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令嬢の花屋は今日も平和です ~静かな侯爵様とのやさしい恋~  作者: 九葉(くずは)


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第8話 嵐の中の二人

 叩きつける雨粒が、まるで無数の小石のように頬を打ち据えている。

 視界は白く煙り、広場の街灯すら滲んだ光の点にしか見えない。耳元で轟音を立てる風が、私の叫び声を容赦なくかき消していく。


「ルチア! もう無理だ、下がれ!」


 カイルの声が遠く聞こえた。

 私は首を横に振った。泥水が跳ね返り、口の中に鉄の味が広がる。

 下がれない。

 目の前では、隣町から必死で運んで設置した防水シートの壁が、風を孕んで大きく膨らみ、今にも悲鳴を上げそうに軋んでいる。この壁が倒れれば、その下にある星花は全滅だ。


「……お願い、耐えて!」


 私は杭の根本にしがみつき、全体重をかけて支柱を抑え込んだ。

 泥濘む地面にブーツが沈む。冷たい雨が服を通り越し、骨の髄まで凍らせていく。

 移植したばかりの五百株。やっと緑を取り戻した小さな命たち。

 指先の感覚が消えていく。それでも、離すわけにはいかなかった。


 バリッ、という乾いた音が轟音の中に混じる。

 一番風当たりの強い中央の支柱に、亀裂が入った音だ。


「あっ……!」


 支えきれない。

 突風が壁を押し込み、私の体ごと後方へ吹き飛ばそうとする。

 重い。自然の暴力はあまりにも圧倒的で、私の一人分の体重なんて木の葉と同じだ。

 視界が傾く。

 ああ、ダメだ。壁が倒れる。花が潰れる――。


 その瞬間だった。


 ドンッ。

 背中に、岩のような衝撃と温かさがぶつかってきた。


「……っ!」


 私の体が、強引に元の位置へと押し戻される。

 背後から伸びた太い腕が、私の手の上から支柱をガシリと掴んだ。

 黒い革手袋。水浸しになりながらも、そのグリップ力は万力のように揺るがない。


「エ、エリオット様……?」


 振り返ろうとする私を、耳元で響いた低い声が制した。


「前を見ろ。気を抜けば持っていかれるぞ」


 背中全体を覆う彼の体温。

 エリオット侯爵が、私ごと支柱を背中で受け止め、仁王立ちになっていた。

 彼自身の体重と筋力が加わったことで、軋んでいた壁がピタリと安定する。


「でも、これじゃあ貴方が……!」


 私は叫んだ。

 この暴風雨の中、身一つで壁になるなんて正気じゃない。

 飛んでくる木の枝や瓦礫が、彼の広い背中を容赦なく打っているはずだ。


「無駄口を叩くな。……呼吸を合わせろ」


 彼は私の抗議を一蹴した。

 密着した背中から、彼の心臓の音が伝わってくる。

 ドクン、ドクンと規則正しく、力強いリズム。

 不思議だ。こんな極限状態なのに、その音を聞いているだけで、凍えていた私の震えが止まっていく。


「……はい!」


 私は再び前を向き、支柱を握り直した。

 彼の大きな手が、私の小さな手を包み込むように重ねられる。

 冷たい雨の中で、そこだけが火傷しそうなほど熱かった。


 時間は永遠のように感じられた。

 風が唸りを上げ、何度も壁を揺らす。そのたびに、背後の筋肉が鋼のように硬直し、衝撃を耐え忍ぶのが分かる。

 彼は一歩も引かない。

 「氷の侯爵」と呼ばれる彼が、今は泥だらけになって、燃えるような熱で私と花を守っている。


「……おい、ルチア、侯爵様! こっちも補強が終わった!」


 カイルの声が聞こえた。

 見れば、彼や街の男たちが、反対側からロープで壁を固定している。

 みんな、逃げずに戦ってくれている。


「あと少しだ……! 夜明けまで、持たせるぞ!」


 エリオット様の裂帛の気合いが響く。

 私は頷き、彼の手の中で自分の指に力を込めた。


 嵐の咆哮は続いている。

 けれど、もう怖くなかった。

 私たちが繋いでいるのは、ただの木の棒じゃない。

 この街の誇りと、小さな命の未来だ。


 ――絶対に、離さない。


 泥水が目に入り、痛む。

 感覚のない足が悲鳴を上げる。

 それでも、背中に感じる温かさがある限り、私は何度でも踏ん張れると確信していた。

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