――そう覚悟した瞬間だった。
ガシッ。
強い力で、腕を引かれた。
「おい、しっかりしろ」
倒れ込んだ先は、冷たい泥ではなく、温かくて硬い胸板だった。
エリオット侯爵が、私を抱き止めてくれていた。
彼の服から漂う雨と土の匂いが、なぜだかとても懐かしくて、安心する匂いに感じられる。
「す、すみません……腰が抜けちゃって」
顔を上げると、至近距離に彼の瞳があった。
いつもなら氷のように冷たいその色が、今は陽射しを溶かし込んだように柔らかい。
「謝るな。……お前が支えていたから、俺も立てたんだ」
不器用な慰めの言葉。
その響きが胸に染みて、私は思わず涙ぐんでしまった。
貴族と平民。本来なら言葉を交わすことさえ稀な二人が、泥だらけになって抱き合っている。
それがおかしくて、尊くて。
「うおおおおおおっ!」
突然、広場の外から割れんばかりの歓声が上がった。
夜明けと共に様子を見に来た街の人々が、満開の花畑を目撃したのだ。
歓喜の波が、私たちの方へと押し寄せてくる。
「やったぞ! 祭りは開催だ!」
「すげえ! 本当に咲いてる!」
「おい、あそこにいるの、侯爵様じゃないか!?」
人々が駆け寄ってくる。
口々に感謝と称賛を叫びながら、私たちを取り囲んだ。
子供たちが跳ね回り、大人たちが帽子を振る。
普段なら「氷の侯爵」と恐れて近寄らない人々が、今は彼を英雄として見ていた。
「侯爵様! あんたが先頭で土を掘ってくれたって聞いたぞ!」
「昨日の嵐の中も、ずっと壁を支えてたんだってな!」
「ありがとう! ありがとう侯爵様!」
拍手と口笛。
エリオット侯爵は、かつてない事態に直面し、完全に硬直していた。
「……え、あ、いや……俺は……」
彼の視線が泳ぐ。
あの堂々とした態度はどこへやら、彼はなんと、私の背中に隠れるように半歩下がったのだ。
大きな体を小さくして、居心地悪そうに身を縮めている。
――可愛い。
失礼ながら、そう思ってしまった。
何万人もの軍を指揮するよりも、無邪気な感謝の言葉を浴びるほうが、彼には難易度が高いらしい。
「ふふっ」
私は彼を振り返り、小さく笑った。
「逃げちゃダメですよ、エリオット様。これは、あなたがまいた種が咲かせた花ですから」
私の言葉に、彼は渋面を作り、それから諦めたように息を吐いた。
そして、覚悟を決めたように一歩前へ出ると、ぎこちなく片手を上げた。
ワァァァァッ!
一層大きな歓声が上がり、朝の広場に響き渡る。
満開の青い星花。
そして、その中心で困ったように笑う「氷の侯爵」。
その光景は、どんな宝石よりもキラキラと輝いて、私の瞼に焼き付いた。
ああ、神様。
この人が笑ってくれるなら、泥だらけになるのも悪くない。
私は疲労で重たい体を彼に預けたまま、心の中でそっと感謝を捧げた。




