第7話 雨の予兆
不器用な手つきで作られたシロツメクサの残骸が土に還ってから、三日が過ぎた。
星花祭の前日。
広場の中央花壇には、鮮やかな緑色が戻ってきていた。あの大掛かりな土壌入れ替え作戦は成功し、瀕死だった五百株の星花は、奇跡的に首をもたげていた。
「……よかった。茎もしっかりしてる」
私は花壇の縁にしゃがみ込み、一株の葉を指先でそっと撫でた。
冷んやりとした感触と共に、植物特有の瑞々しい張りが指の腹に伝わってくる。
徹夜の作業で体は鉛のように重いが、この感触だけで疲れが半分ほど溶けていく気がした。
広場では、明日の本番に向けて屋台の準備が進んでいる。
金槌を叩く音、笑い声、焼き菓子の甘い匂い。
平和な光景だ。
けれど、立ち上がった瞬間、頬を撫でた風に違和感を覚えた。
――ぬるい。
秋晴れの爽やかさがない。湿気をたっぷり含んだ、重たい空気が肌にまとわりつく。
「おいルチア! まだ花を見てるのか?」
資材を運んでいたカイルが、呆れたように声をかけてきた。
私は振り返り、眉を寄せる。
「カイル……ねえ、風が変わったと思わない?」
「風? ああ、ちょっと生温かいな。でも、いい天気じゃないか」
カイルは眩しそうに青空を見上げた。
確かに、頭上には雲ひとつない快晴が広がっている。
だが、私の花屋としての直感が、微かな警鐘を鳴らしていた。この湿度は、ただ事じゃない。
その時、広場の掲示板に新聞配達の少年が新しい号外を貼り付けた。
私は胸騒ぎを覚えて駆け寄る。
インクの匂いが新しい紙面には、太い見出しが踊っていた。
『西方沖に低気圧発生――今夜半、“竜の背嵐”が通過の恐れ』
血の気が引いた。
指先が急速に冷たくなる。
「嘘……竜の背嵐って、あの?」
数年に一度、屋根瓦を吹き飛ばすほどの暴風雨をもたらす気象現象だ。
もしそんなものが今夜来たら。
私は恐る恐る、背後の花壇を振り返った。
植え替えたばかりの星花。根はまだ新しい土に馴染んでおらず、地面を掴む力は弱い。
「……全部、流される」
口に出した瞬間、最悪の想像が脳裏を埋め尽くした。
土ごと抉られ、泥水に流される青い花。
私たちが泥だらけになって繋いだ希望が、一夜にして無に帰す。
「いやいや、大げさだってルチア」
追いついてきたカイルが、私の肩を軽く叩いた。
彼は号外を覗き込み、鼻で笑う。
「予報だろ? 外れることもあるさ。見てみろよ、この空を。雲ひとつないのに、嵐なんて来るわけがない」
カイルの言うことはもっともだ。
広場の人々も、号外を一瞥しただけで作業に戻っている。誰も本気にしていなかった。
でも。
私はエプロンの裾をギュッと握りしめた。
花屋にとって、天気は死活問題だ。だからこそ分かる。このねっとりとした風の味は、間違いなく嵐の前触れだ。
「……来るわ。外れたらそれでいい。でも、もし来たら取り返しがつかない」
「だからって、どうするんだよ。広場全体を屋根で覆うなんて無理だぞ」
カイルが困惑の声を上げる。
私は唇を噛み締め、思考を巡らせた。
屋根は無理でも、風除けの壁と、雨を逃がす溝、それに苗を支える支柱があれば、生存率は上がるはずだ。
だが、資材がない。手持ちの道具はすべて使い切ってしまった。
「……買い出しに行くわ。防水シートと杭、あるだけの支柱が必要よ」
「今からか!? 卸問屋は隣町だぞ、往復だけで半日かかる!」
カイルの指摘通りだ。
私の足では間に合わない。荷馬車を手配している時間もない。
焦りが喉元までせり上がってくる。
どうすれば。誰に頼めば。
「乗れ」
唐突に、頭上から短い声が降ってきた。
ビクリと肩を震わせ、顔を上げる。
そこには、黒い馬の手綱を握り、馬上から私を見下ろすエリオット侯爵がいた。
いつものフロックコートではなく、今日は動きやすそうな乗馬服を着ている。
そのアイスブルーの瞳は、私と同じように西の空を睨んでいた。
「エ、エリオット様……?」
「嵐が来る。西の空の色が悪い」
彼は短く断言した。
カイルや他の誰も気づかなかった空の微かな濁りを、彼だけは見抜いていたのだ。
その事実に、胸の奥が熱くなる。
この人は、同じ危機感を共有してくれている。
「資材が必要なんだろう? 私の馬なら、隣町まで一時間で往復できる」
彼は大きな手を差し出した。
革手袋の皺ひとつひとつが、私に決断を促している。
貴族の馬に平民が乗るなんて、不敬極まりない。けれど、今はそんなことを言っている場合じゃなかった。
「……お願いします! 花を、守りたいんです」
私は彼の手を掴んだ。
強い力で引き上げられ、次の瞬間には彼の腕の中、鞍の前におさまっていた。
背中に感じる彼の体温と、硬い胸板の感触。
心臓が早鐘を打ったが、それは恐怖ではなく、頼もしさへの高鳴りだった。
「しっかり掴まっていろ。……舌を噛むぞ」
低い警告と共に、彼が手綱を振るう。
馬がいななき、石畳を蹴った。
景色が後方へ吹き飛ぶような加速。
私は必死に鞍にしがみつきながら、叫んだ。
「カイル! 広場の排水溝をさらっておいて! 戻るまでに準備をお願い!」
呆然と立ち尽くすカイルが、慌てて頷くのが視界の端に見えた。
風が唸りを上げて耳元を過ぎていく。
馬の背のリズムに合わせて、私の焦りも加速していく。
空はまだ青い。
けれど、西の地平線には、不気味なほど濃い灰色の雲が、蛇のように鎌首をもたげ始めていた。
「……間に合わせる」
耳元で、エリオット様の呟きが聞こえた。
その声には、侯爵としての威厳ではなく、一人の人間としての執念が滲んでいた。
私は頷き、前を見据えた。
大丈夫。この人と一緒なら、きっと間に合う。
迫り来る嵐の匂いの中で、私は固く拳を握りしめた。




