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令嬢の花屋は今日も平和です ~静かな侯爵様とのやさしい恋~  作者: 九葉(くずは)


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第11話 星花祭の夜

 店を一歩出た瞬間、光と音の奔流が私たちを飲み込んだ。

 普段は静かな石畳の通りが、無数のランタンと魔法灯で昼間のように輝いている。楽隊が奏でるリュートの軽快なリズム、屋台から漂う焦がし砂糖とスパイスの香り、そして行き交う人々の笑い声。

 すべてが混ざり合い、熱気となって肌を撫でていく。


「……すごい人ですね」


 私は繋がれた手に思わず力を込めた。

 エリオット侯爵の大きな手は、温かく、そして微動だにしない。彼のエスコートは完璧で、混雑する人波をまるで海を割るようにスムーズに進んでいく。


 ただ、一つだけ問題があった。

 視線だ。

 すれ違う人々が、次々と目を丸くして振り返る。


「おい、あれって……」

「アークライト侯爵様だ。隣にいるのは誰だ?」

「あの花屋の娘じゃないか? なんとお美しい……」


 好奇心、驚嘆、そして憧憬。

 無遠慮な視線が矢のように降り注ぐ。私は慣れないドレスの裾をぎゅっと握りしめ、身を小さくした。

 やっぱり、場違いだったかもしれない。

 深紅のベルベットを着こなす彼は、夜の闇の中でも圧倒的な存在感を放っている。その隣に、タンポポのような古着のドレスを着た私が並んでいるなんて、滑稽に見えていないだろうか。


「……顔を上げろ」


 不意に、耳元で低い声がした。

 びくりと震えて見上げると、エリオット様が前を見据えたまま、私の方へわずかに体を傾けていた。


「堂々としていればいい。君は今日、誰よりもこの祭りにふさわしい功労者だ」


「で、でも……」


「それに」


 彼は言葉を切り、少しだけ言い淀んでから、そっぽを向くようにして続けた。


「……そのドレスは、よく似合っている。隠すのは惜しい」


 ドクン、と心臓が大きな音を立てた。

 頬が一気に熱くなる。

 この人は、どうしてこうも不意打ちで心臓に悪いことを言うのだろう。

 でも、その言葉のおかげで、縮こまっていた背筋が自然と伸びた。

 彼がそう言ってくれるなら、胸を張ろう。私は今日、彼のパートナーなのだから。


 広場へ向かう道すがら、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

 串焼きの屋台だ。鶏肉が炭火で焼ける音と脂の爆ぜる音が、食欲を刺激する。


「あ、美味しそう……」


 無意識に漏れた私の呟きに、エリオット様が足を止めた。

 彼は屋台をまじまじと見つめ、眉間に深い皺を刻んだ。


「……これは、なんだ?」


 え?

 私は瞬きをして彼を見た。


「えっと、串焼きです。鶏肉をタレに漬け込んで焼いたもので……まさか、ご存知ないのですか?」


「焼いた肉は知っているが、このように串に刺して往来で売られているのは見たことがない」


 真顔だった。

 そういえば、彼は名門貴族の当主だ。食事といえば銀の食器で恭しく運ばれてくるものしか知らないのかもしれない。

 お祭りを知らない子供のような彼の反応に、私は思わず口元を緩めた。


「食べてみますか? 行儀は悪いですけど、とっても美味しいんですよ」


 私が提案すると、彼は少し躊躇った後、小さく頷いた。

 屋台の店主にお金を払い、熱々の串焼きを二本受け取る。

 一本を彼に渡すと、彼はそれを剣か何かのように慎重に持ち、しげしげと観察してから、恐る恐る口に運んだ。


 ハムッ。

 彼が一口齧る。

 咀嚼する動きに合わせて、鋭い顎のラインが動く。

 ゴクリと飲み込んだ後、彼のアイスブルーの瞳が、驚きに見開かれた。


「……美味い」


「でしょう?」


 私は得意げに笑って、自分も串焼きにかぶりついた。

 甘辛いタレの味が口いっぱいに広がる。

 彼が二口目を急ぐように食べる姿を見て、胸の奥がくすぐったくなった。

 「氷の侯爵」が、道端で串焼きを食べている。その事実だけで、この祭りが特別なものに感じられた。


 けれど、楽しい時間は常に波風と隣り合わせだ。

 広場に近づくにつれ、貴族階級の人々の姿も増えてきた。彼らは平民とは違い、扇子で口元を隠しながら、冷ややかな視線を向けてくる。


「まあ、アークライト侯爵様じゃなくて?」

「ええ、でもお連れの方が……どこの馬の骨かしら」

「平民の娘を連れ歩くなんて、アークライト家も地に落ちたものね」


 ひそひそとした囁き声が、風に乗って耳に届く。

 串焼きの味が、急に砂のように感じられた。

 胃の腑が冷たくなる。

 やっぱり、私が隣にいることで、彼の名誉を傷つけてしまっている。

 繋いだ手を、そっと離そうとした。


 だが、指が離れるより早く、彼の手が私の手を強く握り直した。

 痛いほど強く。


「……エリオット様?」


「気にするな」


 彼は視線だけで周囲の貴族たちを一瞥した。

 その眼光は、まさに「氷の侯爵」そのもの。絶対零度の冷徹さを宿し、無言で「口を慎め」と威圧した。

 囁き声がピタリと止む。

 貴族たちは青ざめて、そそくさと道を空けた。


「行くぞ。……俺が見たいのは、雑音ではなく花だ」


 彼は前だけを見て歩き出した。

 その横顔は厳しかったけれど、繋いだ掌からは、不器用な優しさがじんわりと伝わってくる。

 守られている。

 その事実に、胸が締め付けられるように切なくなった。

 私は必死に足をついていく。離されないように、置いていかれないように。


 人混みを抜けると、視界が一気に開けた。

 中央広場。

 そこには、私たちが泥だらけになって守り抜いた星花が、満開の時を迎えていた。


「わぁ……」


 息を飲む。

 五百株の青い花が、魔法灯の光を受けて幻想的に輝いている。

 まるで夜空の星が地上に降りてきたようだ。

 その青い絨毯の周りで、多くのカップルが手を取り合い、幸せそうに踊っている。


 私たちは言葉を失い、その光景に見入った。

 昨日の嵐が嘘のように、花々は静かに、誇らしく咲き誇っている。


「……綺麗だ」


 エリオット様がポツリと呟いた。

 私は彼を見上げる。

 彼の瞳の中に、青い花畑と、そして私の姿が映っているのが見えた。

 ランタンの灯りに照らされた彼の表情は、今まで見たどの顔よりも穏やかで、そして少しだけ寂しそうに見えた。


 ――ああ、この時間がずっと続けばいいのに。

 

 叶わない願いだと知りながら、私は握られた手に力を込めた。

 祭りの音楽が、遠く響いている。

 二人の影が、青い花の上に長く伸びて重なっていた。

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