第6話 小さな迷子と花冠
スコップを握る手のひらに、豆が潰れた痛みが鈍く響いている。
広場の土壌入れ替え作業は佳境を迎えていた。大人たちが声を掛け合い、土嚢を運び、シャベルを振るう熱気で、日が傾き始めた広場は蒸し暑いほどだった。
私は額の汗を袖で拭い、腰を伸ばした。
視界の端には、泥だらけのシャツで黙々と鍬を振るうエリオット侯爵の背中がある。その姿を見るたび、胸の奥が熱くなるのを抑え、私はまたシャベルを握り直そうとした。
その時だった。
重機材の音や大人たちの怒号の合間を縫って、細い音が耳に届いた。
「……えーん、うえぇぇぇん!」
子供の泣き声だ。
私は手を止め、周囲を見渡した。
資材置き場の陰、積み上げられた古い土嚢の裏に、小さな影がうずくまっている。
「迷子……?」
作業の騒ぎに巻き込まれて親とはぐれたのだろうか。
私はシャベルを置き、駆け寄った。
三歳くらいの男の子だ。泥で汚れた膝を抱え、顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「どうしたの? ママとはぐれちゃった?」
私が屈み込んで声をかけると、男の子は涙で濡れた顔を上げ、私を見た。
そして、私の背後を見て、さらに大きく目を見開いた。
「ひぃっ……!」
男の子が怯えて後ずさる。
振り返ると、いつの間にかエリオット様が私の後ろに立っていた。
泥だらけのシャツ、乱れた髪、そして眉間に刻まれた深い皺。手には大きな鍬。
どう見ても、これから悪党を埋めようとしている処刑人にしか見えない。
「……泣き止まないな」
低く響く声。
男の子の震えが止まらなくなる。
「エ、エリオット様! 顔、顔が怖いです! 鍬も下ろしてください!」
私は慌てて彼の前に立ちはだかった。
彼は不服そうに眉を寄せたが、大人しく鍬を地面に置いた。
「俺はただ、様子を見にきただけだ」
「その威圧感が逆効果なんです……」
ため息をつき、私は再び男の子に向き直った。
ただ言葉で慰めるだけでは、この恐怖と不安は拭えない。何か、彼の気を逸らすものが必要だ。
視線を巡らせると、足元に作業で掘り返されたばかりの雑草の山があった。その中に、まだ元気なシロツメクサが混じっている。
これだ。
私は数本のシロツメクサを抜き取った。
「見ててね。今、魔法をかけてあげるから」
男の子が泣き止み、鼻をすすりながら私の手元を見る。
茎を交差させ、編み込んでいく。慣れた手つきで次々と花を繋げると、あっという間に白い輪が出来上がった。
「はい、どうぞ。勇者の冠よ」
男の子の頭に花冠を乗せる。
彼は目をぱちくりさせ、小さな手で頭の花に触れた。
「……ゆうしゃ?」
「そう。これを被ってると、ママがすぐに見つけてくれるの」
男の子の表情が、不安から好奇心へと変わっていく。
よし、この調子だ。
私は後ろのエリオット様を振り返った。
「エリオット様も、手伝ってください。もう一つ作れば、もっと強くなれますから」
「……俺が?」
彼は怪訝な顔をしたが、私の「子供のためです」という視線に負け、渋々屈み込んだ。
長い指が、小さなシロツメクサを摘む。
「こうやって、茎を編んで……」
私が手本を見せる。
彼は真剣な顔で手元を睨みつけ、茎を交差させた。
プチッ。
無慈悲な音がして、茎が千切れた。
「…………」
沈黙。
彼は無言で千切れた花を見つめ、新しい花を手に取った。
今度は慎重に、まるで爆弾処理のような緊張感で指を動かす。
プチッ。
また千切れた。
「……この草は、強度が足りないのではないか」
ボソリと呟く彼に、私は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
「力、入れすぎです。もっと優しく、卵を持つみたいに」
彼は眉間の皺をさらに深くし、三本目に挑んだ。
あの巨大な肥料袋を軽々と運んだ剛腕が、たかだか数ミリの草の茎に翻弄されている。そのギャップが、たまらなく人間らしくて、愛おしい。
「……くそ、なぜ繋がらない」
悪戦苦闘する侯爵様。
その必死な様子がおかしかったのか、男の子が「きゃはっ」と笑い声を上げた。
「おじちゃん、へたっぴ!」
男の子の無邪気な指摘に、エリオット様がバッと顔を上げる。
怒るかと思いきや、彼は困り果てたように肩を落とした。
「……面目ない」
その一言で、その場の空気がふわりと緩んだ。
私も、男の子も、そして周囲で様子を伺っていた作業員たちも、一斉に笑った。
「ルチアさん! ここにいたのか!」
人垣をかき分けて、蒼白な顔をした母親が駆け寄ってきた。
男の子は「ママー!」と叫んで飛びついていく。
頭の上で、私が作った花冠が揺れていた。
「よかったですね」
私が言うと、エリオット様は手の中にある無残な残骸――ぐしゃぐしゃになったシロツメクサの塊を、気まずそうに見つめていた。
「……俺には、向いていないようだ」
彼はそう言って、残骸をそっと土に戻した。
私は首を横に振った。
「そんなことありません。その子が笑ったのは、あなたが一生懸命だったからですよ」
花冠は作れなかったけれど、彼は確かにその場の空気を「安心」に変えたのだ。
私の言葉に、彼は少しだけ目を見開き、それからふいと顔を背けた。
「……休憩は終わりだ。作業に戻るぞ」
耳が赤い。
立ち上がって鍬を握り直す彼の背中を見上げながら、私は胸の鼓動が少し早くなっているのを感じた。
泥だらけで、不器用で、子供に「へたっぴ」と言われて落ち込む侯爵様。
完璧に見えた「氷の侯爵」の鎧の隙間から、温かい素顔が覗いている。
作業の遅れは痛い。
けれど、この数十分は決して無駄ではなかった。
遠くで母親に手を引かれる男の子が、振り返って手を振った。
エリオット様は気づかないふりをしていたが、その鍬を振るうリズムが、先ほどよりも少しだけ軽快になっているのを、私は見逃さなかった。




