第10話 祭りの準備とドレス
瞼の裏に、あの鮮烈な青色がまだ焼き付いている。
朝日の中で一斉に開いた五百株の星花。その奇跡のような光景を思い出すだけで、泥のように重かった体の節々が、不思議と熱を帯びるようだった。
数時間の仮眠から目覚めた私は、いつも通り店のカウンターに立っていた。
窓の外はお祭り騒ぎだ。
通りには色とりどりのリボンが飾られ、楽隊の笛の音がどこからともなく聞こえてくる。行き交う人々は皆、晴れ着に身を包み、手にはパートナーへ贈るための花を持っている。
「……平和だなぁ」
私は淹れたてのハーブティーを啜り、ほっと息をついた。
嵐の中の激闘が嘘のようだ。
店の中は静かで、花の香りに満ちている。これが私の日常。これでいい。
「おい、ルチア。まさかとは思うが」
呆れた声と共に、カイルが店に入ってきた。
彼は珍しくパリッとしたシャツを着て、髪も整えている。
「お前、その格好で祭りを過ごす気じゃないだろうな?」
カイルの指先が、私の土汚れの落ちきっていないエプロンを指した。
私はカップを置き、苦笑する。
「だって、店を開けておかないと。祭りでお花が必要な人が駆け込んでくるかもしれないし」
「嘘つけ。単に一緒に行く相手がいないから、逃げてるだけだろ」
カイルの容赦ない言葉に、私はうっと詰まる。
図星だった。
星花祭は、恋人や大切な人と過ごすのが通例だ。幼馴染のカイルには既に意中の相手がいるし、私にはそんな浮いた話は一つもない。
「い、いいのよ。私は花屋なんだから、みんなの恋を応援するのが仕事なの」
私は強がりを言って、エプロンの裾をぎゅっと握った。
心のどこかで、あの泥だらけの背中を思い出している自分を振り払うように。
彼は侯爵様だ。今夜はきっと、貴族の方々と優雅な舞踏会に出ているはず。私のような平民の娘が、図々しく期待していい相手じゃない。
カラン、コロン。
その時、ドアベルが鳴った。
思考を中断され、私は反射的に「いらっしゃいませ」と顔を上げた。
そして、固まった。
「……店は、開いているか」
そこに立っていたのは、エリオット侯爵だった。
泥だらけだった作業着姿ではない。
深紅のベルベットの礼服に身を包み、首元には精緻なレースのタイ。完璧に整えられた銀髪が、午後の日差しを受けて輝いている。
あまりの美しさに、店内が一瞬で王宮の一室になったかのような錯覚を覚えた。
「エ、エリオット様!? ど、どうしてここに……?」
私が動揺して声を裏返らせると、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……公務が終わった。開会宣言をしてきたところだ」
「あ、お疲れ様です。……それで、お花のご用命でしょうか?」
私がカウンターから出ようとすると、彼が片手を上げて制した。
「いや、違う。……花ではなく、人を誘いに来た」
「人?」
私が首を傾げると、カイルが後ろで「鈍感!」と小声でツッコミを入れるのが聞こえた。
エリオット侯爵は咳払いを一つして、私を真っ直ぐに見据えた。
そのアイスブルーの瞳には、嵐の中で支え合った時と同じ、真摯な熱が宿っていた。
「ルチア嬢。もし予定が空いているなら……今夜の祭りを、私と一緒に回ってくれないか」
時が止まった。
手の中のティーカップがカタリカタリと小さく震える。
え? 今、なんて?
「わ、私と、ですか? で、でも、私は平民ですし、服もこんな……」
私が慌てて自分のエプロンを示すと、彼は眉を寄せた。
「身分など関係ない。あの花を咲かせたのは君だ。……君の隣で、あの青を見たい」
殺し文句だった。
そんなことを言われて、断れるはずがない。
私の顔が一気に熱くなる。心臓が早鐘を打ち、言葉が出てこない。
「よし、交渉成立だな!」
沈黙を破ったのはカイルだった。
彼はパンと手を叩き、ニヤリと笑った。
「侯爵様、少し時間をください。このまま連れて行くわけにはいかないでしょう? ……おい、みんな! 出番だぞ!」
カイルが裏口に向かって叫ぶと、ドカドカという足音と共に、近所のおば様たちが雪崩れ込んできた。
パン屋の奥さん、仕立て屋のマダム、雑貨屋の女将さん。
みんな、なぜか満面の笑みで、手には櫛や化粧道具を持っている。
「ま、待って! 何これ!?」
「何って、決まってるじゃない! あんたを『侯爵様の隣』仕様に磨き上げるのよ!」
仕立て屋のマダムが私の腕を掴む。
あれよあれよと言う間に、私は店の奥の自室へと連行された。
「ちょ、ちょっと! エリオット様が待ってるのに!」
「男は待たせておけばいいのよ!」
バタン、と扉が閉められる。
取り残されたエリオット様が、ぽかんと口を開けているのが隙間から見えた。
狭い部屋で、私は着せ替え人形になった。
エプロンを剥ぎ取られ、顔を洗われ、髪を結い上げられる。
クローゼットの奥から引っ張り出されたのは、母が若い頃に着ていたという、淡い黄色のドレスだった。
古いけれど、丁寧に手入れされたシルクの生地。
「これ、サイズ大丈夫かしら……」
私が不安げに呟くと、マダムが背中の紐をギュッと締めた。
「息を吸って! ……よし、入った! 古いデザインだけど、今のあんたにはぴったりよ」
鏡の前に立たされる。
そこに映っていたのは、いつもの地味な花屋の店主ではなかった。
ふわりと広がる黄色のドレスは、まるで一輪のタンポポのよう。アップにした髪からは、白いうなじが覗いている。
「……これが、私?」
鏡の中の自分に触れる。
慣れない姿に、恥ずかしさと、微かな高揚感が湧き上がってくる。
これなら、彼の隣を歩いても、少しは恥ずかしくないだろうか。
「さあ、行ってきな! 王子様が待ちくたびれてるよ!」
背中をバンと叩かれ、私はよろめきながら店へと押し出された。
カウンターの前で手持ち無沙汰に待っていたエリオット侯爵が、私を見て動きを止めた。
その瞳が、わずかに見開かれる。
「…………」
無言。
やっぱり変かな。
不安になって視線を伏せようとした時、彼が口元を手で覆い、小さく咳払いをした。
「……似合っている」
声が、少し掠れている。
耳の端が赤い。
その反応だけで、私の不安は吹き飛び、代わりに甘い痺れが胸を満たした。
「行こう、ルチア」
差し出された手。
今度は、泥だらけの手袋越しではない。素手の温かさが、私の指先に触れる。
私は深く頷き、その大きな手を握り返した。
「はい、エリオット様!」
外からは、祭りの喧騒が一層大きく聞こえてくる。
カイルやおば様たちが、ガラス越しに親指を立てて見送ってくれる中、私たちは光溢れる街へと一歩を踏み出した。




